27.鏡花水月






 風に揺られた柳のように、驟雨は静かに手を伸ばした。足元に転がる一本の木刀。皮肉なものだと、驟雨は自嘲する。
 動揺を隠せない伊庭の滑稽さを嗤う。ぴくりとも動かない霖雨の表情は解らないが、頭部からの出血はどうしようもなく気を焦らせる。早く病院に連れていかなくてはならない。以前、霖雨が重症を負った時は春馬が時の扉を開いて助けてくれたけれど、脳に損傷を受けていたとしたら如何に春馬と言えどどうすることもできないのだろう。
 こんなところで立ち止まっている暇などない。
 青眼に構えた木刀の切っ先から、陽炎が上がっているようだった。それが殺気にも似た怒気なのだと、気付いた者は何人いたのだろう。そして、それが振り切られたことを知った者は皆、既に意識が無かった。
 嵐のように振り切られた木刀。その一太刀で無数の少年がその場に転がり込む。前を見据える驟雨の鋭い目には鬼火にも似た青白い炎が煌めく。
 重症を負った霖雨は自らの体を動かすことなど出来なかった。それは意志ではなく、体の機能の問題だ。金色の光となった春馬は、手を差しのべることすら出来ないままその光景を見詰める。
 驟雨が抱えるのは、憤怒だろうか。それとも、憎悪だろうか。
 少年達を、伊庭を睨むその目は触れる者を皆傷付ける抜身の刀のように鋭い。けれど、その瞳に宿るのは闇夜を照らす一筋の光明に他ならない。そう、希望だ。
 この状況で、驟雨は何に希望を抱くのだろう。霖雨は動かない。行く手を阻む少年達と、容易く霖雨の息の根を止められるだろう伊庭。それでも、驟雨は諦めるどころか希望すら抱いている。
 どうして、諦めない。どうして、絶望しない。どうして、信じられるのだ。
 目の前の状況が、驟雨が信じられない春馬は怪訝そうに眉を顰める。けれど、少年達を確実に薙ぎ倒しながら一心不乱に突き進む驟雨を見て、その気持ちが解るような気がした。
 春馬にとって霖雨が希望であるように、驟雨にとって霖雨は救いなのだ。他の何にも代え難い唯一無二の居場所だ。だから、それを守る為ならどんな犠牲も厭わないし、傷付ける何者をも許さない。伊庭が憎くない訳ではない。けれど、それ以上に霖雨が大切なのだ。
 影辻の時にも、春馬は思ったのだ。憎悪と悲愴に支配された常葉秋水を救った霖雨ならば、時の扉に満ちた禍を消し去ることが出来るのではないかと――。


(なあ、霖雨――)


 動かない霖雨を見詰め、春馬はゆっくりと目を閉じた。この世のものではない春馬は、霖雨に干渉することが出来ない。脳に損傷を受けた霖雨が死ぬのなら、共に春馬も消滅するしかない。けれど――。
 まるで、此方の呼び掛けが聞こえたかのように霖雨の指先がぴくりと動いた。その小さな変化に春馬は目を見張った。
 体を動かす程の余力は無い。けれど、命があるのなら。


(死ぬんじゃねぇよ、霖雨。お前は俺の希望で、驟雨の居場所なんだぜ)


 誰からも必要とされて来なかったこの痩せっぽちの少年が、どうしてこんなにも人を惹き付けるのだろう。その答えすら解らぬまま春馬は霖雨に手を伸ばす。触れることすら叶わぬけれど、その指先から零れ落ちる金色の光は水のように霖雨を包み込む。その光が驟雨には、はっきりと見えた。
 時の扉は、謂わばタイムマシン。許可の無いものはどんな人間であろうと、時間であろうと干渉出来ない。時の扉の中ならば霖雨の傷の進行を止められる。
 木刀を振り払った驟雨は、金色の光に包まれた霖雨を横目に見て体中に力が蘇るのが解った。霖雨はきっと大丈夫。春馬が助けてくれる。希望が力になる。驟雨の木刀が一閃し、列を成す少年達を一瞬にして薙ぎ倒した。
 鬼気迫るその気迫に、少年達が立ち竦む。叱咤する伊庭の声すら届かない。ゆらりと面を上げた驟雨の双眸に獰猛な光が宿る。邪魔をするなら、殺す。目が本気だと言っていた。


