33.曲がらねば世が渡られぬ





 道場内は耳が痛くなる程の静寂に満ちている。中央に一切の防具を身に着けないままの驟雨が、傍らに使い込んだ竹刀を置いて正座している。切れ長な双眸は閉ざされ、其処から何の感情も読み取ることは出来ない。
 ギャラリーと化した門徒の中、黒衣の袴を纏った男が時計を見遣る。外はまだ明るい。だが、時計の針は縦一直線に並んでいる。


「時間だ」


 微かに空気が揺れた。男――桜丘叢雲は、目の前の息子を一瞥するとその正面に立った。驟雨は目を開けた。使い込まれた床板が見える。立ち上がれれば、審判を名乗り出た時雨が間に立った。


「此れより、仕合を始める」


 習わしに従って僅かに頭を下げる驟雨と、傲慢にも微動だにしない叢雲。驟雨は漏れそうになる舌打ちを呑み込んだ。


「傷一つでも負わせることが出来たなら、お前の勝ちとしよう」


 嘗めやがって。驟雨が苦々しげに口元を歪めた。
 互いに正眼に構える。当然だ。驟雨に剣術を教えたのは他ならぬ父、桜丘叢雲なのだから。
 生唾を呑み込む音すら響くようだった。


「始めっ!」


 時雨の声と共に、驟雨は一歩を踏み出そうとした。だが、動けなかった。
 目の前の男にはまるで隙が無い。まるで巨大な岩山を相手にしているような心地だった。踏み込めないまま、驟雨が一歩後ずさる。叢雲に表情は無かった。


「臆したか」


 その声が一体何処から響くのか、解らなかった。驟雨が意識するより早く、左目が竹刀を捉えた。反射にも似た速さで驟雨は飛び退く。振り切られた切っ先が驟雨の頬に赤い線を刻んだ。
 本気だ――。
 当然のことを、今更になって実感する。防具の無い状態で、この男の本気の一太刀を浴びることがどれ程危険なことなのか、知らぬ驟雨ではない。だが、常として防具一つ纏わない父を相手に慣れない防御を固めていたのでは、唯一とも言える勝機であるスピードを失くしてしまう。
 零れ落ちた血液を拭うこともせず、驟雨は目の前の男に構えた。


「俺が? 冗談だろ」


 口角を釣り上げ、皮肉っぽく笑う。強がりだと誰もが思っただろう。けれど、強がりでも笑っていなければ相手の空気に呑まれてしまいそうだった。
 この男と対戦したことがある者なら、誰もがその殺気にも似た威圧感を感じるだろう。
 じり、と足を摺る。常人なら進んだことすら気付かなかっただろう。だが、瞬きすら間に合わぬその瞬間、二人は乾いた音を響かせて竹刀を交わしていた。切り結んだと同時に、競り合うことを避けた驟雨が一歩退こうとする。――が、叢雲はそれを許さない。
 捻られた竹刀が驟雨の腕ごと巻き込んで力づくで押え付ける。驟雨の竹刀が悲鳴を上げた。
 力では適わない。元から解っていたことだ。
 叢雲の竹刀は一瞬で驟雨の腕から竹刀を弾き飛ばす。強かに打ち付けた竹刀が跳ねると同時に、驟雨は猫のように飛び退いた。ギャラリーがざわめき、時雨が不測の事態にも反応出来るようにと構える。拾い上げた竹刀が、叢雲の斬撃の威力を物語るように軋んでいた。驟雨が構えていないことなどお構いなしに、叢雲は猛攻を緩めない。


(俺は、負ける訳にはいかないんだ)


 驟雨の頭を過るのは、初めて出来た何に替えても守りたいと思う大切な仲間の顔だった。此処で負けるということは、唯一無二の繋がりを絶ってしまうことになる。負けられない。あそこはたった一つの居場所だから。
 嵐のような連撃を紙一重で躱し、防ぎながらその勢いに押される。自然と後退り、壁際へと追い込まれる。それが叢雲の狙いだと気付いた時にはもう遅く、目の前には一分の隙も無い大きな影が迫っていた。
 軋んでいた竹刀は切り結ぶこともなく、稲妻のような一撃の元にぼきりと叩き折られた。


「終わりだ」


 叢雲の声と共に、霖雨の顔が過った。
 この男は、躊躇などしない。手加減されるのも、情けを掛けられるのも真っ平だけど。
 何時だって頭の中は剣のことだけで、家庭を振り返ることも、息子と向き合うこともして来なかった。父らしいことなんて何もしてくれなかった。道場を継ぐ為だけに、強くなる為だけに育てられたのか。
 折れた竹刀が酷く重く、驟雨は掌から力が抜けていくのを感じた。


 なあ、俺って何なの?
 あんたの道具なの?
 此処で負けて全部失って、それでも俺、生きる意味あるの?

