もういいかい
まぁだだよ

もう、いいかい?






29.前途洋々






 順調に快方に向かっていると聞いた。驟雨は片手にぶら下げたコンビニの白いビニール袋を揺らしながら昼下がりの廊下を歩いている。土曜の病院は入院患者の見舞い客だろう人が多く、穏やかながらも各病室が賑わっているように見えた。横目に通り過ぎる景色を眺め、驟雨は目的の病室を目指す。
 伊庭によって頭部を含む全身に重傷を負った霖雨は、驚異の回復を見せているとのことだった。それは恐らく、時の扉の影響も受けているのだろう。最後の最後まで霖雨を守り切れなかった春馬の無力感を思うと、自分のことのように胸が痛んだ。それ故に必死に今、力を使っているだろう春馬に比べて自分に何が出来るのだろう。
 巻き込むだけ巻き込んで、何も出来ない。
 自然と俯いた驟雨の耳に、聞き覚えのある声が届いた。


「――かっこいいじゃん」


 目の前の病室から聞こえたその声に顔を上げる。確かに霖雨の声だった。
 砕けた口調は親しい人と話しているのだろう。香坂は霖雨の代打としてバイト、林檎は用事があると言っていた筈だ。半開きの扉を覗けば、ベッドの上で体を起こす霖雨がいた。そして、横のパイプ椅子に座る男の後ろ姿は最近見たばかりのものだ。色褪せた金髪と耳に揺れる無数のシルバーピアス。どうして、お前が此処にいる。
 不貞腐れた子どものような佐丸の横顔には、大きな白い湿布が貼られていた。


「名誉の負傷だろ?」


 霖雨が悪戯っぽく笑った。
 知らなかったが、どうやら佐丸は、霖雨が危機に陥った時に危険の顧みず助けにいく程度には親しいらしい。
 佐丸は不満そうに鼻を鳴らし、頬に貼られた湿布を掻いた。


「そういうテメーは、不名誉の重傷だな」
「うっせーな」
「両手縛られて、やられっぱなしで、みっともなかったぜ」
「うん。いいんだよ、俺は不名誉で」
「あ?」


 困ったように眉を下げ、霖雨は笑った。


「俺は不名誉でも、大怪我しても、大切なものは守れたから」
「――はは、馬鹿馬鹿しいくらいの自己犠牲だな。ヒーロー気取りか?」


 否定の言葉を口にしようとした霖雨を遮って、佐丸が笑いながら言った。


「俺は、お前嫌いだなぁ」


 何の悪びれも無く軽快に笑う佐丸に他意はないだろう。思ったことをそのまま口にしただけに過ぎない。人によっては傷付く言葉なのだと佐丸は気付かないし、興味も無い筈だ。そして、霖雨はと言えば。


「お前、本当にうっせぇなあ」


 気にした素振りも無く、皮肉っぽく笑う。こうした冗談とも取れない冗談が、霖雨に通じるとは思わなかった。
 意外な姿だと言葉を失って立ち尽くしていると、佐丸の鋭い眼光が此方に向いた。


「――好い加減、入って来いよ。血の霧雨」


 気付いていたらしい。扉の影から足を踏み出せば、霖雨が驚いたように目を丸くした。


「そんなところで何してるんだよ」
「いや、ちょっとな」


 曖昧に誤魔化し、見舞いの品であるコンビニで購入したデザート類を横のチェストに置いた。


「元気そうだな、霖雨」
「うん、お陰様でね。……聞いたよ、お前が助けてくれたんだって?」
「俺じゃねぇよ。お前を助けたのは、」


 春馬だと言おうとして口篭る。だが、無関係である佐丸がいることを思い出して黙った。不審に感じただろう佐丸は怪訝そうに目を細めて言った。


「助けたのはオメーだろ。何なんだよ、オメーは。見舞いに来た癖に、病人みてぇな顔しやがって」
「……はは、違いないな」


 痛むのだろう腹を押さえながら、霖雨が笑う。


「笑おうぜ、驟雨。全部丸く収まって一件落着なんだぜ?」
「そうだ。伊庭は逮捕されて、霖雨は無事助かった。他に何か問題があるのか?」


 そうだ、伊庭は逮捕された。未成年という枠組みや親のコネなど通用しない程の罪を重ねて来たのだ。それが漸く裁かれる日が来たのだ。伊庭に殺された少女も、少しは報われるだろうか。俺は何もしていないけれど、許されたいと願うのは卑怯だろうか。
 自然と俯きそうになる視界の端で、呆れ返ったような佐丸の顔が映った。胸の中に沸々と浮かぶ不快感と苛立ち。