「ひっ、」
「うわああああッ」

 一人が、悲鳴を上げた。それを皮切りに少年達は一斉に敗走する。伊庭の制止など届かず、我先に廃墟を逃げ出していくその背中はまるで鬼にでも会ったかのようだった。
 少年達の足音が遠ざかると、廃墟は静寂に包まれた。時折燃え爆ぜたドラム缶の炎すら沈黙する。
 余裕綽々に椅子に座っていた伊庭が音を立てて立ち上がる。血塗れの霖雨は動かない。


「お前の負けだ」


 木刀を下げて驟雨が距離を詰める。
 腰を浮かした伊庭が、霖雨に目を向ける。懐から取り出したバタフライナイフが一瞬で開かれ、刃を輝かせる。伊庭が霖雨に手を伸ばした。そのナイフを突き付けようとした刹那――、驟雨の木刀が一閃した。
 弾き飛ばされたナイフが煤だらけの床を滑った。掌を付いた木刀を下げぬまま、驟雨は霖雨と伊庭の間に滑り込む。動かぬ霖雨を背中に庇うように立ち、その目はじっと伊庭を睨んでいた。


「御仕置きの時間だぜ、伊庭」


 くつりと口角を釣り上げた驟雨に余裕などある筈も無い。けれど、あくまで表面上は堂々と弱味など欠片も見せない。
 じりじりと後退る伊庭から視線を外さぬまま、霖雨の様子を窺う。微動だにしないその様は生きているのかどうかすら解らないけれど、ふわりふわりと浮かび上がる金色の光がその生存を知らせてくれる。
 伊庭が突然、背中を向けた。そのまま出口へと走り出す伊庭を反射的に驟雨は追った。数メートルと走らない内に驟雨の木刀は伊庭の足元を捉え、払われていた。勢い良く転倒した伊庭が尻を着いたまま逃げようと足掻く。驟雨に表情は無かった。


「無駄な抵抗は止めろ」
「た、助けて、許してくれ……!」
「許す?」


 この男は何を言っているのだろう。驟雨は目を細めた。


「俺は何度も言っただろ。お前を、絶対に許さないと」
「頼む、この通りだ!」


 簡単に下げられたその頭に、一体何の価値があるのだろう。額を床に擦り付ける伊庭を冷めた目で見下ろす。


「そうして許しを乞うた人間を、お前は今までどうして来た? ――助けたことなんて、一度だって無かっただろう」


 驟雨は思い出していた。家にも学校にも寄り付かなくなった中学時代、伊庭と共に多くの時間を過ごした。伊庭と非行に走ることで胸の中の鬱屈とした思いが忘れられて、開放された気持ちになったのだ。けれど、それも決して長くは無かった。
 集団で弱者を甚振り愉悦を感じる伊庭という男の人間性に諦観を抱いたという理由も勿論ある。けれど、決定的だったのは伊庭が犯した殺人だった。同級生の女子生徒を廃屋の中に閉じ込め、許しを乞う少女を集団で暴行し、建物に放火して焼き殺したのだ。
 事件は伊庭の親が揉み消したけれど、転校は余儀なくされた。自然と伊庭とは会わなくなった。
 少女を失った両親が泣き崩れる様を、周囲の友人が縋り付く様を、驟雨は今も鮮明に覚えている。葬式に顔を出した驟雨を恨むものはいなかったけれど、あの時、暴走していた伊庭を止めることが出来たのは自分だけだった。少女を救うことが出来たのも、自分だけだった。罪悪感を抱えながら伊庭に全ての責任を擦り付けて、ついて行けないと驟雨は離れて行った。その頃、幼馴染の香坂が心配して世話を焼いてくれた御陰で今の驟雨がいる。
 面を上げた伊庭が、怯えた目で此方に掌を向ける。


