28.明鏡止水






 微かな電子音から、脈拍が弱まっていることを嫌でも悟った。
 慌ただしく処置に走り回る救急隊員と医師、看護師。担架で運ばれていく霖雨に向かって呼び掛けたところで、この声が届く筈も無いのだ。手術室へと担ぎ込まれ、扉が無情に閉ざされた。赤いランプの灯った扉の前で驟雨は立ち尽くすことしか出来なかった。
 同様に、扉の前で林檎が崩れ落ちるように膝を着いた。瞳からこぼれ落ちた大粒の涙がリノリウムの床に弾ける。泣いていると解っていても、驟雨は其方へ目を向ける気力すら無かった。


「霖雨……!」


 林檎の身を切るような悲痛な声が響く。
 以前、霖雨は佐丸によって瀕死の重傷を負った。けれど、その時は目覚めた春馬の時の扉の力によって、傷の進行を食い止め、病院に運ばれ一命を取り留めた。けれど、今回はそうではない。春馬は、霖雨の傷の進行を止めながら、炎から守りながら、驟雨を出口まで導いた。余力などある筈も無い。その証拠に、炎から脱出した時点で春馬は傷の進行すら食い止めることが出来ぬ程に疲弊していたのだ。
 縋るものを持たぬ林檎が、扉に縋るようにして手を握る。閉ざされた目から幾筋もの涙が溢れた。
 最善を尽くすと言い残して手術室に消えた医師達は今、霖雨を救おうと尽力している筈だ。そして、自分は今何をしている?
 霖雨を巻き込むだけ巻き込んで、何も出来ない。
 無力さに打ち拉がれる驟雨を、壁際の黒いベンチに座りながら佐丸が見ている。


「なあ、血の霧雨さんよ」


 その名が誰を指すのか、一瞬、驟雨には解らなかった。
 ゆっくりと振り返った先で、佐丸は投げ遣りに言った。


「あいつは不思議な野郎だな」


 それが誰を指しているのか、考えずとも驟雨には解った。


「人形みてぇに綺麗な顔して、どんなことにも無関心。一人で世界中の不幸背負ってるみてぇな被害者面、俺は大嫌いだったよ。切欠が無くとも何時か必ず、ぶちのめしてやろうと思ってた」


 驟雨は反応すらしなかった。普段の驟雨ならいきり立って掴み掛っていただろうその言葉は、床に落ちると転がって消え失せた。張り合いがないと佐丸は溜息を零す。


「でも、それはきっと偽りなんだろうな」


 ぽつりと零された佐丸の言葉に、驟雨は顔を上げた。


「あいつは人形なんかじゃない。悩んで、迷って、蹲って、それでも顔を上げて前に進もうとする一人の人間だ。そして、それは不幸なだけの人間には無理なことだ」
「何が言いたい」


 苛立ったように驟雨が唸れば、佐丸は気にした素振りも無く鼻を鳴らした。
 重い沈黙が支配する。時折林檎の啜り泣く声が響く。
 どれ程の時間が流れたのか解らない。手術中のランプが消えたと同時に驟雨は顔を上げた。担架に載った霖雨が、医師や看護師と共にゆっくりと運び出された。その両目は固く閉ざされ開かれたままだった。


「――霖雨は、」
「手は尽くしました。後は、彼の生きる力次第です」


 驟雨は唇を噛んだ。小さく礼を告げる香坂の横を通り過ぎる霖雨はICUに運ばれていく。
 傍に歩み寄った看護師の女が問い掛けた。


「ご家族の方は?」


 驟雨は林檎を見遣るけれど、首を振っただけだった。
 以前、時の扉によって見た霖雨の過去から推測するに、彼に家族と呼べる存在の者は誰一人としていない筈だ。両親を亡くし、親戚中を盥回しにされて来た。保護者だって名前だけだろう。
 朝焼けに染まる空を背中に、驟雨はガラスの向こうにいる霖雨を見ていた。規則的に脈打つ電子音と、細い腕に刺さる点滴。ICUと名付けられた密室で、霖雨は今戦っている。霖雨の生きる力次第だと医師が言った。今の霖雨にそれがない筈がない。そう思うのに、居ても立っても居られない程に気掛かりでこの場を離れることが出来ない。
 カツン、カツンと。
 リノリウムの廊下に足音を響かせながら現れた佐丸が、ガラスの向こうを食い入るように見詰める驟雨の隣に立った。衣服に染み付いた煙草の臭いが漂い、驟雨は眉間に皺を寄せる。佐丸は気にすることもなくベッドに横たわる霖雨を見て言った。


