36.手に汗を握る
今日が彼にとって、人生最良の日であればいい。
驟雨はそう願いながら廊下を歩いていた。部活動も終了の時刻が差し迫り、外は既に闇に支配されている。白々しい蛍光灯の灯りが照らすリノリウムの廊下を、踵を潰した上履きでぺたぺたと歩いて行く。辺りに人は無く、教室の時計を確認して盛大に溜息を零す。
既に時刻は七時半。校門が閉まるまで後残り三十分程しかなく、当初の計画が狂ってしまったと頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。驟雨は脇に抱えた大量のプリントを一瞥し、本日何度目かも解らない溜息をまた一つ。
夏休み間近の今日は、霖雨の誕生日だった。両親を亡くしてから誕生日などただ一つ年を重ねただけに過ぎないと語った霖雨の胸中を思うと心臓が軋むように痛む。きっと、今も霖雨にとって今日は何の変哲も無い平日なのだろう。だからこそ、日頃の感謝を込めてサプライズで霖雨を祝おうと言い出したのは林檎だった。
今頃、林檎が空き教室の一室を誕生会仕様に飾り付けていることだろう。用事を済ませてから合流すると言っていた香坂と樋口も既に合流している筈だ。買い出し担当だった驟雨は、運悪く担任に捕まってテストの赤点による補習を今の今までみっちり受けて来た訳だが、この後を想像すれば自然と足取りは軽くなる。林檎からの連絡を受けて、補習の終了と共に驟雨は教室にいるだろう霖雨を迎えに行くところだった。
心配なのは、今朝から明らかに不調だった霖雨の様子だけだ。今日はバイトも休みとリサーチ済みだから、鞄を置いたままにしていた自分達を置いて帰るということも無い筈だ。仮に用があったとしても、霖雨ならば連絡の一つも入れるだろう。携帯を開き、時刻を確認すると共に驟雨はそれをポケットに押し込んだ。
無尽の廊下を歩き、霖雨のいるだろう教室に近付くに連れて胸が高鳴る。喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか。灯りの消えた教室に、まだ寝ているのかと呆れつつ笑ってしまう。
「――おい、霖雨」
驚かせてやろうと声を張ったところで、驟雨は動きを止めた。
闇に沈む教室の中、廊下の灯りに照らされる自分達の鞄。けれど、其処に人影は無い。
「……霖雨?」
霖雨の鞄は、無い。
まさか、帰ったのか。確かに体調も酷く悪そうだったし、こんな時刻だ。普通に考えれば帰ったと考えるべきだろうが、霖雨が連絡一つしないのは腑に落ちない。乱雑に積まれた自分達の鞄を見れば、それは更に違和感を感じさせる。
倒れたのかも知れない。今朝の様子は明らかにおかしかった。
一目散に保健室へ向かって走り出した驟雨が、階段の手前でぴたりと足を止める。足元に小さな赤い滴が落ちている。
(血……)
大した量ではないし、霖雨のものとは限らない。けれど、驟雨の胸の中でざわざわと木々のざわめきにも似た不吉な予感が広がって行く。ふと目を泳がせた先に、カッターナイフが落ちていた。
傍に膝を着く。刃先は僅かに錆びている。
嫌な予感が、心臓を早鐘のように打ち鳴らす。ポケットから取り出した携帯で、霖雨へ発信するが一向に繋がる様子は無い。
倒れたなら、保健室にいるだろう。もしも其処にいなくても、職員室に行けば何か解るかも知れない。早足に階段を下り、横並びの職員室と保健室前の廊下を疾走する。灯りが消えた保健室はカーテンによって閉め切られ、扉には鍵が掛かっている。今日は養護教諭が確か休みだったな、と思い出す。
本当に帰ってしまったのだろうか。否、そんな筈は無い。なら、何処に。
答えの出ない問いを繰り返しながら驟雨は職員室へ向かうべく踵を返す。だが、その時。
廊下の向こうから一人の女子生徒が歩いて来る。見覚えの無い色白の小さな少女。驟雨の横を通り過ぎた時に、僅かに血の臭いがした。そのまま無人の保健室を見て、肩を落とす。
「――おい」
驟雨の声に振り返った少女の手首に、見覚えのある奇妙なキャラクターの絆創膏。猫とも狸とも付かない不気味なキャラクターが薄ら笑いを浮かべている。以前、林檎が転んだ霖雨に貼っていたのもこの絆創膏だった。あの時、林檎は使い辛そうな不気味な絆創膏を纏めて霖雨に押し付けていた。
こんな偶然があるか?
