25.切歯扼腕






 町は今日も賑わっていた。教師と生徒の心中事件からマスコミが其処此処に溢れてはいるけれど、殆どの人々は普段通りの生活を続けている。
 夕暮れが商店街を包み込む。下校する霖雨の目は険しい。けれど、隣を歩く樋口は気にする素振りも無く鼻歌交じりに通り過ぎる人々に目を遣っていた。


「Lsってのは、此処等一帯を縄張りにしてる暴走族です」


 思い出したように口にする樋口に、霖雨は視線すら向けない。その目は真っ直ぐ前を見るだけだ。


「暴力団の後ろ盾は勿論、五十人を越える部下を統率するヘッドの伊庭は相当なイカレ野郎でしてね。退屈凌ぎに適当な一般人を捕まえては処刑と名付けてリンチしたり、民家を襲撃したり、麻薬の密売にも一枚噛んでると噂されてます。何年か前に、レイプした女の子を閉じ込めた廃屋に放火して、殺したとか言われていますが……真実は闇の中です」
「そんな奴が、何で野放しになってるんだ」
「親が衆議院議員でね、警察も簡単に手出しは出来ないんですよ」


 下らない。声には出さず、霖雨は溜息を零した。
 札付きの悪党が野放しになっていて、更にそれが驟雨の旧友だというのだ。人の過去など知ったことではないけれど、あの時の驟雨の様子はおかしかった。無力な自分に何か相談してくれと言うのは無茶な話だけれど、香坂にすらだんまりと決め込む驟雨の考えが霖雨には読めない。
 樋口が言った。


「あんたは知らないでしょうけど、桜丘驟雨と言えばとんでもない暴れ者として有名だったんです。脅迫や恐喝、暴力も振るう伊庭と同じような人間でした。あんなに穏やかな今が正直信じられないんですよ。だからね、昔のあの人を知ってる人なら誰もが思うでしょうね。やっぱりなって」


 血の霧雨などという通り名が、普通に生きていて定着するものは思えない。それは事実だ。
 驟雨の過去なんて知らないし、あれが本来の姿なのかも知れない。彼処が驟雨の本当の居場所なら、自分には何も出来ない。
 俺に何が出来るだろう。
 人の溢れる商店街を抜け、裏通りに入る。携帯の通じない驟雨に会えないだろうかと樋口に話したところ、裏通りのゲームセンターで驟雨の目撃情報があったとのことだった。目的の場所は随分と寂れた、潰れかけの建物だった。薄暗い店内に安っぽいゲームの音が虚しく鳴っている。時折聞こえる笑い声が、煙草の煙に濁った世界に響いていた。


「あの人に会ってどうするつもりですか?」


 罅割れたガラスケースの向こうで、正体不明のぬいぐるみが笑っている。クレーンゲームは点滅して稼働しているのかすら怪しい。樋口は薄暗い店内を訝しげに見遣りながら言った。
 連れ戻すだなんて、言わないだろうことは樋口とて解っているだろう。霖雨は答えた。


「解らないけど……。ただ、会いたいだけだ」


 顔が見たい。元気ならそれでいい。此処が居場所だというのならそれで十分だ。
 樋口が更に何かを言おうとしたその時、何かがゲーム機に衝突する鈍い音がした。反射的に肩を跳ねさせた霖雨の視界に、蹲って呻く男の丸い背中が見えた。スーツを着ている、中年男性だ。


「た、助けてくれ」


 縋り付くように地べたを這う男性の視線の先に、喫煙する少年達がいた。薄笑いを浮かべながら、蔑むように見下しながら、その手には男性のものだろう財布を弄びながら、距離を詰めていく。
 少年が何かを言うけれど、ゲームの電子音にかき消されて聞こえない。けれど、その足が振り上げられた時、霖雨は殆ど反射的に叫んでいた。


「止めろ!」


 一斉に振り向く少年達の視線も無視して、霖雨は男性を庇うようにして駆け寄った。樋口が舌打ちする。


「何だ、お前」
「怪我したくなかったら、引っ込んでろよ」


 げらげらと何が可笑しいのか、少年達が笑っている。強く睨む霖雨に、少年の一人が言った。


「ヒーローごっこは余所でやりな」


 振り上げられた足は容赦無く霖雨の体を蹴り付けた。いとも簡単に吹き飛んだ霖雨の体は壁に衝突し、大きく噎せ返る。それまで黙っていた樋口が不本意だと言いたげな顔で霖雨に駆け寄った。中年男性は転がるように慌てて逃げ出していく。その背中を何人かの少年が指を差して笑っていた。
 蹴られた腹が痛かった。けれど、それ以上に霖雨には疑問だった。


