34.意気阻喪






 夢を見た。
 何時もの朝、何時もの通学路。他愛の無い話をする林檎の声と、無関心に欠伸を噛み殺す驟雨と、大して興味も無いだろうが律儀に相槌を打つ香坂。変わらない毎日、変わって欲しくない穏やかな日々。降り注ぐ日光は何時しか薄れ、秋の訪れを感じさせた。
 夢を見た。これが夢だと気付いたのは、いる筈の無い人間が自分の隣で肩を並べ歩いていたからだ。
 鏡でも見ているような奇妙な感覚。同じ姿をした別人。


「俺の顔に、何か付いてるか?」


 しれっと言い放つ美しい顔立ちの少年。悪戯っぽく僅かに吊り上った口角と、優しげな眼差し。金色の光など無くても、それが誰なのか霖雨にはすぐに解った。
 春馬。
 その名を呼ぼうとして霖雨は気付く。声が出ない。思わず喉を押えて咳き込もうとするが、隣りで春馬が怪訝そうに目を細めただけで思いは形にはならない。これは夢なのだ。そう解っても、これが何を暗示させるものなのか霖雨には見当も付かない。


「顔色が悪いな。無理はするなよ」


 自分を労わる春馬の目は酷く優しい。驟雨の向こうから、香坂が言った。


「相変わらず、春馬は霖雨に優しいよな」
「今更」


 茶かすように驟雨が悪戯っぽく笑う。だが、春馬は嫌な顔一つせず微笑み答えた。


「当然だろ。――俺は霖雨の、たった一人の兄貴だぜ?」


 其処で、暗転。どよめきと労りの声が飛び交う中で霖雨の意識は闇の中に沈んで行った。
 再び目を開いた時、其処は見慣れた節目だらけの天井だった。夢を見ていたことなど、解っていたのに。頬を伝う滴が汗だけでないと悟る。ゆっくりと顔を横に向けるが、其処に春馬の姿は無い。当然だ。だって春馬は、自分の体の中にだけ存在する幽霊のようなものだから。
 だけど、それでも、あの夢が現実だったなら、どんなに良かっただろう。
 もし、も。
 そんな空想は無意味だ。どんなに願っても目の前の現実は変わらない。


(俺は、ずっと一人だ)


 今までも、これからも。
 春馬に言えば、笑われるだろうか。こんなもの下らないと、一蹴されるだろうか。ゆっくりと体を起こし、霖雨は登校の仕度をすべく掛布団を退かそうとする。昨日干したばかりのふかふかの布団に手を掛け、霖雨は動きを止めた。
 でも、俺は。


(俺は、その有り得ない夢が、恋しくて堪らないんだよ……!)


 布団を握る掌に力が籠る。吐き出せなかった願いが、叫びが、掌の力となって零れ落ちる。


(独りは、嫌だよ)


 蹲るようにして嗚咽を噛み殺す霖雨を、部屋の隅から春馬が茫然と見詰めている。体を共有する春馬には、全てと言わなくとも霖雨の心を察知することは出来る。声にすら出来ないその願いを春馬は遣り切れない思いで聞き入れる。
 林檎と驟雨と香坂が、霖雨の傍にいれくれる。それだけで十分だと春馬は言い聞かせて来た。でも、羨ましくなかったと言えばそれは嘘だ。友達に囲まれる霖雨も、彼を支えてやれる驟雨達も、春馬は羨ましくて堪らない。
 一言、それを霖雨に伝えれば彼は何を犠牲にしてでも叶えようとしてくれる。たった一言、助けてと言うだけで。
 この底の見えない泥沼の中へ、自分の身も顧みずに手を差し伸べてくれる。救い出そうとしてくれる。それが解っているから、何としても春馬はそれを口にする訳にはいかなかった。相手を守りたいと思うのはお互い様だ。
 霖雨の願いは、春馬の願いだ。そしてそれは、有り得ない夢ではなく、有り得た現実だ。だが、それを霖雨に告げる気は無い。例え霖雨がそれを渇望していたとしても。
 のろのろと仕度を始める霖雨の背中は孤独だ。友達が出来ても、霖雨の心の根柢には孤独がある。それは林檎でも驟雨でも埋めることの出来ない大きな溝なのだ。彼等に天涯孤独の霖雨の痛みは解らない。


(なあ、霖雨)


 無意識の呼び掛けに、霖雨が振り返る。思わずどきりとした春馬だが、困ったように眉をハの字にして笑う霖雨にほっとする。


「何だ、春馬?」
(――いや、何でもないよ。ただ、お前の顔色が酷く悪いから)
「ちょっと、夢見が悪くて」
(どんな夢だったんだ?)