 もう いいかい?
 まぁだ だよ。
 もう いいかい?
 全部諦めても いいかい?


「――驟雨ッ!!」


 静寂を破る悲鳴のような声。振り下ろされた断頭台のような竹刀の前に、黒い影が躍り出る。
 まぁだ だよ。
 何処からかそんな声がした。ずぶ濡れのYシャツと、泥塗れのスラックス、光を受ける整った相貌、ぎこちなく握られた一本の竹刀。力の抜けていた筈の掌が折れた竹刀を握る。


「退け、霖雨!!」


 奪い取るように竹刀を掴み、邪魔だと言わんばかりの勢いで霖雨の腕を引いた瞬間。振り下ろされた竹刀が、僅かに鈍ったように見えた。
 貫いた一撃は読んでいたのだろう、呆気無く弾かれた。けれど、一瞬にして切り返す達人芸は、金色の光を帯びた新たな竹刀によって防がれる。


「……諦めてんじゃねぇよ、馬鹿驟雨……」


 ぎしぎしと竹刀を軋ませ、絞り出すような苦しげな声で言ったのは。


「――春馬」


 霖雨にこんな芸当は出来ない。鉛のように重いだろう斬撃を痩躯の春馬が受け止めるのは、目の前にしても信じ難い。
 振り返る余裕など微塵も無いだろう。驟雨でさえ受け切ることの出来なかった斬撃を、横から受け止めた春馬は、一体何者なのだろう。春馬は競り合わせた竹刀を弾くと後ろに大きく飛び退いた。同時に驟雨は肩を並べて立つ。


「お前、何で来た。ぶちのめすって、言っただろ……」


 綺麗事のように暴力を嫌う霖雨が、此処に来る筈が無い。武芸とは言え、相手を傷付けるこの行為を霖雨が嫌うのは明白だった。それでも、霖雨は自らの足で此処に来た。豪雨の中ずぶ濡れで、足元に泥を跳ねさせ、退院したばかりの体を引き摺って。
 それは、如何して。
 目の前の男への警戒を解かぬまま、春馬は無表情に答えた。


「暴力は嫌いだろうさ。例え其処にどんな理由があっても、どんなに説き伏せたとしてもそれは変わらない。霖雨が暴力を振るうことは、天地が引っ繰り返ってもあり得ないだろうさ」
「じゃあ、何で」
「決まってんだろ、お前が大切だからさ。殴られる覚悟は出来たけど、お前と友達を辞める覚悟だけは、如何しても出来なかったんだ」


 不意に霖雨の寂しげな顔が浮かび、胸が軋むように痛んだ。
 俺の、為に? 大嫌いな暴力にすら立ち向かうのは、俺の為?
 なあ、お前、何でそんなに馬鹿なの。傷付かないで済む道は幾らでもあるんだぜ。諦めることがお前の処世術だったじゃねぇか。友達は俺だけじゃねぇのに、林檎や香坂や樋口や佐丸がいるのに、何でわざわざ俺みたいな奴の為に傷付くんだ。放っておけばいいだろ。諦めたらいいだろ。なあ。


――お前が霖雨を大切だと思うように、霖雨もお前が大切なんだ。お前が霖雨を助けたいと思うように、霖雨もお前を助けたいんだよ


 そんなに、そんなに俺が大事?
 心に染み着いた恐怖を乗り越える程、生き方そのものを変える程、俺が大事なの?


(何で)


 俺、ずっと透明人間なのかなって思ってたんだ。いてもいなくても変わらない存在なら、死んでやろうって思ってた。霖雨に逢ってちょっと寄り道しちまったけど……。
 でも、違うのかな。生きていていいのかな。――生きて欲しいって、望まれてるのかな。
 酷く視界が明瞭になり、無音だった世界に外の激しい雨音が届く。肌が湿っているのは汗だけじゃなくて、外気からの湿気もあったのだろう。ギャラリーでしかなかった門徒が向ける目は訝しげに、審判を務める時雨は酷く心配そうに此方を伺っている。体の震えが消えた。押し潰されそうな気迫が失せて、目の前にいる一人の人間に真っ直ぐ向き合う。
 驟雨は、笑った。それは自然に零れ落ちた微笑みだった。