「どうして、」


 問い掛けたって、どうせ満足行く答えなど帰って来やしない。そう解っているのに、霖雨は口を開いた。けれど、その問いの先は、響き渡る硬質な足音にかき消された。


「どうして、こんなところにいやがるんだ」


 無表情に佇む男の目は凍り付いたように冷たい。一瞬、それが誰なのか霖雨には解らなかった。


「……驟雨……」


 それは紛れもなく、探し求めた相手、驟雨だった。けれど、驟雨はこれまで見せたことの無いような冷たい目で此方を見下している。これが驟雨なのか。
 驟雨さん、と道を空ける少年の群れを抜けて驟雨は目を鋭くさせる。


「何しに来やがった」


 何しに、だなんて。
 俯いたまま、霖雨は唇を噛んだ。お前に会うのに、理由がいるのかよ。そう言ってやりたい気持ちを抑えて、霖雨は答えた。


「お前が言ったんだろ。――後でな、って」


 一瞬、驟雨の表情が固まった。だが、すぐに不機嫌そうな無表情に戻る。


「……覚えてねぇな、そんなこと。帰れよ。此処はお前みてぇな奴が来る場所じゃねぇんだ」
「ああ、帰るよ」


 膝を払って立ち上がると、隣で樋口が支えた。
 驟雨を取り囲む少年達が口々に言う。


「驟雨さんがお前なんか相手にする筈ねぇだろ!」
「失せろ! 二度と来るな!」


 酷い言い草だな、と苦笑混じりに霖雨は息を零す。行きましょう、と樋口が急かす。霖雨は最後に驟雨に目を向け、笑った。


「じゃあな、驟雨。――また明日」
「霖雨さん」
「待ってるからな。言ったろ、お前を信じてるって」


 呆れるように肩を落とす樋口の肩を借りて、霖雨は歩き出す。
 やがて二人の姿が消えた。黙り込んだ驟雨の周りで、少年達が媚を売る。その後ろで、金髪の男が口角を釣り上げて言った。


「お前の友達か?」


 それが伊庭であると、気配で察した驟雨は振り返ること無く言った。


「知らねぇな、あんな奴」
「そうか」


 驟雨の隣に並んだ伊庭が、くつくつと喉を鳴らしながら言った。


「次の生贄は、あいつにするか? あれだけ綺麗な顔がしてりゃ男も女も関係無ぇし、輪姦した後でリンチでも」


 伊庭が言い終わる前に、言葉の先は驟雨の鋭い眼光に黙殺された。


「あいつに手ェ出すな」


 手を出せばお前でも殺す。本気を感じさせる視線に伊庭が笑う。
 冗談だよ、と両手を上げて戯ける伊庭に驟雨は鋭い視線を向けたままだった。


 ゲームセンターを後にした霖雨は、蹴られた腹部を摩りながら帰路を辿っていた。バイトがあるからと樋口には礼を言ってから駅前で早々に別れた。腹部の痛みは大分引いたけれど、真っ直ぐバイトに向かうには些か疲れ過ぎていた。
 駅の長い階段を登れば膝が軋む。力を込めれば腹部が疼く。惨めだな、と自嘲する。ホームに電車が滑り込む音がして早足に向かった。
 帰宅ラッシュの電車で、扉に押し付けられながら痛む腹部を庇った。自然と零れる何度目かも解らない溜息と共に霖雨は顔を上げた。遠いビルの群れに夕日が沈んでいく。太陽の断末魔が聞こえるような気がした。
 目的の駅で降りれば、未だに太陽は名残惜しむように赤い光を放っている。バイト先に向かう足取りは重く、それでも遅刻はするまいと歩調は早くなる。近道のつもりで裏道に入れば、まるで其処だけが夜のように暗かった。
 急ごう。走ろうと力を込めれば腹部が痛んだ。これは果たして先程蹴られたことが原因だろうか。それとも、佐丸とのいざこざの時だろうか。トラブルに首を突っ込んでいるのは自分だ。誰のせいでもないから、誰かのせいにする気も無い。けれど、振り上げる拳や見下す冷たい目を見る度に思うのだ。――どうして。


「おい」


 突然、背後から掛けられた声に反応するより早く、鈍い痛みと共に体は路上に叩き付けられた。奇妙な形で突いた腕がアスファルトに打ち付けられる。反転した視界の中で見覚えの無い靴の爪先が此方を睨んでいた。


