32.聖人君子





 大地を抉るような豪雨だった。アルミ製の扉一枚を隔てた外から鳴り止むことのない激しい雨音する。
 いつも昼食は屋上だった。大佐和の一件以来、屋上へ繋がる扉は固く閉ざされ、霖雨自身、鬼門として近付くことを恐れていた。だからといって、騒音に満ちた教室で食事する気は毛頭なく、コンビニのビニール袋を片手にぶら下げて当て所無く彷徨っていたところで、ある筈の無い臭いが廊下に漂っていることに気付いた。
 屋上へ続く階段の上から漏れる煙草の煙。犯人が誰なのか、顔を見なくとも想像が付いた。階段の踊り場で、空き缶を灰皿に堂々と胡坐を掻いて煙草を吸う未成年。ごわついた金髪をワックスで固めた男子生徒は、此方を見ると片手を上げて合図を送った。


「よお。お前もサボりか?」


 ケタケタと小馬鹿にするかのように笑いながら、佐丸は目を細める。


「サボるも何も、今は昼休みだよ」
「何だ。もう授業終わったのか」


 一体、何時から此処にいるのだろう。階段を上って佐丸の横に腰を下ろす。昼食を取り出そうとビニール袋を広げると、横から佐丸が覗き込んだ。


「毎日毎日、よくもまぁ、飽きずにパンばっかり食ってるよな」
「お前は毎日ジャンクフードばっかりだな。太るぞ」
「余計なお世話だ。それより、お前あれ食べた? セブンの新商品なんだけどさ」


 同様にビニール袋を取り出して佐丸が笑う。取り出された菓子パンは霖雨にとって見覚えのないものだった。期間限定の商品だろう。生クリームとカスタードクリームの量を売りにしたそれは、自分なら決して手を伸ばすことのない代物だと思った。量を売りにした惣菜パンを頬張りながら霖雨は溜息を零す。
 美味そうに煙草を吸い、佐丸が思い出したように口を開いた。


「今日は血の霧雨は一緒じゃねぇのか?」
「親戚の葬儀で休みだよ。お前、いい加減その呼び方止めろよな」


 驟雨の過去を皮肉って佐丸はそ呼ぶのだろうが、本人だけでなく周囲の人間もその綽名は不愉快だ。勿論、佐丸はそれすら面白いと呼んでいるのだろうけど。
 煙草を指に挟みながら、佐丸は口角を釣り上げて笑う。


「いいじゃねぇか。血の霧雨は健在なんだし?」
「……」


 霖雨は黙った。Lsとの一件で、驟雨が大人数相手に単身大立ち回りを演じたことは、病院で警察から聞いた。国会議員だという伊庭の父親からの圧力もあり、驟雨や霖雨がその一件について追及されることは無かったが、アクション映画さながらの戦いぶりだったと香坂は言った。お前にも見せてやりたかったと笑う香坂に曖昧に返し、霖雨は胸の中でごちたのだ。
 そんなもの見たくない。興味もない。
 暴力は嫌いだ。其処にどんな理由があったとしても、人を傷付けていい理由にはならない。例え自分を助ける為だったとしても、誰かを傷付ける驟雨の姿なんて見たくない。
 嘗て、驟雨は血の霧雨と呼ばれた。触れる者を皆傷付ける抜身の刀のようだったと言う。


「人は簡単には変わらねぇよ」
「――余計なこと、吹き込んでんじゃねぇよ」


 階下より響いた声に揃って顔を向ければ、其処には制服を着崩した呆れ顔の香坂が立っていた。その手に提げられているのはバンダナに包まれた弁当箱だ。彼の昼食は何時も手作りの弁当だ。
 佐丸は短くなった煙草を空き缶の中に落とすと、可笑しそうに目を細める。香坂は鼻を鳴らし、二段飛ばしに階段を上ると霖雨の横にどかりと腰を下ろした。


「探したぜ、霖雨。電話にも出ねぇしよ」
「ああ、ごめん、気付かなかったよ」


 ポケットから取り出した携帯を開けば、確かに香坂からの着信履歴が残っていた。香坂は気にする風でもなく、そのまま弁当を広げる。色味は無いが、生姜焼きや煮物など手作りの温かさが満ちていた。