 問い掛けて、自分の底意地の悪さに春馬は自嘲する。そんな春馬の心中など知らず、霖雨はYシャツのボタンを留めながら、困ったような笑いを浮かべたまま答えた。


「何時もの登校風景にね、春馬がいたんだ。俺の、たった一人の家族として春馬が」


 返す言葉を持たない春馬を、予想していたように霖雨がすぐに言葉を続けた。


「夢だって解ってるよ。ただ、すごく……悲しかったんだ」


 それが夢だと知りながらも、願わずにいられなかった霖雨の心境が解らない筈が無い。俺だってお前の家族でいてやりたいよと、願ったところで春馬には現実を変えることは出来ない。
 朝食も食べず仕度を終えた霖雨が、無地のマグカップで水道水を一杯飲み干し、ローファーに足を通した。


「行こうぜ、春馬」


 玄関を開けた霖雨が笑う。こうして声を掛けられる存在があるだけで、霖雨は嬉しいのだ。
 穏やかな晴天は夢の通りだ。何時もの通学路を辿れば林檎が霖雨を呼びながら駆け寄って来る。先の角を曲がれば驟雨と香坂が待っていることだろう。
 ブロック塀を曲がった先のカーブミラーの下、凭れ掛かるようにして驟雨が待っていた。横にしゃがみ込む香坂は元来の悪人面も加えて見るからに柄が悪い。通常なら目も合わせたくない二人組だが、二人は霖雨と林檎の姿に気付くと軽く手を上げて合図した。


「よう、霖雨。ついでに林檎も」
「ついでって何よ!」


 驟雨の挨拶にいきり立つ林檎を横目に、香坂は霖雨を覗き込む。不機嫌そうに眉間には皺が寄った。


「霖雨、顔色悪くないか?」


 香坂の言葉に反応した驟雨が、同様に覗き込む。
 そうかな、と適当に返答すれば驟雨の眉間にも皺が寄った。


「ちゃんと飯食ってるか? お前、痩せただろ」
「食べてるよ」


 昼食はね。
 その言葉を呑み込んで霖雨が曖昧に笑う。


「ちょっと風邪気味だったんだよ。もう治ったから大丈夫なんだけどね」
「本当か? 無理はするなよ」


 驟雨の言葉が、夢に現れた春馬と重なる。そうして、彼のいない現実に空しくなる。
 俯いた霖雨を労わるように林檎が背を撫でた。
 こんなにも温かい仲間に囲まれているのに、更に何かを望む自分の強欲さに呆れながらもそれでも願わずにはいられない。当たり前のように春馬がいる現実。有り得ないと解っていても、祈らずにはいられない。人間なんて結局、何時だってないものねだりだ。
 その時、アスファルトの通学路を叩く乾いた音がした。俯いた霖雨の目に、一つの影が映り込む。


「おはよう」


 ゆっくりと顔を上げた霖雨の目に、見覚えのあるスーツの男が映る。カウンセラーの、三間坂静寂。霖雨にとっては数多い教員の一人でしかないのだが、何故だか春馬が毛嫌いして近付くことすら恐れている。


「おはようございます」


 通過儀礼のように挨拶を返せば、三間坂は穏やかな笑みを浮かべた。だが、その微笑みは前に進み出た驟雨と香坂によって隠される。
 今にも噛み付きそうに睨む驟雨と香坂に苦笑いし、三間坂は早々に背を向けた。スーツ姿が人込みに消え失せても二人は其方を睨んだまま動かず、霖雨は林檎と顔を見合わせて首を傾げた。


「お前等も、三間坂先生のこと嫌いなのか?」


 霖雨が問い掛けると、振り返った驟雨がその目を鋭くさせたまま不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「あいつは虫が好かない」