「――だああ! うるっせぇよ! 何でお前が此処にいるんだよ!」
「はあ? 今更だな、おい」


 小馬鹿にするように佐丸が鼻で笑う。


「友達だからに決まってんだろ」
「だから! 何でお前が!」


 いきり立って指を突き付けると、佐丸は大袈裟に溜息を零した。
 面倒臭そうに膝に手を突き、佐丸は立ち上がった。ポケットを探り、ジャラジャラと小銭の独特な音を響かせる。


「飲み物買って来る。何か飲むか?」
「サンキュー。コーヒーがいいな、ブラックで」
「オーケー。血の霧雨、テメーは後払いだ。何がいい?」
「緑茶」
「じじいか、テメーは」


 一々突っ掛る佐丸を睨めば、食えない笑みを浮かべながらそそくさと病室を出ていく。舌打ちを一つ落として、佐丸が退いたパイプ椅子に腰を下ろす。霖雨が笑った。
 その時だ。スリッパを引き摺るようなぺたぺたとした足音が軽快に響いた。廊下から届いた足音は病室の前で停止し、扉の影から小さな影が顔を覗かせる。


「――霖雨兄ちゃん」


 日に焼けていない白い肌、中世的な顔立ち。小学校の低学年程だろうか。一見すると少女にも見えるその子どもは霖雨を見て小さく手を振った。
 霖雨は笑顔を見せ、手を振って答えた。


「よく来たね、コウ君」


 コウ君と呼ばれた子どもが、遠慮がちに部屋の中に入って来る。色素の薄い髪と大きな瞳。痩せっぽちながら、その幼い顔立ちに浮かぶ笑みは何処か大人びて、陰を帯びる。
 似ている。無意識に、ベッドで上半身を起こす霖雨に目を向ける。歩み寄るこの小さな子どもは、どうしてか霖雨を彷彿とさせるのだ。
 霖雨は此方を見て言った。


「紹介するよ。この子は羽水光君。それで、――こっちの柄の悪いのが桜丘驟雨」


 勝手な紹介は聞き流し、子どもに手を差し出す。コウ君と呼ばれた少年は戸惑いながらも手を取った。
 骨張った、というよりも骨と皮だけのような薄い掌だった。転んだのだろうか、手の甲の関節部分は擦り切れている。否、掌だけではない。目を凝らせば半袖から覗く腕や、首筋、白い頬には治り切らぬ生傷や古傷がある。
 この傷を、俺は知っている。
 じっと見入ってしまっていると、霖雨が思い出したように言った。


「驟雨が見舞いにデザート買ってくれたんだ。一緒に食べようよ」
「やったあ!」


 漸く子どもらしい笑みを見せたかと思うと、同時に飲み物を買って来た佐丸が病室に戻った。


「あん? 客が増えてるじゃねぇか」


 ほらよ、と缶コーヒーを手渡して佐丸は窓際に寄り掛かる。ポケットの中に突っ込んでいた缶の緑茶を投げて寄越す。夏場だというのにホットだ。何でだ。悪意しか感じない。これで代金を取ろうと言うのだから全く腹立たしい。
 代金を投げて渡す。熱い缶は持っているだけで汗が滲んだ。
 佐丸は少年をじっと見詰めると、何の気無しに言った。


「汚ェ餓鬼だな。何だよ、その傷」


 この男に、デリカシーというものは存在しないようだ。
 流石の自分でも口を噤んだその傷の正体が、本当に解らないのだろうか。途端に表情を曇らせた少年に代わって、霖雨が口を開いた。


「傷くらい、誰にだってあるさ。ほら」


 そう言って自らの袖を捲り上げると、其処には少年と同様の古傷が無数に刻まれていた。切り傷、擦り傷、打撲、青痣、火傷の痕。
 少し困ったように笑う霖雨に、胸が軋むように痛んだ。――そんなことを、霖雨に言わせるなよ。


