37.会者定離
夜の湖畔のような静けさに、夢と現実の境目が曖昧になる。自分は果たして今、存在しているのか。
その考えに思い至ったとき、春馬の意識は急浮上した。高熱で霖雨が倒れ、三間坂によって自動車へ乗せられた以降の記憶が無い。霖雨の意識と春馬の意識は別のものだ。例え霖雨が意識喪失していても、春馬は金色の光となって肉体に宿ることが出来る筈だった。それが、何故。
薄らと目を開いた先に、見覚えの無い白い天井がある。以前見た病院の天井とも異なる。此処は何処だ。
「目が覚めたかい?」
突如、聞こえて来た声に微睡んでいた意識は明瞭になった。
目を向けた先で、机に向かったままの三間坂が横目で見ている。不倶戴天の敵だと春馬は睨み付けながら、体を起こそうとした。だが、体は鉛になったようにまるで動かない。
「貴様……、霖雨に何をした!」
こんなことは今まで一度だって無かった。指先一つ動かせない全身の疲労感と倦怠感。ベッドに寝かされたまま、春馬が噛み付くように吠える。投げ出された右腕には白いガーゼが貼られている。三間坂は子どもを宥めるように、苦笑した。
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。僕は解熱剤と痛み止めを注射しただけだよ。君の体が動かないのは、純粋な疲労だ」
三間坂の言葉の通り、あの忌まわしい程の頭痛と眩暈は収まっている。けれど、三間坂の言葉を鵜呑みに出来る程、春馬は御人好しでもなければ、単純でもない。この行為の裏を探ってしまうのが春馬だ。
今も呪い殺さんばかりに睨む春馬を一瞥し、三間坂は溜息を零す。
「立っていられた霖雨君を、褒めてやりたいくらいだ」
「気安く霖雨の名を呼ぶな!」
「君が霖雨君のことを大切にしているのは、十分に解った。だが、君のしていることは何一つ、霖雨君の為になっていない」
春馬は、言葉を失った。この男は、全てを知っている。
黒い靄のような恐怖がじわじわと胸の内に広がって行く。
「時の扉の影響は周囲に広まる。桜丘君だって何時まで正気でいられるか解らない。そして、その負担は全て霖雨君へ向かう」
三間坂の言葉は針のように真っ直ぐ、春馬へ突き刺さる。
影辻も、ヤマケンも、鷲尾蜜柑も、大佐和と麻田の心中事件も、Lsとの抗争も。時の扉によって引き起こされた事件によって、何時だって傷付いて来たのは霖雨だ。今だって、時の扉の影響で心身に酷い疲労を抱えて苦しんでいるのは霖雨で、立つことすら辛い彼に手を差し伸べてやることも出来なかったことを春馬は解っている。
「また、霖雨君を犠牲にするのかい?」
ぐらりと、脳幹が痺れるように揺れた。
俺だって霖雨を苦しめたい訳じゃない。出来ることなら、霖雨を傷付ける何物からも守ってやりたい。独りぼっちで蹲る霖雨の傍にいてやりたい。家族が欲しいと願う霖雨の家族になってやりたい。――でも、出来ないから。
出来ないのなら、俺は何の為に存在しているのだろう。
目の前の一人守ることすら出来ず、何の為に。 底の見えない奈落に引き摺り込まれるような錯覚に陥り、春馬は目の前が真っ暗になるのを感じた。
三間坂はくつりと喉を鳴らした。
「まあ、尤も僕も、霖雨君の人格を消滅させるつもりでいたからお互い様だけどね」
「何だと!?」
「邪魔なんだよ。無知で脆弱な霖雨君の存在は」
そんなことをさせる訳にはいかない。だが、身動き一つ出来ないで、霖雨を犠牲にするしかない自分は三間坂と同じだ。
三間坂の手元に置かれた注射器と、数種類の小瓶。薬剤で人格が消せるのか春馬には甚だ疑問だが、正気を喪失させることは可能だろう。人ならざるものに貶めるのなら、それは人格の破壊も同様だ。
(駄目だ、弱気になるな。こいつの思う壺だ)
自らを叱咤し、奮い立たせる。それでも、一度芽吹いた不安は消えない。
幾ら事実に目を瞑ったからと言って、その事実が無くなる訳じゃない。自分の存在は今も霖雨を傷付け、多くの人間を苦しめている。
