35.臍を噛む
チャイムと共に目が覚めた。遠くの街並みに沈んで行く夕日に、一日の終焉を悟った。教室は無人で、傍の机の上に鞄が三つ、乱雑に置かれているだけだった。持ち主の姿を探して視線を巡らせるが、何処にもその姿は見られない。まさか鞄を置いて帰ったとも思えないから、寝ている自分をそっとして置こうと何処かへ行ったのかも知れない。
今日の授業の記憶が一切無い。春馬の存在を知る以前は二重人格として、別人格が日常を送っていたと解釈していた。だが、今日のところはもしかすると見兼ねた春馬が交代したか、それとも丸一日眠っていたかだ。椅子から立ち上がることすら億劫になる全身の倦怠感と、頭蓋に響く鈍痛。モスキート音に似た耳鳴りに足元が揺らぐ。如何にか立ち上がり、姿の見えない仲間を探すべく廊下に出る。無人の廊下には赤い夕陽が差し込んでいた。
(誰もいない……)
開け放された窓の向こうから、部活動の賑やかな掛け声が聞こえる。それでも静寂を保とうとする廊下に、リノリウムを叩く足音が反響している。
姿の見えない仲間を探して隣のクラスを覗くが、其処にも人影は無い。何処に行ったのだろう。無人の学校にいると、奇妙な感覚になる。まるで、この世界には自分以外の誰も存在しないかのような錯覚に陥ってしまう。だが、その無音の空間に微かな水音がした。
女子トイレからの水音は、当然と思うもののホラー映画のワンシーンのようだった。
(血の臭いだ)
傍で、囁くように春馬が言った。その声は酷い耳鳴りに掻き消されそうな程小さなものだった。
何故、春馬が声を押し殺す必要があるのだろう。彼の声は自分以外の誰にも届かないのに、と思ったところで自分の考えを否定する。嫌味っぽかっただろうか。それとも、皮肉か。春馬には悟られぬようにし、出入り口から少し離れた壁際に背を預けた。
身体が重い。女子トイレでなければ、一目散に駆け込んで嘔吐したいところだ。壁に凭れたままずるずると座り込む。瞼がゆっくりと下りていく。
まだ、駄目だ。此処で倒れる訳にはいかない。
意思とは裏腹に瞼は下りていく。丁度、トイレから足音が聞こえた。
「――なあ」
ぼやけた視界に、人影が浮かぶ。小さい、女子生徒。
霖雨の声に怯えたように肩を跳ねさせる少女の顔は見えない。だが、そのおぼろげな人影に向かって霖雨は話し続けた。
「怪我してんのか?」
ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。次第に鮮明になっていく視界に、見覚えの無い少女が浮かび上がった。
名も知らぬ同級生。夏服である半袖のYシャツと、短いスカート。色白で化粧気は無いが、可愛らしい顔をしている。細い腕の先に、大きな腕時計が巻かれていた。血と何か覚えのある懐かしい匂いがする。これは、絵の具?
「血の臭いがする」
「あ、そう。ちょっと怪我、して」
「そっか」
少女の短いスカートのポケットに、何か入っている。大きさから見ると掌程の長細いもの。恐らく、カッターナイフ。
霖雨は動かし辛い体を押して少女の元へ辿り付くと、ポケットを探った。確か、以前林檎がくれたものがまだ入っている筈だ。
「じゃあ、これやるよ」
ぽい、と投げ渡したそれを反射的に少女が受け取る。奇妙なキャラクターの描かれたよれよれの絆創膏だ。
目を丸くした少女が霖雨を見た。
「あんた」
「あんまり、やり過ぎるなよ」
少女の白いYシャツに絵の具が着いている。美術部員なのかも知れない。
懐かしい絵の具の匂いに、霖雨の記憶が蘇った。それは霖雨が嘗て描いた家族の肖像。川に放り込まれた絵画の絵の具は全て流れ落ちてしまったけれど、それでも今もあの絵画は霖雨にとって大切な宝物だ。両親との唯一の思い出を刻んだものだ。
流れ落ちた絵の具の匂いが、如何してこの少女がするのだろう。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
カチカチカチ。
少女が、俯く。ポケットから鈍色のものが夕日を反射する。
「――霖雨!」
銀色の閃光と、金色の光の粒子が交差する。一直線に霖雨の腹部を狙ったカッターナイフが振り上げられる。
霖雨の瞳に金色の光が灯る。
「お前……」
少女の目が虚ろに揺れる。正気でないことは最早明白だ。
大きな腕時計の下から、血液が零れ落ちる。この少女が自らその腕を刻んだのだ。春馬にはその意味が解らない。
「何なんだ、お前」
これは時の扉の影響か。
がらんどうの瞳が何を見ているのか、虚無に支配された脳が何を思うのか。春馬には解らない。ただ一つ解るのは、目の前の少女は霖雨に刃を向けているということだけだ。
俯いた少女の口元から何か言葉が紡ぎ出されている。微かに聞こえるその言葉は呪いの言葉だ。
「……のよ……が……」