「――下がってろ、春馬」


 竹刀を構えていた春馬が、ちらりと視線を向けた。だが、驟雨は不敵な笑みを浮かべ、竹刀を肩に担ぐ。


「これは、俺の戦いだ」


 張り詰めた空気が、突然霧散した。春馬が笑ったのだ。春の木漏れ日のような穏やかな微笑みだった。


「負けんじゃねぇぞ」
「誰に言ってやがる。……俺は負けやしねーし、逃げもしねーよ」


 悪戯っぽく笑う驟雨は、無邪気な悪童のようだった。それこそが驟雨本来の姿だ。あらゆる柵から解き放れて、誰かの為でも無くただ自分自身の為に、自分の誇りの為に剣を握っている。
 竹刀を下ろした春馬が、くるりと背中を向けた。黙って壁際まで歩むとどかりと胡坐を掻いた。


「見ててやるよ。お前の戦い」
「上等だ」


 竹刀の具合を確かめるように、驟雨が大きく竹刀を振り下ろす。風を切る鋭い音がした。


「待たせたな。再開しようぜ」


 叢雲は何も言わない。微動だにしない。だが、彼の目には見えたのだ。驟雨から立ち上る金色の湯気にも似た気迫が――。
 互いに本気だ。緊張が張り詰める。破ったのは驟雨だった。
 一瞬で間合いに踏み込んだ。高性能センサーでも搭載されているかのように、叢雲の竹刀が振り下ろされる。だが、驟雨は踏み込んだ勢いを殺さぬまま体を捻ると叢雲の脇腹に竹刀を突き入れる。虚空が悲鳴を上げる。
 浅い――。
 体制を直すより早く、叢雲は無防備な驟雨の背後を取った。
 終わった――。誰もがそう思った。驟雨が、笑うまでは。


(罠――)


 飛び退いた驟雨が、叢雲の足元を掬い上げる。嫌味なまでにさらりと躱されるが、予想通りだ。足を逃がした先、驟雨の竹刀が一閃した。その名の如く、通り雨のように激しい連撃。息を逃がす瞬間さえ与えない。
 これで決める――。驟雨の竹刀が横薙ぎに払われたと同時に、叢雲は貫いた。一瞬の静寂。


「――ッ」


 脇腹を抱えたのは、驟雨だった。決まった。誰もがそう思った。だが、時雨が手を上げた。


「勝者、桜丘驟雨」


 宣告された名に、誰もが耳を疑った。しかし、叢雲の竹刀を見たとき、その意味を誰もが理解した。
 折れている。新品同様の、よく撓る竹刀が。
 桜丘流は真剣勝負を前提にした実戦剣術。もしも、これが戦闘だったなら、脇腹を負傷した驟雨と武器を失った叢雲、勝者は明白だ。仕合前に叢雲は自ら、傷を負わせたなら驟雨の勝利とすると言った。十分だろう。
 ざわめく場内で、対戦者同士だけが静かだった。荒い呼吸を繰り返す驟雨の視界の端に、金色の光が瞬く。


「驟雨――」


 振り向いた先にいたのは、春馬ではない。霖雨が大きな目を一層大きくし、口をぱくぱくさせる。言葉を探しているのか、発語の方法そのものを忘却してしまったのか。その姿が滑稽で、驟雨は口元に笑みを浮かべた。何か言おうとしたその時、ある筈の無い声がした。


「やったな、驟雨!」


 声を上げたのは、香坂だ。
 開け放された扉の向こうから、一直線に飛び掛かった香坂が驟雨に抱き着く。傍に立つ林檎が拍手を送るが、意味など解ってはいないだろう。取り残された霖雨が倒れるように壁に背を預け、大きく息を吐いた。安堵と共に疲労がどっと圧し掛かったのだ。
 騒ぐ驟雨には目も向けず、叢雲は折れた竹刀をじっと見詰めた。折れた先がばさつき、僅かに黒ずみ熱を帯びている。偶然折れたのではない。鋭い一太刀に竹刀が耐え切れなかったのだ。
 叢雲は竹刀を下ろした。気配を感じた驟雨が、騒ぎ立てる香坂を越えて動きを止める。湿気に満ちた空気の奥で、叢雲が、父が、微笑んでいた。時間が止まったような気がした。


「強くなったな、驟雨」


 父の言葉の意味が、解らなかった。
 自分に一切の興味を持たず、ただ跡継ぎとしての道具としか見て来なかった筈の父が、真っ直ぐ此方を見ている。笑っている。有り得ない光景を、驟雨は動くことすら出来ず穴が空くほど見詰めていた。
 時雨が拍手を送った。乾いた音が反響する。