(霖雨)
霖雨と話がしたい。彼がそんな状況でないことは解っている。けれど、話がしたい。
自分の弱さを、頭の冷静な部分が侮蔑する。霖雨を頼って如何する。俺が守らなければならないのに。あいつは何時でも独りで乗り越えて来た。俺が泣きたくなる程、寂しく感じる程、たった独りで。
そうだ。霖雨は、独りでも大丈夫だ。今は驟雨が、林檎が、香坂がいる。俺なんか必要無い。否、いない方がいい。
瞼を下ろした春馬の前に、大きな扉がある。幾重もの鎖と荒縄で封じられていた扉は、今は開け放たれ金色の光と共に禍々しく不吉な威圧感を放っていた。この閉ざされていた扉を開けたのは、春馬だ。
今の春馬に、時の扉を再び閉じるだけの力は無い。封じるには霖雨の命を犠牲にしなければならない。だが、それだけは出来ない。このまま三間坂の手に落ちるくらいなら、やはり俺が封じよう。
霖雨の奥底に沈め、その影響を最小限にする。再び、扉と共に闇の中に沈もう。そうすれば、三間坂はもう手出し出来ない。霖雨を守れる。
――お前が霖雨を大切だと思うように、霖雨もまた、お前が大切なんだよ
驟雨がそう言ってくれたことが、どんなに嬉しかったか霖雨は解らないだろう。でも、永遠に解らないままでいい。
春馬は目を開け、不敵に笑った。
「……三間坂、感謝する」
「何?」
「ずっと、迷っていたんだ。踏ん切りが付いたぜ」
ふわりと、金色の光が浮かび上がる。この世のものと思えない幻想的な蛍にも似た光の粒子は、春馬の横たわるベッドを包み込んでいく。音を立てて立ち上がった三間坂は、凍り付いたようにその場から動けない。
春馬は言った。
「お前の思い通りにはさせない。時の扉はお前に扱える代物ではない。……番人として、お前のような輩から時の扉を守るのが俺の役目だ」
「――何を、」
ゆっくりと、目を閉ざす。飽きる程に見て来た時の扉が目の前にある。
開け放たれた扉の奥は、漆黒の闇だ。光も音も存在しない無の世界。眠ることも出来ず、狂うことも出来ず、ただ揺蕩うだけの冷たい空間。また、此処に戻るだけだ。もう慣れただろう。
今はただ、一度触れた温もりから離れ辛いだけだ。じき忘れる。
扉の中に、一歩一歩を足を進める。踏み締めた足元に金色の光が漂う。だけど、その時。
「春馬!」
聞こえる筈の無い声が、春馬を呼び止める。淀みなく進み続けた足が止まった。
漆黒の世界で、振り返った先にはやはり、霖雨がいた。時の扉の元に来られるのは自分だけと思っていたが、此処に来られるだけの力を持っていたことに驚くと共に悲観する。霖雨を関わらせたくは無かった。
「霖雨、戻れ。此処はお前の来る場所じゃない」
「なら、一緒に帰ろう。なあ」
縋るように、霖雨が言った。その泣き出しそうな声は、解らない筈の現状を把握しているようだった。
春馬は緩く、首を振る。
「俺には、やることがある」
「それなら、俺も手伝う。頼むから、独りで全部背負い込まないでくれよ……!」
お前が大切なんだ。
霖雨の余裕の無い声は、確かにそう訴えている。けれど、それは春馬だって同じだ。
「お前にはさせられない」
「如何して!」
「お前は生きているからだ」
ぴしゃりと言い切った春馬に、霖雨は言葉を失った。
嘗て、春馬は自らの命を犠牲に時の扉を封じ込めた。如何して春馬が死んだのか、霖雨は知らない。それでも。
「生きてるとか、死んでるとか……。そんなの如何だっていいよ! 俺は、お前がいてくれる、それだけでいいんだ!」
春馬が、ぎくりと固まる。決心が鈍ってしまう。
きっと、霖雨は許すだろう。時の扉によって、この先どれだけ辛く苦しい思いをしたとしても、春馬がいればいいと言って、全て許すのだろう。――でも、それは春馬自身が許せないのだ。
「霖雨、ありがとう」
春馬は笑った。このまま此処にいれば、何時か必ず霖雨の手を取ってしまう。