「血の霧雨、葬儀で遠出してるんだろ。何処まで行ってるんだ?」
「あー……、何処だったかな」


 プラスチックの白い箸は玩具のようだ。香坂は絶え間なく手元を動かしながら、佐丸の大して意味などないだろう質問を受け流す。霖雨も同様に惣菜パンを頬張った。だが、その時、佐丸が喉を鳴らした。


「嘘は良くねぇぜ?」


 一瞬、香坂の手が止まる。横目にそれを認めつつも、霖雨は気付かぬふりで食事を続ける。
 佐丸は食べ終えた菓子パンの袋をぐしゃぐしゃと丸め、霖雨のビニール袋へ勝手に押し込む。


「聞いたぜ。今日の五時、血の霧雨が親父と勝負するそうじゃねぇか。負けたら、学校辞めんだろ?」
「何だって?」


 耳を疑う訳の解らない話に、漸く霖雨が反応を見せる。香坂は表情を変えぬまま箸を動かす。煮物の欠片を拾っているらしい。


「おい、香坂。驟雨が学校辞めるってどういうことだよ」
「デマだろ、そんなもん。鵜呑みにしてんじゃねぇよ」
「こいつはかなり信憑性が高いぜ。何しろ、あの道場の門徒から聞いた話だからよ」


 黙ったまま、香坂は眉を寄せた。深い溝が眉間に刻まれる。


「本当なのか? 何で、」
「お前には関係無いことだ」


 霖雨の問いをぴしゃりと叩き切った香坂は視線すら向けない。
 確かに、その通りだ。驟雨が黙っていようとする問題に首を突っ込む権利などない。返す言葉が見つからず、黙ったまま霖雨は視線を落とした。外から響く雨音すら、自分を否定しているように感じた。だが、此処で引き下がれないのも事実だった。
 顔を上げ、パンの残りを口に押し込む。突然立ち上がった霖雨に驚くことなく、佐丸は面白いものでも見つけたかのように薄く笑う。


「今から血の霧雨ンとこ、行くのか?」
「そうだ。驟雨に会いに行く」
「だから、お前には関係無いって言ってんだろ!」
「じゃあ!」


 思わず怒鳴った香坂に、一歩も引かず霖雨が声を張り上げた。


「じゃあ、お前はこれでいいのかよ。このまま驟雨がいなくなって、いいのかよ……?」
「……そんなの、解らないだろ。あいつは負けねぇよ」
「なら、如何して俺に黙ってろなんて言うんだ。負けるかも知れない。だから、言わなかったんだろ」


 ぽつりと零した霖雨の声は、激しい雨音に掻き消されそうだった。其処で香坂は、自分達の霖雨への認識の甘さを後悔する。
 やっぱり、こいつに隠し事なんて無理だ。


「行っても、追い返されるだけだぜ。ぶん殴ってでも、引き下がらせるって言ってたからな」
「それで済むなら十分だ。俺は、驟雨が此処からいなくなってしまうことの方が、堪えられないんだよ」


 ゴミを纏めて霖雨は勢いよく階段を下りていく。すっかり箸を止めていた香坂は大きく溜息を吐いた。途中、階段を駆け上がる林檎とすれ違うが、霖雨の足は止まらなかった。大声で呼び止めようとする林檎の声など、その耳には届かないのだろう。横で薄笑いを浮かべていた佐丸が言った。


「中々、面白くなって来たじゃねぇか」
「テメェは、一体何がしたいんだ」


 やっと合流した林檎は状況を呑み込めぬまま、問い掛ける機会すら失ったまま香坂の隣に立つ。香坂が半ば睨むように目を向ければ、佐丸は笑みを一層深くした。


「俺は、あいつを叩きのめしたいだけさ」
「驟雨を、か?」
「いいや」


 佐丸は緩く首を振った。


「霖雨をさ」


 そう言って薄笑いを浮かべ、それきり佐丸は黙った。
 学校を飛び出した霖雨は、気休め程度の傘を片手に豪雨の中を駆け抜ける。湿気と疲労から呼吸が酷く苦しい。それでも、背を焼くようや焦燥感が立ち止まることを許さない。
 佐丸が言わなければ、ずっと気付かなかったかも知れない。万一のことがあった時、自分は何も解らないまま驟雨と二度と会うことも出来なくなっていただろう。考えるだけでぞっとする。もしもその時、驟雨は如何しただろう。そのまま終わりなのだろうか。それを予測した上で、自分に黙っていたのだろうか。
 携帯を取り出す。着信履歴の一番上は驟雨だ。長いコール、留守番電話に繋がる。長いコール、留守番電話。長いコール。
 驟雨は出ないかも知れない。否、俺なら出ない。出るくらいなら、黙っていたりしなかった。――けれど。