「ま、待ってくれ! そんなもので殴れば、ただでは済まないぜ。死ぬかも知れねぇ。そうしたら、学校も退学だ。霖雨はお前のことを許さねぇだろうし」


 驟雨の目は冷たかった。惨めだと、哀れだと思う。こんな男にあの少女は殺されたのだろうか。
 伊庭の言う通り、どんな理由があっても霖雨は暴力を肯定することは無いだろう。けれど。


「それでも、俺はお前を許さねぇよ?」


 霖雨がどう思うかなど関係無い。俺は、お前を許さない。
 人形のような無機質な面で、驟雨は木刀を肩に担いだ。


「殺しはしねぇ。お前と同類になるのは不愉快だし……」


 一歩一歩と距離を詰めながら驟雨は言った。


「何より、あいつ等といられなくなっちまうのは嫌だから」


 脳裏に過ぎる霖雨、林檎、香坂の顔。
 友達がどんなものなのかは解らない。けれど、彼等はどんな自分でもきっと受け入れてくれる。それでいいよと言ってくれる。あの心地好く温かい居場所を、失いたくない。
 ゆっくりと、木刀を木刀を振り上げた。その一瞬――、伊庭が笑った。
 背筋が寒くなるような深い笑みに、反射的に驟雨は霖雨を振り返った。だが、次の瞬間。顔を背けた方向から轟音が響いた。
 火の粉を吹き上げるドラム缶が、其処此処に転がる木材に炎を移しながら一直線に駆け抜ける。鼻を突くガソリンの臭い。霖雨の元へ到達する前に、それは火薬でも仕込まれたかのように爆ぜた。吹き上がる炎が一瞬にして地面を這っていく。反応することすら出来ない。
 ――辺りは火の海に包まれた。


「伊庭、てめぇッ」


 怒鳴りながら伊庭に掴み掛かるよりも、炎の中に姿を消した霖雨に向かって駆け出す。けれど、その腕を誰かが掴んだ。


「――驟雨ッ」


 香坂だった。状況を把握出来ないまま、炎の中に飛び込もうとする驟雨を止めるのは当然のことだった。
 炎は勢いを増し、天井を舐める。壁を伝って柱を焼き尽くす。廃墟は悲鳴を上げている。だが。


「離せ、香坂! 霖雨が、」
「驟雨!」


 視界が陽炎に歪む。気化したガソリンに更に引火し、その勢いは最早誰にも止めることは出来ない。
 二人の様子を見てほくそ笑んだ伊庭が脱出しようと立ち上がった。そして、敗走の一歩を建物から踏み出した、その瞬間。
 鈍い音と共に伊庭はアスファルトの上を転がった。撥条のような強い力で、佐丸が一蹴する。重い一撃を食らった伊庭は呻き声を漏らしながら立ち上がることすら出来ない。
 そうしている間にも炎は勢いを増していく。止まらない。


「霖雨!」


 霖雨の姿は見えない。香坂に羽交い締めにされながら、驟雨は手を伸ばした。


「おい、何してやがる! さっさと逃げるぞ!」


 建物の外で佐丸が叫んだ。けれど、驟雨は動けなかった。


「駄目だ! まだ、霖雨がいるんだ!」
「ーーーーッ」


 佐丸は唇を噛んだ。だが、言った。


「もう無理だ! お前まで死ぬぞ!」


 香坂に引き摺り出されながら、驟雨はそれでも手を伸ばす。頭の中に響く佐丸の言葉。もう、無理だ。どういう意味だ。
 霖雨は?
 脱出した瞬間、夜の冷たい空気が頬を撫でた。炎に包まれた廃墟は壁を崩しながら潰れていく。建物の外には驟雨が倒した少年達が折り重なるようにして転がっていた。佐丸や香坂が助け出したのだろう。その中に霖雨がいるのではないかと視線がさ迷う。けれど。


「霖、雨」


 いない。何処にも、いない。
 燃え盛る業火の中で、霖雨は独りでいるのか。骨すら残らないようなこの猛火の中に。


「嘘だろ……、霖雨……?」


 がくりと膝を着いた驟雨の目の端に、銀色の光が映った。伊庭の落としたバタフライナイフだった。まだ隠し持っていたらしい。
 遠くでサイレンが鳴り響いている。警察だろうか、消防だろうか、救急車だろうか。最早、何でもいい。誰でもいいから、霖雨を助けてくれ!


