30.雨夜の月
「コウ君、来週から児童養護施設に入所するんだ」
病院からの帰り道、思い出したように霖雨は言った。隣りで入院中の荷物を霖雨に代わって担ぎながら驟雨は、大して興味も無さそうに相槌を打っている。だが、その脳裏には確かに、何処か霖雨の面影を残した痩せっぽちの少年の姿が浮かんでいた。両親からの虐待を受けた少年の心には、その体以上に大きな傷がある筈だ。だが、彼の新たな生活への門出を見送った際の笑顔は嘘偽りのない晴れやかなものだった。
「この先もきっと、大変なことがあるだろうけど、コウ君が幸せになれるといいな」
少し困ったような笑みを浮かべた。世間の風当たりは決して優しくはないだろう。だけど、負けないで欲しい。
言えば驟雨が息を吐くようにして笑い、小さく「そうだな」と答えた。
生死の境を彷徨った重傷を僅か数日で完治させた霖雨の回復力には、長年務めているという医師を驚かせた。猛暑日が続く中、マスコミ各局は熱中症患者数を競うように報道し続けている。そうして、世間を賑わせたLsの壊滅と伊庭の逮捕は人々の記憶から消えていくのだ。
陽炎の立ち上るアスファルトの道を踏み締めながら、霖雨は片手にぶら下げた紙袋を持ち直す。僅か数日の入院の割に多い荷物の訳は、見舞いと称して林檎や香坂達が漫画やら菓子やらを大量に持ち込んだせいだ。読み切れず筈も食べ切れる筈もないのだ。これさえ無ければ、わざわざ驟雨に荷物持ちを頼む必要など無かった。
「暑いのに、荷物持ちなんて頼んで悪かったな」
世間は日曜日だ。すれ違う着飾った女性は何処かに出掛けるのだろう。空腹を感じ始めた昼前の町は穏やかだった。
驟雨は緩く首を振った。
「大した荷物でもないし、気にすんなよ。それより急ごうぜ。お前の全快祝いに香坂が昼飯奢ってくれるらしいし」
そう言って驟雨は歩調を速めた。
人気の少なくなった帰路を辿りながら、霖雨はポケットから携帯を取り出した。不在着信が二件と新着メールが四通。林檎と香坂だった。内容は恐らく、到着の遅れている自分や驟雨を急かしつつも気遣うものだろう。苦笑を噛み殺しつつ、携帯を閉じる。驟雨が言った。
「春馬は元気か?」
ふと思い出したように口にしたその名に、霖雨は咄嗟に口を噤んだ。
伊庭との一件以来、声すらまともに聞けていない。ただ、確かに感じるのは春馬が疲弊しているということだ。
「解らないんだ。俺から呼び掛けても反応無いし。ただ……、凄く疲れているみたいだ」
「あの廃屋が炎に包まれた時、お前を守りながら、傷の進行を食い止めてたからな。無理もないさ」
「そっか……」
春馬は何時だって身を挺して守ってくれる。だからこそ、春馬の助けになりたかった。今も疲弊してまともに口を利くことすら出来ない彼の為に、何が出来るだろう。
驟雨は少し考え込むように目を伏せ、言った。
「春馬は一体、何者なんだ?」
当然の疑問を、彼らしくも無く何処か遠慮がちに驟雨は言った。霖雨もまた考え込むように唸りながら、首を傾げる。驟雨は苦笑した。
「お前、本当に変わってるよな」
「え?」
「普通、知ろうとするだろ。素性の知れない他人が体に同居してると思ったら、気味悪く無ェの?」
気味の悪さなら、ある。自分が二重人格だと知った時、得体の知れない隣人に対する恐怖が無かった訳じゃない。だけど、それが春馬だと知って、敵ではなく唯一無二の味方なのだと気付いて、恐怖よりも喜びが勝った。
春馬が何者なのかなんて、どうだっていい。傍にいてくれるだけで良かった。
けれど、もしかすると、春馬は違うのだろうか。
「俺は春馬が何処の誰だって構わないんだ。俺はずっと……、友達が欲しかったから」