怯えたように肩を跳ねさせる少女などお構いなしに、驟雨は少女に問い掛けた。
「この絆創膏、如何した」
「これは……」
少女が目を泳がせる。手首を覆うその絆創膏の意味など、嫌でも解ってしまう。だが、驟雨とてそんなことには微塵も興味など無いのだ。この子が自殺未遂をしようが、そのまま死のうが関係無い。
「霖雨は何処だ」
「――霖雨って、あの常盤霖雨?」
驚いたように少女が目を丸くする。
霖雨は有名人だ。誰もが振り返るような端正な顔立ちに、何の感情も虚ろな目。最近はだんだんと表情豊かになって来ているけれど、多くの生徒にとって霖雨は今も精神病を抱えた不気味な同級生だ。噂ばかりが独り歩きして、霖雨の本質を塗り替えてしまっている。驟雨もそれは仕方が無いと解っている。何より、そうして人を遠ざけて来たのは霖雨自身だ。
噂の張本人である霖雨に思い当たる節があるらしい少女は、驟雨の切羽詰まった様子に目を泳がせる。
「あいつの居場所を知っているなら、教えてくれ」
「常盤君……倒れちゃって……」
「!」
やはり。
驟雨の頬を冷や汗が伝う。
「三間坂先生が保健室に連れて行ってくれるって言ってたんだけど……」
反射的に驟雨はカーテンの閉まった保健室を見た。相変わらず人の気配は無い。
だが、それより何より恐ろしいのは、霖雨の失踪に三間坂が関わっているということだ。
霖雨には、三間坂は虫が好かないから関わりたくないと言ったけれど、それだけではない。春馬の尋常でない嫌い方、あれは恐怖によるものだ。完璧を絵にしたような春馬が、心の底から恐れ嫌悪している男。それを驟雨が警戒しない筈も無い。
「三間坂は何処だ」
「あたしも探してるんだけど……見付からなくて……。もしかしたら病院に」
「教室に、霖雨の鞄があった。当然、保険証もあるだろう」
それで果たして病院に行くだろうか。仮にも教員が、動転して気が回らなかったとは思えない。
意識を失った霖雨を自宅に送り届けることも無いだろう。第一、自宅の鍵は鞄の中だ。
「――何か、面白そうなことしてるな」
突然、掛けられた声に振り返る。金髪が蛍光灯の白い灯りに照らされている。人をおちょくったような食えない笑みを浮かべた佐丸が、ポケットに手を突っ込んだまま壁に凭れ掛かっていた。
「……てめぇに用は無い」
「どうせ、霖雨絡みだろう」
「うるせぇ、てめぇには関係無ェだろ。とっとと失せろ」
「――霖雨なら、見たぜ」
邪見にあしらっていた驟雨の動きが止まる。正直な奴だな、と佐丸が笑うが、驟雨は目を見開いたまま微動だにしない。
「あのカウンセラーが、車に乗せてたぜ」
「何処に行ったか解るか!?」
思わず掴み掛った驟雨に、佐丸が驚いたように目を丸くする。
血の霧雨と呼ばれた男が、情けないものだなと呆れる反面で、佐丸自身その理由にも気付いている。常盤霖雨には放って置けない何かがある。人柄とも違う、得体の知れない何かが。
「さあな。だが、病院とは反対方向だったみてぇだけど?」
「――チ」
不愉快さを隠そうともしない驟雨が舌打ちし、少女も佐丸も無視して廊下を走り出す。
取り残された佐丸は、用無しとなった少女を一瞥し、口角を釣り上げた。
(本当、あいつ等といると退屈しねぇな)
佐丸はポケットに手を突っ込んだまま歩き出した。目の前には殆どの教員が帰宅した職員室があった。