「くっそぉおおおおッ!」


 このまま何も出来ないで、霖雨が焼け死ぬのを待っていろというのか。
 胸の奥にふつふつと湧き上るどす黒い感情を抑えることが出来ない。アスファルトに転がるナイフに手を伸ばすと、佐丸が冷静に言った。


「――柄でもねぇことは、止めとけ」


 感情の篭らない冷たい声で、その視線は真っ直ぐ燃え盛る建物を見詰めている。だが、驟雨の手はナイフを強く握っていた。その目は蹲る伊庭を睨んでいる。
 覚束無い足取りで伊庭へ向かって進む驟雨の肩を香坂が掴んだ。


「止めろ、驟雨! こんな奴、殺す価値も無ェ!」
「生かしておく意味だって無い!」


 弾かれたように言い返した驟雨の目に、薄い水の膜が張っている。それが熱のせいなのか、煤のせいなのか、それとも別の何かのせいなのかは香坂には解らない。
 ナイフを握る驟雨の手が遠目にも解る程に震えていた。
 駆け付けた緊急車両が現場に滑り込む。耳を塞ぎたくなるようなサイレンが木霊する。消火に当たる消防隊員、昏倒した少年達を運ぶ救急隊員、呆然とする驟雨達を保護する警察官。
 慌ただしく急転する状況。けれど、其処に霖雨はいない。
 何時でも霖雨は自分を信じていてくれた。何かあれば心配して、蹲っていれば手を差し伸べてくれた。それなのに、今は迎えに行くことすら出来ないのか。


「――香坂」


 ぽつりと、驟雨は言った。隣に座り込んだ香坂が顔を向ければ、其処には美しい笑顔を見せる驟雨がいた。
 傍に置かれたバケツの水を頭から被れば、香坂が瞠目する。


「悪ィな」


 溢れた一言と共に、驟雨は駆け出した。突入など出来ない消防隊員の決死の消火作業の合間、一つの影が駆け抜ける。
 一陣の風のような速さで、通り雨のような激しさで、驟雨は炎の中に突っ込んだ。


「驟雨ー!」


 声を上げた香坂の目に、驟雨の残像が映った。その姿は既に炎の中だ。何もせず待っていることなど、驟雨に出来る筈が無かった。
 建物内部は既にその原型を留めていない。消火作業を嘲笑うかのように火は勢い良く燃え盛り、一切の全てを呑み込んでいく。だが、その火の海で自らが焼け焦げることも厭わず驟雨は駆け抜けた。
 佐丸が無理だと叫んだあの時の言葉に嘘は無いだろう。諦めたくなるような炎の勢いだった。霖雨が生きているとは思えない。全身に水を浴びた驟雨ですら焼け焦げそうだった。けれど。


(お前を置いては行かねぇ)


 今度は、俺がお前を迎えに行く番だ。
 行く手を阻む猛火を掻き分けて驟雨は疾走する。幾ら呼んでも返事など無い。焦燥感に駆られながら、それでも驟雨の目は炎の海に沈む霖雨の姿を探した。
 その時。目の前にふわりと金色の光が浮かんだ。それは目の前をぐるりと回転し、驟雨を案内するかのように動き出した。


(春馬――)


