39.金烏玉兎A






「畜生ッ、また、負けた!」


 悔しそうに床板を叩き付け、驟雨の拳はぎしりと軋んだ。驟雨は目の前に転がる竹刀を睨むように見詰め、そのまま正面の男に視線を移す。壮年の男はそんな驟雨を見て、楽しくて仕方が無いとでも言うように、白い歯を見せて笑った。
 場面が変わったのだ。気付くと同時に霖雨は辺りを見回した。どうやら、此処は道場らしい。年季が入っているが、よく手入れされ床は鏡のように磨き抜かれている。これはどういう状況なのだろうと、霖雨は座り込んだ驟雨を見て、そして、壮年の男の顔に見覚えがあることに驚く。


(伊、庭)


 暴走族Lsのリーダーで、驟雨の嘗ての仲間。
 友達を人質に、驟雨に仲間に入るよう強いて置きながら、霖雨を拉致暴行した男。霖雨の中にあの時の痛みが確かに残っている。
 そんな男が何故――と、言葉を失った霖雨の目は壁際に寄り掛かって胡坐を掻く春馬を捉えた。春馬は崩した姿勢のまま、呆れたように笑っている。


「お前もよくやるなァ」


 何処か馬鹿にするように言う春馬に、驟雨がいきり立って怒鳴り付ける。だが、気にする素振りも無い。他の武士と揃いの袴を纏う春馬は一見すると大人と呼ぶにはまだ早く、一人の子どものようだが、やはり、精練された仕草や気品が身分の違いを感じさせる。
 状況が読めない。霖雨がぐるりを視線を巡らせると、壁際に寄り掛かる金色の光を漂わす春馬が立っていた。
 傍に駆け寄れば、春馬は胡乱な目付きで驟雨等の方を顎でしゃくる。


(あれから、二年後だ。父の計らいで、俺達は共に剣術を学ぶこととなった。我流の野良犬剣法で生きて来た驟雨は、武士の型に嵌った剣術など子供騙しだと不服そうだったがな、朱鷺若最強の武士と呼ばれる伊庭に出会ってからはその考えを改めたようだった。俺達は一度も、伊庭から一本すら取ったことが無かったからな)
(伊庭って、あの伊庭、か?)
(……どんな人間にも過去はある。勿論、前世も。お前等にとって伊庭は敵だったが、この頃の驟雨にとっては目標だった。何度挑んでも超えることの出来ない壁だ。あいつも負けず嫌いだからな、挑んではこてんぱんにされて剥れてたよ)


 驟雨らしい、と霖雨が笑う。淡々と話す春馬も何処か嬉しそうだった。
 座っている映像の中の春馬は既に飽きたとでも言いたげに欠伸を噛み殺す。けれど。


「じゃあ、次は俺の番だ!」


 張り切って立ち上がった春馬の手には、一本の竹刀。負けず嫌いは驟雨だけでは無かったらしい。
 金色の光を宿す春馬が言った。


(まあ、俺にとっても伊庭は目標だった。越えるべき壁だ。領主の息子などという身分に囚われず、驟雨と同じようにこてんぱんにしてくれる伊庭という存在は、何より有難かった)


 乾いた音の響き合う場内で、伊庭に果敢に挑む春馬を、武士達が微笑ましく見守っている。壁際に座り込んで荒い呼吸を整えている驟雨も何処か嬉しそうだった。
 春馬は目を細め、遠い思い出を眺めている。その心境など霖雨には解らない。少なくとも、これが絶望に繋がるとは思えなかった。
 記憶の中の春馬と驟雨が、やがて道場を後にする。何処かに出掛けるのだろうかと、霖雨が後を追おうとすると同時に目の前の映像は移り変わって行く。其処は賑わう街中だった。


(道場でたっぷり汗を掻いた後、二人で町に出るのが日課だった)


 そう言って、春馬は懐かしむようにその街並みに視線を巡らせる。
 身分に拘らず、人懐っこく優しい春馬を、皆が愛していた。同様に、悪童のように仏頂面の驟雨も皆が受け入れていた。そして、彼等もまた、この国に住まう全ての人々を愛していたのだ。
 和菓子屋で団子を買って、それを持って天守閣に登る。其処から朱鷺若の領地を見渡す。領地を取り囲むように群れる桑畑や、賑わう街道、突き抜けるような蒼穹と大地を照らす日輪。穏やかな日常、充実した毎日。他愛の無い会話で笑い合う二人は幸せそうだった。
 団子を頬張りながら、今日も伊庭に勝てなかったと驟雨がごちている。驟雨らしいと、霖雨はくすりと笑った。
 そんな驟雨の隣で、山々の間に消えて行く名も知らぬ鳥を遠く見詰めながら、春馬が言った。


「この国は美しいだろう?」


 誇らしげに、春馬が言った。口いっぱいに団子を頬張っていた驟雨は、遠い目をする春馬の横顔を見て、同じように視線を朱鷺若という小さな国に向ける。その目に何が映るのだろう。賊として殺戮の日々に身を投じていた頃を、顧みているのだろうか。霖雨には解らない。けれど。