 一言、それだけ言って驟雨は歩き出した。
 霖雨は、知らない。霖雨が春馬の人格と交代していた時、三間坂とどんなやり取りがあったのかを知らない。春馬が言いたくないのか、それとも知られたくないのかは解らないが、彼が黙っているなら驟雨とて干渉する余地は無い。
 その出来事を知っている香坂もまた、なるべく霖雨と三間坂は近付かせたくない。先を歩き出す二人の背中に違和感を覚えつつも、追及の言葉を持たない霖雨は黙って後を追った。
 駅前は人がまるで虫の大群のように激しく行き来している。酔いそうだと思いながら、霖雨は必死に先を歩く二人の背中を追う。隣りで林檎が他愛の無い話をするが、相槌を打つだけで精一杯だった。
 視界が激しく揺れる。何者かが脳内で叫んでいる。眩暈、耳鳴り、吐気、倦怠感。ぐらりと揺れる霖雨を反射的に林檎が支えた。


「霖雨、本当に大丈夫?」
「うん、ごめん。ぼーっとしてたら、ぶつかっちまった」
「……そう、気を付けてね」


 何か言いたげな林檎も、それ以上問い詰めはしない。霖雨が言うまいとしていることを掘り出そうとする程、彼女は愚かでもなければ悪趣味でもない。
 如何にか学校に到着するが、霖雨の症状は益々酷くなる一方だった。体中が鉛のように重い。苦しくて仕方が無い。
 隣の林檎に悟られないように大きく空気の塊を吐き出す。不意に触れた額が焼けるように熱かった。これで風邪なら、嘘から出たまことだな、と内心で自嘲する。そんな霖雨を見ていられないとばかりに、足元から金色の光が浮かび上がる。春馬が現れるときの合図だ。だが、体は共用している。人格が交代したところでこの苦しみが霖雨から春馬に移るだけだ。


(春馬、大丈夫だ)


 胸の辺りを握り締め、交代しようとする春馬を必死に抑え込む。


(言っただろ。お前が俺を守ろうとするように、俺もお前を守りたいんだ)


 春馬が傷付き苦しんでも、自分さえ良ければいいと言える程、薄情にもなれないし、割り切ることも出来ない。これが子どもの我儘だとしても、これだけは譲れない。目の前に、春馬の酷く苦しげな顔が浮かぶ。
 なあ、お前がそんな顔する必要なんて無いんだぜ?
 お前ばっかりが嫌なこと背負って苦しんで、俺が本当に幸せだと思うのか?
 そうして問い掛ければ、春馬は目を伏せる。黙った春馬の横を、胸を握り締めながら霖雨は通り過ぎる。体中が油の切れた機械のようにぎしぎしと軋むけれど、春馬が苦しむよりは遥かにマシだ。
 挨拶を交わし合う生徒の群れの中、手首を強く握り締めて正気を保とうとする。こんなところで倒れる訳にはいかない。大切な仲間に迷惑を、心配を掛けさせる訳にはいかない。
 ふと見上げた先に、春馬の横顔があった。何処かを凝視し動かない。
 何を見ているのだろうとその方向へ目を向けると、一階の保健室の大きな窓に、三間坂が見えた。
 ああ、なるほど。此処で倒れる訳には、いかないんだな。
 春馬の胸中が読めた気がして、霖雨は拳を握る。理由は解らないが、春馬は三間坂を毛嫌いしている。――否、毛嫌いどころではない。春馬は、三間坂が憎いのだ。憎くて堪らなない。そして、酷く恐れている。
 人を憎む気持ちが解らない訳じゃない。体を共有していても、霖雨と春馬は別の人間だ。その気持ちまで共有出来る訳では無いから、予防線は超えてはならない。
 だけど、それでも酷く苦しい。これは果たして、ただの風邪だろうか。以前、高熱で寝込んだことはあるが、こんな症状ではなかった。喉の奥から空気の抜けるような奇妙な音がする。
 一時間目は、数学だったなと思い出す。教師には悪いが、寝させてもらおう。とても起きていられる状況ではないし、早退すれば仲間が心配する。少し眠れば多少症状は回復するだろう。
 下駄箱から取り出した上履きが二重に重なって見える。目頭を押さえる霖雨を心配そうに林檎が見ているが、気付かない振りをした。最早、霖雨を支えているのは意地だけだ。重い体を押しながら、教室へ続く階段を恨めしく思った。





2011.9.19