「あいつ、家族がいないんだってな」


 独り言のような小さな声は静かな廊下に虚しく響いた。


「確かにあいつは不幸だろう。だけど、希望が無い訳じゃない」
「お前に何が解る」
「解りゃしねぇさ。解ろうとも、して来なかったからな」


 人は理解不能のものを退け蔑む。
 天涯孤独で二重人格。誰もが振り返るような美しい双眸に冷めた態度。全てが人を遠ざける。その中で生きて来た霖雨が世界に諦観を抱くのは当然と思うけれど、それでも彼は人に手を差し伸べるだけの優しさを持っている。それはどうして。
 人に優しくされて初めて、人は優しく出来る。だから、霖雨が不幸なだけの少年ではないのは確かだ。
 驟雨にそれが解らない筈が無い。佐丸は苦笑を漏らし、静かに歩き出した。佐丸の去った後の廊下で、驟雨は硝子に縋り付くようにして拳を握った。頭の中で声がする。それが誰の声かなど考える必要すら無かった。


――友達になろうよ


 何処の誰とも知れぬ少年の投げ捨てた絵画を、川に飛び込んでまで取りに行ったお人好しのお節介。寸足らずのボロボロの衣服はずぶ濡れで、整った面には幾つもの生傷があった。けれど、それでも彼は笑って手を差し伸べた。
 それはどうして。


――でも俺は、解ってやりたいよ。だって、こんなに近くにいるのに


 仲間を傷付け、理不尽にナイフを振り上げた影辻を受け止めたのも霖雨だ。
 どんなに遅くなっても連絡一つしない家族。上辺だけの友達。けれど、あいつは行方を眩ませた自分を何処までも追い掛けて心配してくれた。
 それはどうして。
 ヤマケンとの一打席勝負も、鷲宮蜜柑の騒動も、大佐和と麻田の心中事件も、仕方がないと諦めながらも、最後は立ち上がって歩き出した。それは、どうして。
 時計の針が時を刻む。どれ程、その作業が行われたのかは解らない。窓の外から橙色の光が差し込み、廊下を染め上げていた。逢魔が時だ。禍の起こる前兆とされている。
 薄暗い廊下の奥から、足音が響く。現れた白衣の天使はバインダーを片手に微笑んだ。


「君を、呼んでいるわよ」


 誰が、と問い掛けた言葉は形にならず、喉の奥に消え失せた。
 看護師に案内され、ついて行った先は食い入るように見詰めた硝子の向こう、ICUの中だった。チューブに繋がれた霖雨が白いベッドに横たわっている。頭に巻かれた包帯も、頬に貼られたガーゼも痛々しい。けれど、固く閉ざされていた筈の瞼は開かれ、大きな瞳が天井を見詰めていた。
 傍に立つと、ゆっくりと霖雨は顔を向けた。無表情だった。


「驟雨」


 名を呼ばれても、驟雨は返事一つ出来なかった。霖雨は酷く緩慢な動作で瞬きをして言った。


「――夢を、見たんだ」
「夢?」


 霖雨は微笑んだ。それは消え入りそうに儚い笑みだ。


「昔、家族で花見をしたんだ。でも、時期が悪くてね。桜は時期を逃した上に豪雨で散った後だった。父さんは残念そうだったけど、笑ってた。母さんは白いワンピースを着てたな。また、来年にしようって言ってた」


 そして、霖雨から笑みが消えた。


「それが最初で最後の花見だった。あの後、二人は事故で死んだ」


 希望の先には絶望がある。霖雨は凍り付いたような無表情のまま続ける。


「俺は親戚中を盥回しにされた。……嫌なことが、沢山あったんだよ」
「……うん」


 その時に、霖雨がどんな目に遭ったのか驟雨は知っている。時の扉で過去を垣間見たことなど霖雨は知らないだろう。驟雨が頷けば霖雨は困ったように眉を寄せる。


「でもね、その度に思い出すんだ。父さんや母さんがいた頃を。いつか、お前に話しただろ。俺は梅が好きだって。それは父さんの受け売りなんだ。梅は寒い冬にも咲いて、散った後にも強い香りを残す。……桜は確かに美しくて、散り際も潔いけどな。それでも俺は、梅が好きだ」


 大きな瞳に水の膜が薄く張っている。霖雨は言った。


「思い出に縋りながら生きてたんだ。辛かったし、苦しかったよ。だけど、そうして生きてたら今度は友達が出来たんだ。心の底から信じられるような大切な友達が。だからね」


 チューブに繋がれた細い腕がゆっくりと持ち上がり、驟雨の腕を掴んだ。その手には確かに力が篭っている。生きる力。それが此処にあるのだ。
 霖雨が笑った。随分と長い間、見ていなかったような懐かしい気持ちになる。


「失っても失っても、光は必ず何処かにあるんだよ。だから、生きている限り前に進まなきゃいけないんだ」


 それは過酷なようで、甘美なようだった。けれど、真っ直ぐ此方を見据えるその瞳に動揺や偽りは無かった。
 では、その瞳に輝きは? 霖雨は何が見えるのだろう?