「虐待でもされたか?」


 平然と、冗談のように佐丸が笑う。この男はそれが本当のことだと微塵も思わないのだろうか。霖雨は苦笑し、そのままコンビニのビニール袋の中を広げた。ゼリーやプリン、生クリームがたっぷり乗ったショートケーキ。
 佐丸はその中身を蔑むように一瞥する。お前は食わなくていいからな、と言いそうになるのを寸でのところで呑み込んだ。
 瞳を輝かせて甘味を物色する少年の目は年相応に幼く純粋だ。けれど、その笑顔の裏に隠した傷がどれ程深いのかなんて解らない。解らない人間が安易に共感できるなどと言ってはならない。
 少年を楽しそうに眺めながら、霖雨は手元の缶コーヒーを一口飲み下す。そういえば、霖雨がデザート類を口にする姿を見たことが無いなと思い至った。余り好きではないのかもしれない。少年がプリンを取った後、表面上の笑顔は崩さぬままのろのろとゼリーを手にした。
 炭酸飲料を飲み下しながら、佐丸が興味無さそうに鼻を鳴らした。


「自分だけが不幸だなんて思ってんじゃねぇよ。その可哀想ぶってる面見ると、苛々するんだよ」
「――じゃあ、幸せだと笑えって言うのか」


 思わず口を出た言葉は、自分が思う以上に強い口調だった。


「もっと不幸な奴がいるんだから自分はまだマシだと、笑っていればいいのかよ」
「おい、驟雨。止せよ」
「何も解らない人間が、安易に人の傷抉ってんじゃねぇ」
「ーーハ、正義の味方気取りか? 血の霧雨さんよ。お前も気に入らねぇな」
「ンだと、てめぇ」


 薄ら笑いすら浮かべる佐丸の胸倉を掴んだその瞬間、霖雨が叫んだ。


「驟雨!」


 病室はぴたりと静まり返った。霖雨は困ったように笑った。


「……お前の優しさは、よく解るし、嬉しく思うよ。でもね」


 そこで口を噤んで、霖雨は傍に座る少年にそっと視線を投げた。
 俺のことはいいんだ。でもね、本当に傷付いているのは、この子なんだよ。
 霖雨は困ったような笑みを口元に残している。口にしないその言葉は静かな病室に消えた。そのまま佐丸に視線を向け、霖雨ははっきりと言った。


「佐丸、お前の言うことは尤もだよ。でも、それで傷付く人間もいるんだ」
「そんなもん、弱い人間が悪いんだよ」
「そうかも知れない。でも、誰もが皆強い訳じゃないよ」


 凛と背筋を伸ばした霖雨は、つい最近まで集中治療室で絶対安静だった男とは思えなかった。その口調は明瞭で、言葉は研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
 何か言おうとした佐丸に、霖雨はもう視線すら向けていない。少年はだんまりと決め込んでいたけれど、霖雨に手渡された使い捨てのフォークをショートケーキに突き刺した。
 俺達の言葉は、こんな風にこの子に突き刺さったのだろうか。誰にも目を合わせないように伏せて、遠慮がちに口を開かせるつもりで言った訳じゃないのに、傷付けたのだろうか。
 手の中には未だに熱を帯びた緑茶の缶がある。温くなる前に、飲んでしまおう。プルタブを起こそうと指を掛ける。と、そのとき。
 弾かれたように顔を上げた少年が、投げ捨てるようにフォークをその場に置いて立ち上がった。霖雨があっと声を上げるが、それも届かないように少年は病室を飛び出した。


「コウ君!」


 少年を追う為に霖雨が立ち上がろうとベッドに手を突いた。だが、その相貌は苦痛に歪む。起き上れる筈が無い。
 上半身を起こした霖雨を制すように肩に手を置いた。


「お前は待ってろ」


 霖雨の体をベッドの背凭れに押し返し、走り出した。
 日の差し込む白い廊下は静かだった。土曜の昼下がりはこの程度なのだろうか。それとも、皆昼食に出掛けているのだろうか。曲がり角に消えた子どもと思われる足音を追えば、小さな背中が勢いよく階段を駆け下りていくところだった。


