38.一蓮托生
ぴんぽん、と。
此方の状況も知らぬ間抜けな音に、三間坂ははっとした。目の前の少年はベッドに横たわったまま目を覚ます気配無く、何時しか浮かび上がっていた金色の光も消え失せた。脈拍は微弱。酷く緩慢な呼吸を繰り返すその様は冬眠にも似ている。
三間坂自身、何が起こっているのか解らない。すればもう一度、チャイムが鳴り響いた。
インターホンを取れば、若い男の声。
「宅急便です」
三間坂のマンションはオートロックだ。宅急便なら、玄関から一度チャイムを鳴らす筈だ。
違和感を覚えつつ、管理人のいるエントランスを突破したのなら問題は無いだろう。溜息交じりに三間坂は玄関に向かった。センサーによって点灯する廊下のオレンジ色の灯りがフローリングを照らす。玄関の向こうは静かだ。
「はい――」
玄関を開けたと同時に、扉は勢い良く廊下側へ引かれた。
前のめりになる三間坂の目の前に、凍り付いたような無表情の男子生徒が立っている。秀麗な顔に浮かぶのは隠し切れない憤怒だ。桜丘驟雨の登場に、三間坂は苦笑を漏らす。
「何か用かな、桜丘君」
「霖雨を返せ」
「何のことだい?」
無駄とは思いつつも、しらばっくれると驟雨が目を鋭くさせる。
「隠しても無駄だ」
三間坂の返答など、初めから期待どころか興味すら無かった驟雨は聞く耳持たぬとばかりに玄関に押し入る。
乱雑にローファーを脱ぎ捨てて家の中へ入って行く後姿に、やれやれと三間坂は溜息を吐いた。驟雨の入って行った扉の影から、目の覚めるような毒々しい金髪の少年が薄く笑って顔を覗かせる。
「随分と余裕かましてんな」
学校一の問題児と名高い佐丸燈悟の姿に、三間坂が表情に僅かな驚きを浮かべる。だが、その演技掛かった動作に佐丸は鼻を鳴らす。
「男子生徒連れ込むなんざ、正気の沙汰とは思えねぇな」
「連れ込むだなんて人聞きが悪いな。僕は彼の主治医だよ?」
尤も、霖雨は此処最近クリニックには顔を見せていないが。
なるほど、と心此処にあらずという調子で頷いた佐丸は、目の前の家主などお構いなしに玄関に足を踏み入れる。このまま佐丸を追い返すのは不可能だろうと三間坂は抵抗する姿勢すら見せず招かれざる客人を引き入れた。
驟雨の足はリビングを越え、開け放されたベッドルームの扉を越える。真っ白のベッドに、横たわる親友の姿に血が凍るようだった。
「――霖雨!」
血の気の無い面はまるで死人のようだ。微かな呼吸以外は何の動きも見せない霖雨は深い眠りについている。
額に手を触れる。熱は無いようだが、健康と呼ぶには余りにも問題が多過ぎる。驟雨は掛布団の下、肩を揺すった。
「おい、起きろよ」
だが、反応は無い。代わりに、目の端に溜まっていた滴が頬へ流れ落ちた。
佐丸に続いてベッドルームに戻った三間坂が言った。
「無駄だよ。霖雨君はね、冬眠状態なんだ」
「冬眠……?」
「脈拍も、体温も通常以下だ。この状態から一時間程経過しているが、目を覚ます気配は無い」
「てめぇ、霖雨に何をしやがった!」
驟雨が掴み掛っても、三間坂は薄く笑うだけで顔色一つ変えない。
佐丸は、サイドテーブルに置かれた注射器と数種類の小瓶に目を遣った。
「薬でも、打ちやがったか?」
その単語に、弾かれたように驟雨が佐丸を見る。その手に捕まれた小瓶は小さいが、外国語で書かれたラベルから一般人が入手出来るものではないのだと即座に判断出来た。
佐丸はラベルを見詰める。
「一つ一つは医療用のものだが……、これを多量に注射されればただでは済まないだろうな。精神崩壊くらい、起こすだろう」
「てめぇ!」
驟雨が叫んだ。だが、三間坂は平然と笑う。
「打っていないよ。少なくとも、今はまだ。僕はただ、春馬君と話がしたかっただけさ。その為に邪魔な霖雨君を消そうとしたんだが、春馬君に先手を打たれてしまったんだ」
「どういうことだ」
「さあね。ただ、霖雨君の体が光ったと思ったらそのままこの状態さ」
投げ捨てるようにして三間坂を離し、驟雨は霖雨の傍に膝を着いた。浅い呼吸が微かに聞こえる。俗にいう虫の息だ。
光ったということは、春馬が何かしたのだ。三間坂は時の扉に興味を示していた。その力を手に入れる為に霖雨を消そうとしたのなら、春馬のすることは一つだ。