「お前は、どうして誰のことも憎まずにいるんだ?」


 早くに死んだ両親も、盥回しにした親戚連中も、蔑み遠ざけた同級生も、自殺した大佐和と麻田も、一方的に傷付けた伊庭すらも憎んでいないと、澄んだその目が言う。それはどうして。
 霖雨は困ったように少しだけ眉を寄せた。


「憎まない訳じゃない」


 ぽつりと、それがまるで恥ずかしいことであるかのように霖雨は言った。


「でもね、憎しみは長く続かないんだよ」


 それは囁きにも似た小さな声だ。その大きな目に何が映るのだろう。霖雨は天井を見上げたまま口を開いた。


「なあ、驟雨」


 手首を握る霖雨の掌に力が篭る。穏やかな微笑みに夕日が差し込んでいた。


「俺達が思う程、人生は悪いものじゃないのかも知れないね」


 一陣の風が吹き抜けた。ベージュのカーテンが風を孕んで膨れては消えていく。
 胸の中に何かが突き刺さるのを感じた。反射的に驟雨は胸を押さえた。その中に確かに感じる楔のようなものが何かは解らない。ゆっくりと瞼を閉ざした霖雨の掌から力が抜けた。落下する掌を追って驟雨が掴み、その顔を見ればゆっくりと瞼が下ろされようとしている。


「霖雨!」


 だが、電子音が霖雨の生を知らせている。瞼を閉ざした瞬間、一筋の涙がこぼれ落ちた。
 眠ったのだろう。昏睡状態が明けてからまだ時間が経っていないことを思い出し、驟雨は苦笑と共に安堵の息を漏らした。穏やかな寝顔だ。美しい相貌からは想像も付かないが、子どものような寝顔だった。


「お前って奴は……」


 溜息と同時に崩れ落ちるように、驟雨はパイプ椅子に座り込んだ。体中が鉛のように重かった。
 酷く疲れていた。顔を上げることすら億劫になる程、体の節々が痛む。だが、その面には笑みが浮かんでいる。
 頭を抱え、驟雨は俯いた。両手を握り、床を見詰めているその目には熱が篭っている。そして、その熱は瞬きと共に涙となって溢れ出た。床のタイルにぽつりぽつりと涙が跡を作っていく。


「何で、」


 鼻を啜る。後から後からこぼれ落ちる雫を止める術を持たない驟雨はただ、只管に両目を擦り続けた。
 目元が真っ赤になるまで、驟雨は袖を濡らしていた。やがて夕日が沈み、驟雨は顔を上げて夜空に目を向ける。面会時間は疾うに過ぎているだろう。窓際まで歩み寄り、桟に手を掛けて驟雨は大きく深呼吸をした。頭の中に春馬の声が過ぎった。


――この子は、俺のたった一つの希望だ


 お前の希望は、なんて強いんだろうな。何度でも立ち上がって前を見ようとする。世界を諦めながらも帰る場所だけは見失わない。
 目に見えるものを、手に届くものを全て救いたいと霖雨は願っていた。大佐和と麻田の死は彼に無力感と絶望を与えただろう。けれど、それでも、霖雨は立ち上がろうとする。自分には何も救えないと諦観しながら、それでも前進していく。


「……お前は、お前が思っている以上に多くのものを救っているよ」


 穏やかに寝息を立てる霖雨の顔を一瞥し、驟雨は歩き出す。
 人生は思う程、悪いものではないのかも知れない。憎しみよりも許しを選択した霖雨を思い出し、驟雨は苦笑した。向き合わなければならないのは、他でもない自分だ。
 後ろ手に扉を閉めようとして、もう一度振り返ろうかとして思い止まる。俺も、いい加減、前に進まなきゃいけない。
 歩き出した驟雨の後を追うように、扉の閉じる音が静かな廊下に反響していた。







2011.6.25