「流石、兄貴はすげぇや」
「時雨……」


 状況が呑み込めない。けれど、壁際に座り込んでいた霖雨が言った。それは囁くような小さな声だったにも関わらず、場内にいた全ての人間の耳に届いた。


「子を愛さない、親なんていないよ」


 それが全ての答えだと言うように、父が微笑む。見たことも無いような力強く、優しい笑みだ。――否、俺はこの微笑みを知っている。忘れていただけだ。
 何時も父の背中ばかり見ていた。母の遺影を見詰める背中が震えていたことも、どんな逆境でも振り返ることも後ずさることも無く道を示し続けたのは、父だった。その口では何も語らなくとも、父は何時でも背中で語っていた筈だ。息子が忘れてしまう程、当たり前のように。
 だが、今更感謝の言葉を告げることも、態度で示すことも出来ない。驟雨は照れ臭さを誤魔化すようにそっぽを向いた。
 父は一度鼻を鳴らして笑うと、そのままくるりと踵を返して道場を出て行った。何も言いはしないけれど、その背中が自分への全幅の信頼を語っている。
 ふ、と息を零す。酷く疲れたような気がした。体中の力が抜けてしまいそうに怠い。だが、香坂が言った。


「追わなくていいのか?」


 誰を、と問い掛けようとしたところで、驟雨は気付いた。霖雨がいない――。


「何処に……!」


 弾かれたように驟雨が道場を飛び出していく。騒ぎの収まらぬ場内は喧しく、取り残された時雨が不思議そうに首を傾げるが驟雨は立ち止まらない。
 門を飛び出せば、豪雨の中傘も差さずに歩いて行く霖雨の小さな背中が見えた。


「霖雨!」


 霖雨は振り返らなかった。だが、ぴたりと足を止め、ゆるゆると顔を向けたのは春馬だった。
 肌を弾く水滴ように金色の光が瞬く。春馬に表情は無かった。


「よう。楽しい喧嘩だったな」
「春馬……。霖雨は」


 春馬が皮肉そうに、くつりと笑った。


「霖雨は当分、出て来ねぇよ。……確かに、暴力がいけないなんて言うのは、きれいごとだよ。霖雨は暴力が嫌いな訳じゃねぇ。ただ、怖いんだよ」


 ぎくりと驟雨が動きを止める。当たり前のことだと解っているが、春馬の能面のような表情は冷たく恐ろしかった。
 霖雨が幼少時、親戚連中に盥回しにされていた頃、慢性的な虐待を受けていたことは、時の扉を通して知っている。非力だった霖雨を責める気は無いけれど、力そのものを否定するのは極端だとも思うのだ。驟雨は言葉を探し、目を泳がせる。春馬は凍り付くような目で、笑った。


「お前や俺が、霖雨に暴力を振るった連中と同じように、何時か暴力を振るうようになるんじゃないかと、怖かったのさ」


 それは酷く皮肉染みた笑みだった。くつくつと喉を鳴らして笑う春馬は、豪雨に打たれながら何処か泣いているように見えた。
 驟雨の脳裏を過ったのは、数刻前の霖雨との電話だった。


――俺はお前とは違う。お前みたいな聖人君子にはなれねぇ
――聖人君子なんかじゃない。ただ、俺は



 ただ、怖かったのか。
 暴力を振るうと言った驟雨を、嘗て自分を虐待した大人と重ね見たのだ。軋むように痛む胸を押え、驟雨は奥歯を噛み締めた。それでも、霖雨は此処に来た。例え驟雨が自分に暴力を振るうようになっても、それでも友達でいたかったから。
 ただ、それだけの為に。


「馬鹿、野郎……」


 そんなことを言えた義理ではない。解っていても、驟雨は呟かずにはいられなかった。
 告げた春馬も苦しげなのは、霖雨の真意に気付けなかったからだ。過去のトラウマをフラッシュバックさせているのだと思い込んでいた。それは間違っていないけれど、霖雨は本当に恐ろしかったのは暴力そのものではなく、それによって友達がいなくなってしまうことが何より恐ろしかったのだ。
 春馬は顔を上げた。闇に降り注ぐ雨が頬を打った。


「……頼むから、これからも霖雨の傍にいてやってくれ。霖雨は俺が願う以上に強くて、祈る以上に脆いんだ」


 笑う余裕など無かった。驟雨は目を伏せたまま、ぽつりと言った。


「そんなこと、言われるまでもねぇんだよ……」


 雨音に掻き消えそうな微かな声に、春馬が俯く。
 絶対に、お前を独りにはしねぇよ。祈りにも似た誓いを胸に、驟雨は強く拳を握った。降り続く雨はまるで泣くことの出来ない誰かの涙のようだった。







2011.8.25