「お前に出逢えて、良かった。お前は俺のたった一つの希望だったんだよ」
「春馬!」
「お前が生きている。それだけが俺の救いだ」
扉が軋んでいる。もう余り、時間が無いことを嫌でも悟った。
霖雨の顔が歪む。堪らず駆け寄る霖雨を抱き締めてやりたかった。
「お前がそんな顔する必要無いんだよ。俺は肉体を失い、魂も砕かれたただの思いの塊。人ですらない。……なあ、だから、笑えよ」
近付く霖雨の頬に伝う滴は汗ではない。
置いて行かないで。子どものような縋り付く声に、胸が締め付けられる。
「さよならだ、霖雨」
扉が、閉じる。霖雨の伸ばされた手は分厚い鋼鉄の扉に衝突し、鈍痛と共に其処に残された。
重厚な音が闇の中に反響する。
「嘘だろ、春馬……」
反響が終わり、静寂が周囲を包み込む。開くことの無い扉に縋り付いたまま、霖雨は崩れ落ちた。
「嘘だって言えよ、春馬!」
声は届かない。この手は取られない。開かない扉は、永遠に春馬を返してはくれない。
呆気無い。これで終いか。何も出来ず、何も返せず、何の答えも手に出来ぬまま全ては闇の中に沈んで行く。
「行くな、行くな!」
霖雨は、扉に爪を立てた。耳障りな音と共に爪を立てる霖雨の目は扉の遥か向こう、闇に消えて行った春馬の背中を見ている。何の飾り気も無い退屈な扉だ。それでも、嫌味のように幾重に巻かれた鎖と荒縄がその強固な扉が開かないことを物語っているようだった。
ぴくりとも動かない扉に、幾筋もの赤い線が走る。割れた爪が皮膚に食い込み出血させる。それでも、霖雨は扉を叩き、引っ掻き続けた。
「返せよ、春馬を返せ……!」
置いて行かないで。
両親が死んだあの日、初めての花見の帰り道だった。レンタカーの後部座席で揺られ、何時しか霖雨は眠っていた。目を覚ました時、其処は火の海だった。燃え盛るレンタカーの残骸に、黒焦げになった人の手のようなものが覗いている。遠く響くサイレンと全身の激痛。伸ばされた手に光る薬指の指輪。あれが母だと気付いたのは、それから随分経ってからだった。
泣かなかった。突然の事態を理解出来なかったのだ。それが親戚連中には不気味だったのだろう。随分と嫌われ殴られた。身を守る術も知らず、ただ耐えるのが精一杯だった。
じゃあ、如何すれば良かった?
縋り付いて、泣き叫んで、同情を誘えば良かった?
そうしたら、愛してくれた? 守ってくれた? 助けてくれた?
あの頃はただ、助けてくれる手を求めていた。誰でもいいから、守って欲しかった。でも、今は違う。守って欲しい訳でもなければ、救って欲しい訳でも無い。
ただ、傍にいて欲しかった。
隣で笑い合えたら、それで良かったのに。
(お前を犠牲に助かったとして……俺が喜ぶと思うのか? 生きてて良かったと、笑えると思うのか?)
あの日から、何も変わっていない。轟々と燃え盛る炎の前で、俺は立っているだけだった。
俺に何が出来る。この扉が開いたとして、俺に春馬を救えるか。
扉に爪を立てたまま、霖雨は俯いた。地面にぽつぽつと大粒の雨が降る。頬を流れる滴を拭うことすら出来ないまま、霖雨は嗚咽を噛み殺す。
結局、誰一人救えないままか。大佐和の助けを求める声にも気付かず、死なせたように。自分を助ける為に消えて行こうとする春馬に、手を伸ばすことも出来ないままなのか。
「春馬ァ……!」
返事など、ある筈も無い。
此処は霖雨自身の心の中だ。同居する春馬が消えれば、他に誰かがいる筈も無い。
だが。
「諦めんなよ、霖雨」
闇の中で、忘れる筈の無い声がした。血塗れの指先を、温かな掌が包み込む。
顔を上げた先で、力強い笑みを浮かべている。
「驟雨……!」
どんな時でも、何時でも傍にいてくれた友達。
此処にいる訳が無いのに、その温もりは嘘ではない。
「独りで背負うなよ」
動かない扉を押す温かな手。
一人、二人、三人……。振り向いた先で、微笑む友達が、口を揃えて言う。
「独りじゃないよ」
|