嘗て春馬がそうしたように、自らの存在を犠牲に時の扉を封じ込めたのだ。
だが、既に死者である春馬には封じるだけの力は無い。時の扉は今も霖雨の中にある筈だ。ただし、その力を最小限に抑え込む為、心の奥底に仕舞い込んだのだろう。そして、霖雨は時の扉の影響力によって意識を失った。そう考えるのが妥当じゃないだろうか。
(でも、春馬が霖雨への負担を考えなかった筈が無い)
固く閉ざされた瞼は開かない。頬を伝った涙を指先で拭い、驟雨はその顔をじっと見詰めた。
その時、微かに唇が動いた。
「……春馬……」
消え入りそうな声だった。霖雨の顔を凝視する。
「行くな……!」
悪夢でも見ているように、魘される霖雨の顔が苦痛に歪む。
どんな夢を見ているのかなんて、驟雨には解らない。けれど、目の前にいる霖雨が苦しんでいるのに、何も出来ないままではいたくない。
「霖雨」
驟雨の声が、静寂に響く。
「俺は此処だぜ。独りで背負うんじゃねぇ」
冷たくなった霖雨の手を取る。冬眠状態とは聞いているが、その手は死体のようだった。
それでも微かに感じる脈拍が、その命を知らせてくれる。その時、氷のような霖雨の手に、微かに力が籠った。触れられた掌は、確かに掴まれたのだ。
「忘れるな。お前は独りなんかじゃねぇんだ」
何時か、林檎と共に時の扉を通って、霖雨の心の中を覗いた。春馬のいない今は霖雨の中を覗く術など無いけれど、この声は届くだろうと信じていた。
俺達はずっと一緒に、色々なことを乗り越えて来た。一緒に過ごした時間は短かったかも知れないけれど、作り上げて来た絆は決して簡単に崩れ落ちる程に薄っぺらなものではない筈だ。
「無駄だよ」
三間坂が言った。
「君の声は届かない」
「黙ってろ」
三間坂の言葉を切り捨て、驟雨は霖雨から目を逸らさない。
「おい、春馬。聞こえてるか?」
意識の無い霖雨と、その奥底に沈んでいる春馬。彼等は何時だってそうだ。純粋で、優しく、愛情深い。だからこそ、悲しくなる程に自己犠牲で、独りで背負い込む。
「どんな理由があるかは知らない。お前は何も言わないからな。だけど、どんな理由があってもな」
驟雨は小さく息を吸い込んだ。
「霖雨を独りに、するんじゃねぇよ!」
何時だって霖雨の傍にいたのは、お前だろう。
驟雨が傍にいない時も、春馬だけは傍にいた。驟雨が霖雨を否定し裏切っても、春馬だけは当たり前のように信じ守っていただろう。自ら希望と称した霖雨を、たった独りで泣かせるような真似をするなよ。
男なら、自分の言葉に責任を持てよ。
「なあ、霖雨。声を上げろ」
こいつが呑み込んで来た言葉を、俺は知っている。
「お前は俺の手を掴んだ。だから、俺は絶対にお前の手を離さない。――後、少しなんだ」
三間坂や佐丸には、解らないだろう。驟雨の言葉は余りにも理解に苦しむ独り言だ。だが、それでも驟雨は絞り出すように、掠れる声で眠り続ける霖雨に訴える。
「声を上げろ、俺は此処だ。――俺の名を呼べ」
眠っている霖雨が、呼べる筈もないだろう。呆れたように溜息を零す三間坂を無視して、驟雨は霖雨を見詰めている。
「何がしたいのか解らないな。理解に苦しむよ」
「うるせぇ、黙ってろ」
「君が幾ら訴えても、深い睡眠状態だ。聞こえないよ」
「黙ってろと、言っている」
突き刺さるような鋭い視線が、三間坂を射抜いた。その鋭さに、三間坂は自らの喉に刃が突き付けられているような錯覚に陥った。
「霖雨の声が聞こえない」
部屋の中は耳が痛くなるような静寂が支配する。空調の低い唸りが微かに鼓膜に響く以外に、物音は無かった。
驟雨は耳を澄ます。目の前にいる霖雨の唇が微かに開く。
「……て」
握られた手が、軋んだ。離すまいと、驟雨もまた握り返す。
離さない。見捨てない。俺はお前の声を一つだって聞き逃さない。前にもこんなことがあったなと、驟雨はふと思った。それが何時のことなのか驟雨には解らない。春馬がいたならきっと、それは前世の記憶とでも言うのかも知れない。
驟雨は掌の力を込める。霖雨の掠れるような声が、届いた。
「……驟雨……助けて……!」
驟雨の目に、光が灯った。それは日輪にも似た金色の光だ。