『もしもし』


 長い、長いコールの後。呟くような微かな声でぼそぼそと、驟雨が言った。携帯を握る右手に自然と力が籠った。


「驟雨、か? 今何処に……」
『自宅だよ。香坂から、全部聞いたんだろ』


 投げやりな答えは何処か不機嫌だった。


『解ってると思うけど、此処に来ても無駄だぜ。お前には関係無いことだ』
「……確かに、俺には関係無いことなんだろ。でも、黙ってられない」
『如何して? 余計なお節介なんだよ。これは俺の戦いなんだ。幾らお前でも、余計な手出しするなら容赦しないぜ』
「殴るのか?」
『ああ。立ち上がれないくらい、ぶちのめす。邪魔が入らないようにな』
「……また、暴力か」


 言ったと同時に、霖雨は口を押えた。失言だった。言わなくていいことだった。
 けれど、電話の向こうで驟雨は沈黙している。永遠とも思えるような重い沈黙の後、静かに驟雨が言った。


『俺はお前とは違う。お前みたいな聖人君子にはなれねぇ』
「聖人君子なんかじゃない。ただ、俺は」
『霖雨は正しいよ。でも、誰もがそうやって生きられる訳じゃない』


 その言葉が驟雨の拒絶なのだと悟り、霖雨は黙った。電話の向こう、驟雨の感情は解らない。けれど、あの整った相貌にきっと表情は、無い。


『……解らないなら、それでいい。だが、これ以上の詮索は御免蒙るぜ。首突っ込もうってなら、お前の大嫌いな暴力で、訴えかけてやるよ』


 驟雨は本気だ。もしも、このまま彼の元へ行ったなら、血の霧雨を呼ばれる理由を身を以て知ることになるだろう。
 ブツリと。通話は乱暴に切られた。対話の終わった音が空しく響く。霖雨は掌に収まる傷だらけの携帯を眺めていた。
 暴力は嫌いだし、許されないと思う。例え驟雨が何を言っても、それだけは変わらない。霖雨にとって暴力は絶対的な悪だった。
 暴力は生活の一部だった。幼少時から慢性的に身体的な虐待を受けて来た。だが、霖雨とて遣られっ放しだった訳では無いし、当然腹が立てばやり返したこともあった。だが、それは更なる暴力を呼ぶだけだ。耐えることは霖雨の処世術の一つだ。遣り返しても意味なんて無いのだ。けれど、それが非力だった自分に対する言い訳だということも霖雨は解っている。
 あの頃、もしも自分の身を守れるだけの力があったなら、今頃は平然と人に暴力を振るう人間になっていたのだろうか。相手の思想も尊厳も踏み躙る行為を、当然のように行っていたのだろうか。


(なあ、驟雨。何で、人を殴るの? 如何して、人を傷付けるの?)


 俺には解らないんだよ。
 Lsに拉致された時に傷だらけになった携帯電話は、買い替える予定は無い。まるでこの携帯は自分のようだ。降り掛かる苦痛に耐える一方で、遣り返すこともせず、誰かに助けを求めることも出来ない。


「――おい、お前」


 反射的に振り返った目の横を、何かが音を立てて通り過ぎた。
 それが拳だと気付いた瞬間、霖雨は大きく後ずさりしていた。目の前に並ぶ若い男。日本人らしかぬ脱色された髪に、着崩されているだらしない服装。見覚えがあった。それぞれ怪我を負っている。


「お前等、Lsの……!」


 Lsは伊庭の逮捕と共に壊滅した筈だ。信じられないものを見るような目で、霖雨は拳を握った。
 雨音が喧しい。けれど、目の前の男達はぼろぼろのビニール傘を片手に、ズボンの裾が濡れることも厭わず霖雨を真っ直ぐに睨んでいた。


「桜丘は、何処だ?」


 周りに彼等以外の人影は無い。男達の目的が何かなど、動揺する霖雨でもすぐに解った。
 リベンジ、仕返し、報復。だが、驟雨はいない。


「知らない。警察呼ぶぞ」
「テメーはその前にぶっ飛ばされるけどな!」


 先頭の男が叫んだと同時に集団が一個の大きな塊となって押し寄せる。霖雨は弾かれたように方向転換して走り出した。
 撒かなくては。
 心に強く思った。だが、同時に声がした。