「探したぜ、常盤霖雨」


 恐る恐る顔を上げれば、何処かで見た顔。そうだ。こいつはあのバイク集団の先頭にいた、驟雨の旧友だ。目を細め、口は弧を描き笑っている。けれど、この底冷えするような恐ろしさは一体何なのだろう。
 同世代だろう少年達を背後に並べて、霖雨を取り囲む。通行人が巻き込まれまいと、目を合わせないように早足に通り過ぎていく。その足音を遠くに聞きながら、バイトには間に合いそうに無いなと呑気に思った。


「あんたと面識は無い、つもりだけど」


 軋む体を起こせば、伊庭が笑った。


「無ェよ。お前に用があるだけだ」
「これからバイトなんだ。その後じゃ、駄目かな」


 言い終わるより早く、伊庭の足が振り上げられた。革靴が脇腹を抉る。鈍い音と共に霖雨は転げ、数度咳き込んだ。
 喉の奥に鉄の味が広がる。まずいな、と思うと同時に伊庭が言った。弧を描く口元とは相反して、その目は微塵も笑ってはいない。


「随分、余裕だな。癇に触るぜ」


 知ったことか。そう言い返して遣りたかった。けれど、何か発する前に噎せ返って形に出来ない。言葉よりも血が零れ落ちそうだった。


「その綺麗な顔、二度と見れないようにしてやろうか」


 伊庭が取り出したナイフを、頬に近付ける。霖雨は口元を押さえたまま、その切っ先を見詰めた。何時の間にか夕日は沈み、白々しい外灯の光が反射している。
 暴力が恐ろしくない訳ではない。凶器に怯えない訳でもない。けれど。


「俺に何の用だ」


 言った途端、伊庭のナイフが霖雨の頬を撫でた。薄い皮膚を切り裂いた刃に血液が付着し、それは同様に頬から滴る。腹部のせいか痛みは殆ど感じなかった。けれど、頬の血の雫がアスファルトに突いた手の甲に落下し切られたという現実を生々しく感じさせる。


「その目が、むかつくって言ってんのが解んねぇかな」


 ゆっくりと動かされるナイフに、反射的に体が竦む。だが、別方向から飛んできた拳が霖雨の頬を打った。弾き飛ばされた体が輪を作る少年の足元に衝突し、同時に蹴り返される。アスファルトに転がった霖雨を嘲笑う声が雨のように降り注ぐ。
 怖い。悔しい。腹が立つ。目の前が歪むと共に金色の光がふわりと浮かび上がった。


(春馬)


 一瞬で視界を包み込む金色の光。春馬が助けてくれる。こんな男達は、春馬にとっては大したものではないのだろう。春馬に任せれば彼等を蹴散らしてくれる。そうすれば、バイトにもきっと間に合う。
 でも、それでは駄目だ。


(駄目だよ、春馬)


 強く拳を握り、交代しようとする春馬を抑え込む。驚いただろう春馬の心の動揺が手に取るように解った。
 こんな奴等、殴る価値も無いよ。お前がこいつ等と同類になるのは嫌だ。


「――どうして」


 絞り出すように、喉の奥に広がる血の味を飲み込みながら霖雨は言った。


「どうして、すぐ暴力に走るんだ。それで何が生まれるんだ」


 どうして人を殴るんだ。どうして人を傷付けるんだ。どうして人を笑うんだ。どうして人を見下すんだ。
 伊庭も、この少年達も、佐丸も、香坂も、――驟雨も。どうして、そんなにも簡単に拳を振り上げるんだ。理解出来ないし、したくもない。堪えていた苛立ちが溢れる。お前等と、一緒になりたくない。簡単に人を傷付けるような人間と同類になんてなるものか。
 目を細めて笑っていた伊庭が、一瞬目を丸くする。そして、次の瞬間。空気の吹き抜けるような音と共に視界が闇に染まった。鋭い痛みに呻き声と悲鳴が上がる。眼球を焼くような痛みに瞼を押さえて蹲る霖雨を、冷たい目で伊庭が睨んでいる。


「うるせぇんだよ」


 突き放すような言葉と共に、再びその足を、拳を振り上げる。
 視力を失った霖雨は受け身も取れぬままに体を丸めて蹲る。降り注ぐ暴力。アスファルトに染み込む血液。飲み込みきれない声が街に反響する。通り過ぎるだけだった通行人が離れたところから警察に通報していた。

 春馬の声が聞こえた気がした。だが、意識は既に闇の中に転がり落ちていた。







2011.6.19