「当たり前だ!」
驟雨が叫んだと同時に、その視界は光に包まれた。目を開けていることすら辛い眩し過ぎる輝きの中、それでも握られた手を離すまいと驟雨は必死で目に力を籠め、耳を澄ました。
俺はずっと、その声を待っていたんだから。
吹き抜ける強い風が体を押し上げる。身動き一つ出来ない濁流の中でもがくように、どちらが上かも解らないまま驟雨は空いた手を伸ばす。霖雨の体に導かれるように、驟雨の体は何処か目的を持って確実に流されていた。
と、突然。
投げ飛ばされるように、何の脈絡も無く驟雨は固い地面に転がった。真っ暗な闇の空間で、強かに打ち付けた腰を摩りながら、驟雨は周りを見回した。外灯一つ無い夜道のような暗闇。ふと目を向けた右手に、握っていた筈の霖雨がいない。
「霖雨――」
離す筈が無い。消えた霖雨の姿を探して視線を流し、すぐにその姿に気付いた。
巨大な鋼鉄の扉が、何も無い闇の空間に一つ立っている。それは見る者を恐怖させるように厳めしく、禍々しく、恐ろしい重厚な空気を垂れ流していた。太い鎖と荒縄が、侵入者を拒むように扉を封じている。
何だ、これは。まさか。
「時の扉……」
上は闇に霞んで見えない。人間の力で開けられるとも思えない巨大さに圧倒されながら、その下で蹲る小さな背中に気付く。鋼鉄の扉に、無数の赤い筋が見える。効果があるとは思えないけれど、きっと、爪を立てたのだ。
微かに震える背中は、泣いているのだろうか。
「霖雨」
顔を上げない霖雨の傍にしゃがみ込む。投げ出された両手の爪は割れ、剥がれかかっている。どれ程の長い時間、彼は此処で扉を叩き続けたのだろう。そして、それは如何してだろうか。
「諦めんなよ、霖雨」
ゆっくりと、霖雨は顔を上げた。
「驟雨……」
血の滲んだ扉に手を掛け、驟雨は拳を握った。
扉は開く気配すらない。何の飾り気も無い鋼鉄の扉。きっと、春馬はこの奥にいるのだろう。
「独りで背負うなよ」
驟雨は扉に掛けた拳を握った。
声が聞こえた。それは脳内に響くような重く嗄れた声。
――開けてはならぬ
はっとしたように霖雨が顔を上げた。
――其れは禍の扉、破滅の門
頭上から降り注ぐようで、足元から立ち上るようで、暗闇に反響する声は一つではない。まるで、大勢の人間が異口同音に謳うように、叫ぶように、祈るように、呪うように、その言葉を繰り返す。開けてはならぬ。
怯えたように霖雨の肩が震えた。だが、その目は揺るがない。
「うるせぇ」
唸るように低く、霖雨は言った。
「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ!」
拳が扉を叩く。低く響いた音は漆黒の空間に消え失せた。
霖雨らしかぬ強い口調に、驟雨が僅かばかり驚く。
「春馬を、返せ!」
ガツン、と。拳が打ち付けられる。
降り注ぐ理不尽や悲劇を、何時でも仕方が無いと受け入れて来た筈の霖雨が、自分を守る為に犠牲になろうとする友達の為に傷だらけで叫んでいる。爪が割れ出血する指先が痛まない筈が無い。それでも握り締めた拳て、叩き続ける扉の奥にいる友達を信じている。
驟雨は目を閉じた。此処は霖雨と、春馬の心の中だ。霖雨が信じる程に力は強くなる。
「霖雨、信じろ。お前は独りじゃない。俺達は何時だって、此処にいる」
目を閉じた闇の中で、霖雨は小さく息を呑む。驟雨は目を開けた。扉に当てられた霖雨の手に掌を重ねる。大佐和と麻田の心中事件以来だと嫌な思い出が過る。だが、今度は違う。死体を見付ける為ではない。友達を救う為に扉を開けるのだ。
二人の手に、温もりが加わって行く。林檎が、香坂が、樋口が、佐丸が。
秋水が、ヤマケンが、蜜柑が、大佐和が、麻田が、掌を重ねる。これだけの仲間がいるのに、それでもまだ無力だと?
霖雨は拳を握る。祈るように、叫ぶように、願うように、縋るように、扉を叩き付けた。魔獣の唸りのような不気味な軋みと共に、扉はゆっくりと動き出す。隙間から溢れ出る禍々しい黒い光。開いて行く扉を茫然と見詰める霖雨の肩を、驟雨が叩いた。
「――行くぞ」
頷いた霖雨が、足を踏み出す。驟雨は肩を並べ、扉の中に広がる闇を見ていた。
|