 時の扉に、許可の無いものは干渉出来ない。それは人であっても、時間であっても、――炎であっても。
 金色の光に導かれた先に、光の塊が横たわっていた。燃え盛る業火などものともせず、其処だけが切り取られた空間であるかのように金色の光に包まれた霖雨がいた。うつ伏せに、血塗れの面は横を向いたまま動かない。瞼は固く閉ざされて開かない。余りに非現実的な状況ながら、驟雨は霖雨へ手を伸ばした。傍で驟雨を導いた金色の光から声がした。


(急げ、驟雨。これも長くは持たねぇ)


 掠れるような春馬の声は何時になく余裕が無い。言葉は事実なのだろう。霖雨を包む金色の光が一つ、また一つと浮かび上がっては消えていく。
 驟雨は横たわった霖雨の体を背負い、立ち上がった。頭部を強打された為の出血は止まっている。それもまた、時の扉による力だ。霖雨の傷の進行を抑えながら、燃え盛る業火を食い止めるのは難しいのだろう。霖雨を包んでいた光が今も少しずつ消えていく。
 霖雨は動かない。けれど、握った手首から微かな脈が感じられる。生きている。
 背中の重みを確認するように背負い直し、驟雨は走り出した。建物内部は最早どちらが前なのかも解らない。だが、ふわりと浮かび上がる金色の光が導いてくれる。

 今にも崩れ落ちようとしている廃墟は、決死の消化活動も虚しく猛火に包まれている。天を舐めるその火柱を呆然と香坂は見詰めていた。野次馬が、マスコミが警察に食い止められながら群がって来る。町外れの此処ならば他所に燃え移る心配など無いだろう。だが、轟音と共に崩壊する廃墟を目の前に安堵の息を零せる者なのいる筈も無い。
 携帯が鳴った。騒ぎを聞き付けた林檎が心配して掛けて来たのだ。けれど、この家事に霖雨や驟雨が巻き込まれていることなど口が裂けても言えなかった。大丈夫の一点張りの香坂を信じられる訳も無く、林檎は自転車で人垣を避けて駆け付けた。


「霖雨……!」


 祈るように搾り出した林檎の声も、業火に掻き消されてしまう。救出は絶望的だった。
 呆然と立ち尽くす香坂。佐丸は不貞腐れた子どものように座り込んでいる。随分前に連行された伊庭はもうこの場にいない。
 怒ればいいのか、祈ればいいのか、泣けばいいのか。香坂には解らない。ぎゅっと握り締めた拳が軋んだ。俯いた視線の先で炎に揺れる人の影が映る。――その時、人々はざわついた。
 反射的に顔を上げる。燃え盛る炎の中から、黒い影がゆっくりと姿を現す。林檎が、佐丸が言った。


「驟雨!」
「霖雨!」


 驟雨に背負われた霖雨は血塗れだ。閉ざされた瞼は開かない。だが、一歩ずつ確実に炎の中から現れた驟雨は香坂等を視界に捉えると、いつもの不敵な笑みを向けた。
 駆け寄った消防隊員に向かって驟雨が叫んだ。


「こいつを頼む! 血が、止まらねぇんだ!」


 時の扉によって傷の進行は止まっていた筈なのに、頭部より出血が始まっている。此処まで導いた金色の光も既に消えた。
 慌ただしく動き出す救急隊員によって、救急車に霖雨が運び込まれていく。同乗しようとする驟雨を香坂が呼び止めた。


「驟雨!」


 振り返らない驟雨の耳には香坂の声など届いていない。驟雨とて無傷ではない。だが、その目は霖雨から外れない。
 林檎が救急車に飛び乗った。驚いたような救急隊員に林檎がぬけぬけと「妹です」と告げる。香坂も後を追った。
 救急車が走り出す。人垣は静かに割れて無人の帯を作った。微かな電子音が霖雨の脈拍を知らせるが、救急隊員の目は険しいまま忙しなく処置を施していく。


「死ぬなよ、霖雨」


 お前に謝らなきゃいけない。お礼も言えていない。
 このまま死んで二度と逢えないなんて、認めない。
 猛スピードで夜の街を滑る救急車に揺られながら、驟雨は霖雨の名を呼び続けていた。







2011.6.21