聞き取れない。春馬は眉間に皺を寄せる。聞き耳を立てる春馬の横をカッターナイフが通り過ぎた。
「あたしは……悪くない……」
「何のことだ? 俺は、お前を責めて無いぜ」
「全部……あいつ等が悪いんだ……」
誰かを呪う言葉が、春馬の耳に届く。
誰かを憎み、誰かを恨み、誰かを呪う。その闇は彼女の弱さが招いたものだ。時の扉の影響が彼女に刃を向けさせているのは事実だが、どんな理由があっても霖雨を傷付けていい理由にはならない。
「どんな事情があっても、人を傷付けることは許されないんだ」
「そんなこと、」
「その刃を下ろせ」
「――!」
少女が声にならない悲鳴を上げた。咄嗟に反応出来ず、春馬が瞠目する。
動転したように一歩一歩と少女が後退り、そして、進み出る。彼女が何をしたいのか解らない。
「あたしは悪くないのに!」
溜息を一つ零し、春馬は身を低くする。体中を倦怠感が包み込んでいた。視界が霞むのは夕焼けのせいではないだろう。
少女から刃を奪うべく身構える。けれど、その時。
(駄目だ、春馬!)
周囲を漂っていた金色の光が消えて行く。弱り切っていた筈の霖雨が、力尽くで表に出ようとする。
(霖雨!)
(違うんだ、春馬! この子は)
最後の光が消え失せたと同時に、霖雨の瞳は漆黒に戻る。少女の刃は振り上げられていた。
まるで、影辻のようだ。酷い既視感を覚えながら霖雨は両手を広げた。
「泣いてもいいよ」
呪いの言葉を吐き続けた少女の動きが、停止する。其処で初めて、春馬は少女の目に滴が輝いていることに気付いた。
訴え掛けるように、諭すように静かに霖雨は言葉を繋ぐ。
「その傷は、お前の痛みなんだろう?」
動きを止めた少女との距離を一歩ずつ詰めて行く。咄嗟に少女が手首を押さえたのを見て、霖雨は少しだけ寂しそうな顔をした。未だ凶器を離さない少女の目の前に無防備なまま立つと、包み込むようにそっとその手首に触れた。
何の言葉も発せない少女はそのままに、霖雨は大きな腕時計を外す。其処には治り掛けの生傷の他に、今し方切ったばかりのような二本の赤い線が走っていた。滲んだ血液が滴となって、足元に落下する。霖雨は黙ったまま、其処に絆創膏を貼った。
「痛かっただろう」
少女は緩く首を振った。カツン、と。強く握り締められていたカッターナイフが滑り落ちる。
そうか、とだけ返答し、再び霖雨は黙ってその手を放した。少女は処置された手首を茫然と見詰める。
「……何で、怒らないの。何で、何も訊かないの」
「それで、この傷が塞がるならそうするさ。俺はお前の傷を抉りたい訳じゃない」
霖雨はゆっくりと離れ、壁に背を預けた。体が重い。何をした訳でも無いのに呼吸が乱れている。
唾を飲み下し、霖雨は顔を上げた。
「何があったかは知らない。でも、そんな傷を作るくらいなら、俺に聞かせてくれよ。その方がずっといい」
喉の奥から空気の抜けるような奇妙な音がする。頬が火照ったように熱く、視界が激しく揺れる。このまま座り込んでしまいたいけれど、それでは彼女に何もしてやれない。悪戯に傷を覗き込んだだけだ。
「あんたになんか解らない!」
「うん、それはあんただけの痛みだ」
「何も解らない癖に、解ったような顔をしないで!」
「じゃあ、何で泣くんだ」
影辻であった常盤秋水と、自殺未遂まで追い詰められた鷲尾蜜柑が少女の重なる。
この子が紡ぎ続けた言葉は呪いの言葉なんかじゃない。助けを求める声なんだ。春馬は確かに正論を告げた。人を傷付けることは許されない。でも、あの時、この子にはきっと彼女が自身を刻む行為そのものを否定されたと感じただろう。そして、刃を下ろせと言った春馬の言葉は、この子に死ねと、伝わったのかも知れない。
相手の心の闇全てを背負う覚悟が無ければ、相手の悲鳴なんて聞こえて来ない。
足元から崩れ落ちた少女を、反射的に霖雨は支えようとするが、力が入らず共に座り込んでしまった。廊下の隅に落ちたカッターナイフが夕日を反射して光る。
少女の啜り泣きが廊下の静寂を埋め尽くしていく。霖雨は頭蓋に響く鈍痛に顔を顰めながら拳を握った。
不意に春馬の自分を呼ぶ声がして、霖雨は閉じ掛けた瞼を押し開ける。
(優しいな、お前は)
春馬の言葉は何処か皮肉っぽく響いた。それは目の前の少女を蔑むようで、春馬自身を卑下するようだった。
霖雨は苦笑する。
(この子はね、死にたかった訳じゃないんだよ)
驚いたように顔を上げる春馬に、霖雨は微笑む。手首を切るその様を、自殺と捉えた春馬を否定することは出来ない。そして、恐らくは生きたくても生きられなかった春馬に自殺したいと思うその心理を理解しろと訴えるのはとても酷なことだ。
(自分の存在を確かめる為に……生きる為に切るんだよ)
(……俺には、解らないな)
(解らなくていいんだ。きっと、それは幸せなことなんだよ)
(そうかな?)