学校を飛び出した驟雨は何度目かも解らない電話を掛ける。相変わらず、霖雨は出ない。こういう時、彼は必ずとんでもないトラブルに巻き込まれている。今朝の不調を思い出して驟雨は顔を歪めた。こんなことなら、無理にでも帰らせれば良かった。
帰宅を急ぐ運動部員達が慌ただしくグラウンドを片付けている。帰宅時刻まで差し迫っていた。
携帯が震え、期待を込めて開くが相手は香坂だった。当然だろう。霖雨を呼びに行ったまま帰って来ないのでは彼等とて何も出来ない。けれど、驟雨もこの状況を説明出来る自信も無ければ、打開策が思い付く訳でも無い。かといって一人で何か出来るとも思えない。
校門を飛び出し、佐丸の言う病院とは反対方向の道を茫然と眺める。何の手掛かりも無い。だが、立ち止まって考えられる程に驟雨は冷静でもなければ気も長くない。兎に角、行動しようと学校の傍に止めた愛車の元へ向かおうを足を向ける。その時。
「待てよ、血の霧雨」
チ、と舌打ちして驟雨は振り返る。
その通り名で呼ばれることも不愉快だが、この状況で呼び止められることも腹立たしい。
「……何の用だ」
「随分な態度だなァ。俺は、お前に有益な情報を持って来てやってんだぜ?」
ほらよ、と佐丸が目の前に一枚の付箋を突き付ける。恐ろしく乱雑に書かれたそれは最早文字とは呼べない。蚯蚓がのたくった跡のようだ。
これが何だと目を細めれば、佐丸は笑った。
「三間坂の住所だよ」
「――な、」
如何して。
言葉を詰まらせた驟雨の反応に満足し、佐丸が薄く笑う。
「職員室から失敬したんだよ」
「――寄越せ!」
「おっと!」
目の前に翳された付箋は驟雨の前から踊るように遠ざけられる。
こんなことをしている時間は無いのだと叫びたい思いを押し殺し、驟雨は睨み付けた。
「何が望みだ」
「ふん、話が解るじゃねぇか。……条件は一つだ。俺も連れて行けよ」
「何でてめぇを!」
「嫌ならいいんだぜ?」
佐丸はポケットからライターを取り出すと、付箋を其処へ翳した。
卑怯な。驟雨は奥歯を噛み締めた。
「何なんだよ、てめぇは! 関係無ェだろ!」
「俺だって、お前には何の興味も無ェんだよ。俺はただ、霖雨が見たいだけだぜ?」
「見たい?」
「ああ。きれいごとばかりの霖雨が、絶望する姿が見たいだけだ」
殴ってやろうかと、驟雨は拳を握った。
この切羽詰まった状況で、佐丸と殴り合う時間は無いのだ。
「……付いて来い」
にたりと、佐丸が笑う。驟雨は背を向けて走り出した。
すぐ後ろを佐丸が呼吸一つ乱す事無く追って来るのを確認し、驟雨は言った。
「てめぇは、あいつのことを何も解っちゃいねぇよ」
興味も無さそうに、へぇ、と軽薄な笑みを浮かべて佐丸が言う。
「なら、お前は解ってるってのか? 血の霧雨」
「あいつの言葉がきれいごとだと思ってる内は、お前なんざ蚊帳の外だよ」
学校傍のコインパーキングに、シルバーボディの中型バイクが止められている。驟雨の愛車、HONDAのMAGNAが今か今かと主人の帰りを待ち侘びていた。
愛車に佐丸を乗せることが堪らなく不愉快だが、背に腹は代えられない。佐丸が指で弄ぶ付箋を奪うが、その文字は判別不能だ。佐丸は驟雨に続いてその後ろに乗ると、行き先を指差した。