口籠るように言った霖雨の言葉の意味など、驟雨には痛い程に解った。
人の目を避けるように目を伏せた霖雨は黙っている。掛ける言葉を探しながら驟雨は街並みに目を遣った。穏やかな一日を送っている世界を横目に、霖雨はゆっくりを顔を上げた。
「驟雨、頼みがあるんだ」
「何だ?」
「後で林檎と香坂には謝っておくからさ」
いっそ胡散臭い程の満面の笑みを浮かべる霖雨は、悪戯を思い付いた悪童のようだった。霖雨がゆっくりと両目を閉じた瞬間、世界から全ての音が消失した。そして、その足元から静かに浮かび上がった金色の光の粒子が霖雨を包み込んでいく。
声を掛けようとして、驟雨はタイミングを逃したことに気付いた。長い睫が震えた。開かれた瞼の下に、猛禽類を思わせる金色の瞳が現れる。霖雨じゃない。
小さく息を逃し、驟雨は笑った。なるほど、そういうことか。
「――よぉ、春馬」
驟雨は片足に体重を掛けながら、目の前に現れた春馬に笑い掛けた。くっきりとした二重の大きな目を鋭くさせ、睨み付けるようなその様子は驚いているようだ。
「驟雨……。何の用だ」
「何って言われても、困るんだけどさ」
呼び掛けに応えることも出来ないくらい疲弊していたところを、突然叩き起こされた春馬の胸中を思えば仕方がない。辺りをぐるりと見回し、春馬は溜息を吐いた。
「――ったく、仕方が無ェな。霖雨のやつ」
呆れたように言いつつ、春馬は肩を落とすだけだ。肉体は霖雨のものである筈なのに、どうしてかその目は落ち窪んでいるかのような隈が浮かんで見えた。疲れているようだと言っていた霖雨の言葉を思い出し、驟雨はなるほどと一人納得する。文句垂れる目の前の春馬には悪いが、霖雨が何を望んだのか解った。
「付いて来いよ、春馬」
不服そうな春馬を一瞥し、驟雨は背を向けた。
霖雨がこうでもしなければ、自分はずっと気付かないままだったかも知れない。
舌打ち混じりに春馬が後を追うのを気配だけで悟り、振り返ることなく驟雨は歩き出す。背中を向けながら、気付かれぬように携帯を取り出してメールを打つ。短い文章にはすぐに返答があった。
了解。確認してポケットに押し込む。全ての段取りが済んだところで後ろに目を向ければ、不貞腐れた子どものように春馬がついて来ている。驟雨の視線すら興味が無いとでも言うように、その目は何の変哲もない街並みを眺めている。
「なあ、春馬」
背中を向けたまま、驟雨は言った。その声にはなるべく感情を含まず、何気ない言葉掛けのように。
「お前、一体何者? お前の目的は何?」
言えば、春馬は僅かに黙った。小鳥の囀りが長閑に響く。春馬は呼吸するように静かに、笑ったようだった。
「俺の目的はただ一つだよ。――時の扉を消滅させることだ」
「時の扉の消滅?」
「幾千、幾万の憎悪、悲愴、絶望を封じて来たこの扉を消し去ることが、俺の目的だ」
「……どうすれば、消滅出来る?」
「さあな。ただ、封じる方法なら解る」
軽口を叩くように言う春馬に、驟雨は苦々しく思う。そんなことは訊かなくとも解る。
「人柱、だろ」
言えば、春馬がくつりと笑う。
「お前は嘗て、この扉を封じる為に自らの命を犠牲にした。結果としてお前はこの扉の中、闇と共に封じられた」
「そうだ」
「そして、お前は霖雨の命を犠牲にすれば扉を封じることが出来るとも言ったな?」
否定を許さないような強い口調で言い放てば、春馬は暫しの沈黙の後に、そっと言った。
「……だが、俺は、霖雨を犠牲にする気は無い」