(――俺と代われ)


 春馬の声だった。
 傘を投げ捨て、霖雨は足元から浮かび上がる金色の粒子を抑え込もうとする。
 この事態を、春馬はきっと簡単に収めるだろう。――暴力、で。


(駄目だよ、春馬。俺は暴力なんて振るわれたくないし、お前に振るって欲しくも無いんだ)


 だが、同時に春馬の溜息が聞こえたような気がした。ぐるりと視界が一転する。すぐ横に不敵に笑う自分の顔があった。
 春馬の入れ替わったのだ。


「お前が知りたがってる答え、俺が教えてやるよ」


 春馬は大きな空き地に入った。萎れた芝生は手入れがされていないのだろう。所々土が露出し滑りそうだった。
 壁に背を向け、押し寄せる男達を迎え撃とうと春馬が腰を落とす。霖雨の制止が叫びとなる。それでも、春馬は止まらない。止まる気など無かった。
 突っ込んで来た男の拳を潜り、顎を打ち上げる。所謂アッパーだ。後ろに仰け反って倒れた男は微動だにしない。霖雨が叫んだ。


(止めろ、春馬!)


 春馬は皮肉っぽく笑った。


「じゃあ、お前なら如何する?」


 春馬が言った。


「お前はこの状況で、逃げ惑うだけか? 蹲って耐えるだけか? それで何が変わるんだ?」
(じゃあ、暴力で一体何が変わるんだ!)
「好い加減、解れよ」


 苛立ったように春馬が言った。同時に、右の男の顔面に拳を叩き込む。
 鼻血を吹き出して仰け反る男は、鼻を骨折したかも知れない。春馬の拳は血塗れだった。それは霖雨の拳でもある。けれど、春馬はそんなこと気にもせず拳を振るい、蹴りを叩き入れる。
 もう止めてくれ!
 霖雨は悲鳴のような声を上げても、春馬は動じない。


「確かにお前は優しいよ。誰かを傷付けることもなく、人を救って来ただろう。――でも、誰もが皆そうなれる訳じゃない」


 春馬も、驟雨も、同じことを言う。霖雨は混乱していた。
 じゃあ、お前等は、暴力を肯定するのか?
 霖雨の問いを察した春馬が、答えた。


「間違いだって解ってても、そうすることしか出来ない人間だっている。お前が嫌う暴力でしか、守れないものがある」
(そんなことをして守ったものに、一体何の価値があるんだ!)
「そうまでして守りたいものが、俺達にはあるんだよ」


 霖雨だって、本当は解っている筈だ。訳も無く春馬は思った。ただ、認めたくないだけだろう。
 Lsとの一件で、霖雨は自分がどんな目に遭うか解っていながら受容した。暴力を受けると解っていたのに、逃げなかった。暴力を振るうのと受けるのとは違うけれど、霖雨は間違いだと解っていてもその選択をした。それは如何して。
 守りたかった筈だ。例えどんなに苦しくても。


 辺りは戦場の跡のようだった。折り重なって倒れる男達から流れ出る血液が地面に吸い込まれていく。遠くから悲鳴が聞こえた。警察も間も無く到着するだろう。春馬は首を鳴らし、その場を離れようと歩き出す。


「俺だって、暴力が好きな訳じゃない」


 噛み締めるように春馬は言う。


「お前のようになれるなら、俺だってそうするさ。でも、出来ないから! こうすることでしか、守れないから!」


 霖雨は、両手を伸ばした。絞り出すように叫んだ春馬を、抱き締めてやりたかった。けれど、現在身体を受け渡している霖雨は実体を持たない。大体、自分の体を自分で抱き締めたところで、春馬に届くのだろうか。
 立場は違っても、春馬は同じだと気付いた。暴力だと言われても、守るべきものを守るために戦おうとする春馬。臆病ものだと言われても、自分を守るために耐えて来た霖雨。どちらが正しいのかなんて解らない。どちらも間違いかも知れない。
 だけど、それでも。


「守りたいものが、あるから」


 呟いたのは春馬だったのか、霖雨だったのか、二人だったのか。
 降り止まぬ雨の中。ずぶ濡れになりながら春馬は顔を上げた。向かう先は、ただ一つだった。







2011.8.14