「おい、待てよっ」


 中庭に出たところで、漸く少年の左腕を掴んだ。怯えたように震えたことには気付かない振りをした。
 息を弾ませる少年は振り返らない。大きく肩が上下している。息切れだろうか、それとも、泣いているのだろうか。


「――なあ」



 手の中の緑茶はまだ熱く、じわりと痺れるような熱が掌に広がる。
 座ろうぜ、と芝生の中にぽつんと取り残されたようなベンチを顎でしゃくる。少年は伏せ目がちに其方に目を遣った。
 ポケットの小銭を漁り、傍の自動販売機に投入する。お決まりの動きで取り出し口に緑茶の缶が落下する。取り出せばそれはひやりと冷たかった。おずおずとベンチの端に腰を下ろした少年に投げて渡し、自分は真ん中にどかりと座った。
 少年は何も言わないし、缶を開けようともしない。驟雨は黙って缶を開けた。口に含んだ緑茶は僅かに冷めたようだが、まだ温かかった。


「悪かったな」


 佐丸がしたことに対して、自分が謝る義理も無い。そう思い至るけれど、あの場にいた以上同罪だ。
 自分は霖雨ではない。安易に共感など出来ないけれど、解らないと突っ撥ねることも出来なかった。
 何を言えばいいのだろう。どうすれば手を差し伸べることになるのだろう。この少年にとっての救いは何だったのだろうと、思ったところで理解する。彼にとっての救いは、同じ傷を持つ霖雨だ。あいつは理解してくれる、共感してくれる。けれど、決して同情せずに希望を見出してやれる。
 じゃあ、俺は?
 自分の無力さが歯痒い。励ましの言葉一つ掛けてやれない。だが、脳裏に霖雨の声が過った。


ー―俺達が思う程、人生は悪いものじゃないのかも知れないね


 どうして、あいつが人に希望を分けられるのか。それは、あいつ自身が希望を見出したからだ。


「おい」


 反応した少年が顔を上げた。熱い緑茶を飲み下せば、慣れた苦味が喉の奥に広がる。
 温くなっちまうぜ、と促せば戸惑うように少年もプルタブを起こした。


「お前、茶は好きか?」


 甘味を好むこの少年が、茶を好きだとは思わなかった。少年は否定も肯定もせず、開けられた缶を両手に握り締めている。
 返答など期待していなかった。ぼんやりと遠くを眺めながら息を吐いた。


「よくジジイみてぇだって馬鹿にされるけどよ、俺は茶が好きなんだ。それも微温湯じゃなくて、舌が痺れるくらい熱いのがいい」


 手の中の茶は冷めつつあるけれど、と飲み下す。


「……人生も同じだと思わねぇか?」


 お決まりの緑色のパッケージと、毛筆の文字。見せ付けるようにして飲みながら、この言葉が希望になるように、贖罪になるようにと祈りながら続ける。


「何もない平穏が一番だと思うけどよ、ずっと微温湯じゃ楽しくねぇのさ。キーンと冷えてたり、火傷するくらい熱かったり、噎せ返るくらい苦かったりするから美味いって感じるんだ。呆れるくらい不味い茶も、よく見りゃ茶柱が立ってることもある。……だからお前もそんな茶の味を思い出すように、いつか辛い今を思い出して笑ってやれよ」


 馬鹿だった自分も、餓鬼だった自分も、全部全部認めてやりたいから。辛かった昨日も、絶望する明日も、全部全部笑って受け入れたいから。
 少年は数秒の沈黙の後に、手の中の缶をじっと見詰めた。緑茶が好きな子どもなど多くはないだろう。少年は何かを覚悟するように口を結んだかと思うと、一気に茶を口内に流し込んだ。
 茶を飲み下す音が喉から響く。
 一頻り飲んだ後、少年は大きく息を吐いた。


「……美味い」


 だろ、と共感すれば漸く、少年が笑った。大きな瞳に光が映る。日光だろうか、それとも、希望だろうか。


――失っても失っても、光は必ず何処かにあるんだよ


 その通りだな。
 記憶の中の声に共感を求めながら、驟雨もまた綻ぶように笑った。







2011.7.19