今にも消えてしまいそうな微かな声には、春馬自身の揺るぎない決意が込められていた。振り返った驟雨が見たものは、霖雨とは異なる和装の出で立ちをした常盤春馬だった。それは嘗て三間坂言い放った言葉を思い出させる。
朱鷺若領主、常盤春馬。
凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐに此方を見据える双眸には一点の曇りもない。
風が吹き抜けた。湿った微風は春馬の前髪を舞い起こし、そして去っていく。一瞬の幻は夏の空に霧散した。
「言っただろう。この子は、俺のただ一つの希望だと。……俺が選べなかった未来を、霖雨なら見出せるのかも知れない。封じることしか出来なかった地獄を、霖雨なら救えるのかも知れない」
それはまるで祈りにも似た囁きだった。丁度、その時、驟雨の背中に林檎の声が掛かった。
「おーい、遅いよ!」
驟雨が反射的に振り返った先で、頬を膨らませて怒りを表す林檎がいる。少し後ろで香坂が、無表情のまま此方を見て、少しだけ笑った。
遅刻を責める林檎の横を通り過ぎ、香坂は春馬の顔を少し屈んで覗き込んだ。
「よう、久々だな。春馬」
「――」
息を呑むように黙り込んだかと思うと春馬は忌々しげに驟雨を睨む。縁起掛かった仕草で肩を竦め、驟雨は苦笑する。
「すぐ、霖雨と代わる」
「はは。きっと、引っ叩いたって出て来やしねぇだろうさ」
軽快に笑う驟雨が理解出来ないと、春馬が怪訝そうに眉を寄せた。半ば睨むようなその鋭い視線すら、意に介さぬように林檎が春馬の手を引く。
「ほら、早く来てよね!」
「――な、」
何か言おうと口を開くが、強引に手を引いていく林檎は聞く耳持たない。女は強いな、と驟雨は苦笑する。
林檎が引っ張って行く先は閑静な住宅街の一軒家。霖雨のアパートの傍、林檎の自宅だ。引き摺られるように玄関を潜れば、其処に見覚えのある顔が待っていた。
「よう」
ポケットに手を突っ込んで、此方を威圧するかのように仁王立ちするのは佐丸だ。その隣で秋水が困ったように微笑む。光に満ちた林檎の家は、蒸し暑い外界に比べ冷房の為か涼やかだった。
林檎に導かれるように玄関で靴を揃えて脱ぎ、更に手を引かれるまま春馬はリビングへ足を踏み入れた。途端に鼻を擽る香ばしい食べ物の匂い。大きなダイニングテーブルには所狭しと大量の(春馬にとっては初めて見る)料理が並んでいた。
腹が鳴った。其処で漸く、自分が空腹だったことに気付いた。すると、林檎が振り向いて笑った。
「あはは。春馬、お腹空いてた? 早く座って。食べようよ」
だらだらと後を追って来た驟雨が春馬の横で腰を下ろす。状況を呑み込めぬまま、目の前の料理に圧倒されながら春馬もまたその場に座った。それぞれがテーブルを囲って座ると、香坂が炭酸飲料の缶を掲げた。
「――じゃあ、霖雨と春馬の全快を祝って、乾杯!」
乾杯の掛け声と共に各々が缶をぶつけ合う。
忙しなく動き回りながら林檎が紙皿に大量の料理を載せ、春馬に押し付ける。隣で茶を啜りながら驟雨はチョコレートを口に放り込んだ。
喧嘩するような強い物言いで騒ぎ立てる香坂と佐丸。諌めつつも料理の提供に動き回る林檎と、苦笑交じりに手伝う秋水。樋口は傍で我関せずというように焼き鳥を頬張っている。
林檎が押し付けた料理を口に運びながら、春馬はその光景を茫然と見ていた。
「主役が、ンな辛気臭ェ顔してんなよな」
隣で、片膝立てながら驟雨が言った。春馬は卵焼きを奥歯で噛み締めながら眉を寄せる。
「――主役は、霖雨だろ」
「しつけぇな。何で霖雨がお前と代わったのか、解らないのか?」
切れ長な目を泳がすように、驟雨は春馬を見た。
「お前が霖雨を大切だと思うように、霖雨もまた、お前が大切なんだよ」