春馬は俯いた。
(この世界は物が溢れていて、餓えることも無ければ、雨に濡れることも無いだろう。身を守る為に武器を握る必要も無ければ、命を脅かされることも殆ど無い。それなのに……、如何して自らを傷付ける必要がある)
春馬が生きた時代を思いながら、霖雨は拳を握る。啜り泣く少女の頭を撫でながら、霖雨は春馬を見た。
(うん……。だからきっと、命の価値観が変わってしまったんだろうね)
荒い呼吸を整えるように大きく深呼吸し、霖雨は言った。
(春馬、ありがとう)
(――何のことだ?)
(守ってくれて)
廊下の隅に弾き飛ばされたカッターナイフを見て、霖雨は苦笑する。だが、春馬は困ったように眉を寄せた。
(俺は何も出来なかった。お前を守ったのは、お前自身が持ってる優しさだよ)
霖雨は首を振った。
(あの時、春馬が出てくれなければ、俺はあのナイフを避けられなかった。そうすれば、この子は罪を背負う。例え俺が何も言わなくても、この子は自分を責める。だから、ありがとうなんだ)
霖雨は笑った。
(俺を守ってくれて、この子を守ってくれてありがとう)
それにね、と霖雨は続ける。
(それにね、俺は優しくなんてないんだよ。もしも俺を優しいと言ってくれるならそれは、春馬や驟雨がいてくれるからだ。俺のエゴが優しさであれるのは、お前等が守ってくれるからなんだよ)
そうして屈託無く笑う霖雨の手が震えている。辛いのだろう。春馬は居た堪れない気持ちになった。
先程、少しだけ交代した時に全身を襲う倦怠感と頭痛に驚いた。立っているのがやっとの筈だ。
もしも、自分が霖雨を支えてやれたなら。
そう考えて絶望する。春馬が伸ばした手は霖雨に触れることすら出来ずに通り抜けてしまう。もう立ち上がることも出来ない霖雨を支えることも出来なければ、助けを呼ぶことも出来ない。
ぐらりと、霖雨の体が傾いた。
(――霖雨!)
鈍い音が廊下に低く響く。倒れ込んだ霖雨は荒い呼吸を繰り返し動かない。驚いたように少女が顔を上げる。
「如何したの! ねぇ!」
動転したように少女が霖雨を揺するが、反応は無い。額には幾つもの汗の滴が張り付いている。
助けを呼ぼうと少女が立ち上がる。その時。
「――如何か、したのかい?」
廊下の奥から、一つの影が歩み寄る。少女は地獄に仏と言わんばかりにその人影へ縋り付くような目を向けた。
「三間坂先生!」
人好きのする優しい笑顔を浮かべた三間坂が、僅かに驚いたような顔をして霖雨に駆け寄る。額に触れてその熱さに肩を跳ねさせ、担ぎ上げる。
「酷い熱だ。取りあえず、保健室に連れて行こう」
「先生、私も……」
「もう夜遅い。此処は僕に任せて帰りなさい」
ね、と優しく諌められれば少女はそれ以上何も言えなかった。
担ぎ上げられた霖雨に春馬は必死に呼び掛けるが、反応はまるで無く、その表情は苦痛に歪んでいる。
(霖雨!)
三間坂は霖雨を連れて早足に、階段を下りていく。外は既に夕日が沈み、夜の闇が迫っていた。
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