エンジンが唸る。
「三間坂と霖雨は、どういう関係だ」
信号待ち。苛立ったように指先でハンドルを叩く驟雨に佐丸は状況も知らないように問い掛ける。
驟雨は舌打ちしつつも、此処で佐丸が臍を曲げれば霖雨へ辿り付けないことを悟り答えた。
「ただのカウンセラーと生徒だよ」
霖雨はな。
胸の内で吐き捨て、驟雨は黙った。だが、佐丸は尚も続ける。
「カウンセラー風情が、ただの生徒、それも男子を自宅へ連れ込むかね」
「知らねぇよ、そんなこと。ロリコンなんだろ」
「高校生相手にロリコンは無ェだろ。偏見は無ェつもりだが……ホモか? お前」
「何で俺だよ!」
やってられない。驟雨はアクセルを回した。
加速した車体は弾丸のように夜の街を駆け抜けていく。佐丸は慣れた手付きで行く先を知らせていく。
「おい、さっきの話」
「あ?」
柄悪く返すが、佐丸は眉一つ動かさない。驟雨としては会話などしたくないのだ。この状況でなくても、相手が佐丸であることが驟雨にとっては不快だ。
「あいつのきれいごとがどうたらってヤツ」
「ああ」
カーブに身を低くする。後ろでサイレンが聞こえるが、サイドミラーで確認しパトカーであることに安心する。白バイなら兎も角、パトカーなら幾らでも振り切れる。
驟雨は言った。
「お前が言うきれいごとってのは、あれだろ。あいつが暴力嫌いなことだろう」
だからこそ、佐丸は今も驟雨の過去を皮肉って血の霧雨と呼ぶのだ。
「別に、正義気取って暴力反対だと言ってる訳じゃねぇよ」
「自分が殴られるのが怖ェだけか?」
「それもある。まあ、殴られて嬉しい奴なんてそうそういないだろう。……あいつが本当に怖いのは、俺達が暴力を振るうようになって、自分に手を上げるのが怖ェんだよ」
驟雨の言葉の意味が解らないように、佐丸が目を細める。その怪訝そうな顔をサイドミラーでパトカーと共に見た驟雨は鼻を鳴らす。
バイクは暗い路地裏に入り込む。此処でパトカーを一気に撒くつもりだった。
「解らねェか? あいつが本当に怖かったのは、殴られることじゃない。あいつは殴られることで、ダチを失くすのが怖かったんだ」
つい先日の出来事を思い出し、驟雨は苦い顔をする。自分も春馬に言われるまで、霖雨の言葉をただのきれいごとと思っていた。
「だから、ダチを守る為ならどんな危険も冒すし、恐怖にも打ち勝とうとする」
ライトを消せば辺りは闇に包まれる。閑静な住宅街に喧しく鳴り響くサイレンは騒音以外の何物でもない。
闇の中、夜目の利く驟雨は何の不便も無く入り組んだ道を進み、再び大きな公道に出た。パトカーの姿は無い。
「てめぇは認めるのが怖かっただけだろう。そのきれいごとに、救われていた自分を」
「何――」
「あいつは絶望なんかしねぇよ。残念だったな」
不機嫌そうな驟雨の目はただ前を見据えている。
佐丸は、中学時代の驟雨を知っている。血の霧雨と呼ばれ、伊庭率いるLsと共に暴力に明け暮れた頃の虚ろな目をした驟雨を覚えている。それが今はどうだ。漆黒の瞳には消し去ることの出来ない炎が灯っているように見える。
錯覚だ。自分の妄想を振り切るように首を振るが、否定し切れない自分にも佐丸は気付いていた。
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