そんなこと、言われないでも解ってやれよ。驟雨は溜息を零す。
「……普通さ、自分の中に得体の知れない他人が入り込んでいるって思ったら、気味悪いだろ。少なくとも俺はそう思う。でもな、霖雨は違うんだ。霖雨はな、お前のこと、友達だと思ってるんだよ」
それがどういうことなのか、解らない春馬ではないだろう。驟雨は茶を飲み下し、更に続けた。
「お前は弱音も泣き言も零さない。誰かを頼りにすることも無いし、何かを求めることもしない。俺はお前が強い人間だと思ってたから、それが普通のことだと思い込んでた。――でも、霖雨はそれが嫌なんだよ」
騒ぎ立てる友達の声が遠い。まるで、フィルターでも掛かっているかのように視界がぼんやりとして、それでいて何故か驟雨の声と姿だけがやけに明瞭だった。
「悲しい時には泣いて、悔しい時には怒って、嬉しい時には笑って、苦しい時には頼って欲しいんだ。……時の扉がどうとか、封印がどうとか、そんな難しいことはよく解らねぇ。お前が霖雨の中にいる理由も、知らない。だがな、一緒にいるっていうのは、嫌なことは半分に、良いことは二倍に膨らむってことだ」
霖雨がこうでもしなければ、一生気付かなかったかも知れない。驟雨は自分の考えの浅さを恥じながら、心の奥底で眠っているだろう霖雨を思った。
「確かにそれは霖雨の体なんだろ。だけどな、此処は、お前等の居場所なんだよ」
此処が何処を示すのか。視線を感じて春馬が顔を上げると、何時の間にか此方を見ていた仲間達と目が合った。皆、微笑んでいた。
「お前一人が汚れ役を買う必要も無ければ、霖雨一人が幸せで満足出来る訳でも無ェ。解ってやれよ」
――俺は、春馬も救ってやりたいんだよ
何時かの霖雨の声がして、春馬は黙った。
如何して自分は霖雨に希望を見出すのか。如何して何も持たないただの子どもに、こんなにも多くの仲間が出来たのか。其処にどんな可能性や価値があるのか解らなかった。だが、漸く解った。
霖雨は優しいのだ。そして、それは誰にでもある訳ではない。
誰かに何かを期待することのない霖雨は、決して見返りを求めない。無償の、不朽の優しさだ。
時の扉がどうとか、封印がどうとか、世界がどうとか。そんなことではないのだと解った。世界の為に霖雨が必要なのではない。
(俺が、俺自身が、霖雨を望んでたんだ)
だから、霖雨が大切なのだ。だから、霖雨が必要なのだ。
お前が何処の誰でも構わない。お前がお前だから大切なのだと、当たり前のように手を差し伸べてくれる。
ふと目を閉ざした闇の中で、霖雨が此方を見て微笑んだ気がした。
――もっと、素直になってみなよ。春馬がどうしたいのか、俺達にどうして欲しいのか言ってごらん。言葉にしなくても伝わることもあるけれど、言葉にしないと伝わらないことも沢山あるんだよ。……勿論、言葉にしたって伝わらないことも沢山あるけれど
そうして、手を差し伸べて。
――それでもいいから、声にしてごらん。言ってごらん。話せないなら無理に言えとは言わないけれど、俺にも出来ることがきっとあると思うんだ
この優しさこそが、霖雨の強さだ。霖雨はもう、世界と向き合っている。
春馬は霖雨の手を取った。この先にどんな絶望や地獄が待ち受けていても、霖雨は決してこの手を放しはしない。再び目を開けた先に微笑む仲間達がいた。そして、彼等もまた、その目を逸らしはしない。
向き合わなければならないのは、霖雨ではない。
もういいかい?
そんな声が、聞こえたような気がした。
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