「ああ、美しいな」


 ぽつりと呟いた驟雨の言葉に、嘘偽りは無いと解る。隣で春馬が嬉しそうに微笑んだ。


「俺は将来、自警団を作ろうと思う」
「自警団?」


 復唱した驟雨の言葉に、霖雨の声が重なった。
 記憶の中の春馬は、遠くに目を向けたまま言った。


「現在、朱鷺若は城に住まう武士や岡っ引きによって平和を保っている。だが、時代が変わろうとしている。朱鷺若も孰れ、その波に呑まれるだろう。その時、今のままではこの国を守れないのだ」


 その横顔には、それまで見せて来た子どもらしさなど欠片も無い。領主として将来を見据えた大人の横顔だった。


「まだ、誰にも話していない秘密の話だ。だが、近い将来……伊庭さんを始めとする腕に覚えのある者を集めて一つの組織を作ろうと思うんだ。この国を守る為に」


 其処で春馬は驟雨に向き合って、酷く真剣な目を向けた。


「驟雨。お前の力を貸して欲しい」


 驟雨は黙っていた。簡単に返事が出来るような話ではないのだから、当然だ。
 そんなものは訪れるかも解らない空想話に過ぎない。この国を知って高々二年という驟雨に、朱鷺若の為に血を流せという春馬の言葉は余りにも身勝手だ。驟雨はこの国の歴史も真実も知らない。知っているのは外見上の美しさだけだ。


「……俺に、この国を守る義理はねぇ」


 けど、と驟雨は続ける。


「けど、俺はお前を守る為なら幾らでも力になってやる。この国の為ではなく、お前の為にこの国を守ってやるよ」


 驟雨らしいと、霖雨は笑った。
 記憶の中の春馬は、少し驚いたような顔をして、すぐにまた微笑んだ。


「ありがとう、驟雨」


 感謝の言葉に、驟雨は鼻を鳴らして団子を頬張った。解り易い照れ隠しがまた、驟雨らしい。その隣で春馬は可笑しそうにその様を見ていた。
 だが、霖雨には、春馬の目は何処か遠くを見ているように思えた。それは隣にいる驟雨ではなく、自分自身でもなく、霖雨では考え付きもしない遠い未来を見ているようだった。
 粉雪のように、金色の光が舞い落ちる。また、場面が変わるのだろう。光の中に消えて行く二人の姿を惜しむように、霖雨はその光景をじっと見詰めていた。やがて光が全てを包み込むと、金色の光を宿した春馬は言った。


(それから三年後、俺は言葉の通り朱鷺若で唯一の武装組織、真蜂隊を結成する。伊庭を隊長とする三十人程の少数組織ながら、副長に驟雨を置いた戦闘の専門家集団。その頃には、驟雨は伊庭と肩を並べるまでに剣の腕を磨き、俺の右腕として日々過ごしていた)
(へぇ……)


 嬉しそうに相槌を打つ霖雨に、春馬は無表情で言った。


(そして、それから二年後。朱鷺若の滅亡を齎す事件があった)


 予想だにしない言葉に霖雨が耳を疑う。だが、春馬に表情は無い。


(戊辰戦争だ)


 聞き覚えのある言葉に、霖雨は首を傾げた。
 明治維新の折、新政府軍と旧幕府側との戦い。社会科の授業で習った記憶があるなと霖雨が思うと同時に、春馬達はその戦争の当事者なのだと気付いた。
 春馬は言った。


(佐幕派として、討幕派と交戦を続けていた朱鷺若は、武道に秀でた国として重宝された。だが、幕府軍は敗退を続け、残された朱鷺若は城に籠城し、餓えと闘いながら討幕軍の攻撃に耐えるしかなかった)


 やがて現れた映像は、籠城する朱鷺若城内の酷い有様だった。漂う腐臭と血の臭いに眩暈がする。座り込む男は満身創痍で、生きているのか死んでいるのかも解らない。一体何が起こっているのか、霖雨には解らない。
 そんな廊下を足音を立てて走る影が一つ。一大事だとでも言うように駆ける鬼気迫る形相にも、気を掛ける者はいない。誰もが皆、自分のことで手一杯だったのだ。それが例え、領主の息子だとしても。


「父上!」


 騒々しく襖を開き、肩で呼吸するのは春馬だ。正面には朱鷺若の領主であり、春馬の父である男が座っている。男を包む威圧感は流石は国の長と言うべきだろうか。
 畳を踏み付けるようにして父に詰め寄る春馬の表情は硬い。男は目を細めただけだった。


「降伏しましょう。……この戦は、負けます」


 部屋の中には、男の他には誰もいなかった。もしもいたならば、春馬の言葉を口汚く罵ったことだろう。
 敗戦は目に見えていた。子どもですら解る程に、朱鷺若の今の状況は緊迫していた。男は音を立てて立ち上がると、表情を変えない春馬を睨んだ。


「貴様、臆したか!」
「父上! 俺はもう、誰にも傷付いて欲しくないのです!」


 きれいごとだなんて、霖雨には言えなかった。春馬が軽々しくそんなことを言う筈が無い。
 長い葛藤の末に導き出した答えなのだろうと思ったが、それはすぐに否定された。


「しつこいぞ! 戦が始まる前から、そのようなことを口にしていたが……兵の士気が下がるだろう!」


 その言葉が、霖雨の考えを否定する。春馬が降伏を提言するのは、どうやらこれが初めてではないらしい。
 春馬は眉を顰め、絞り出すように言った。


「こんな戦に何の意味があるのですか! 国とは人なのだと、父上は仰ったではありませんか! その民が今、苦しんでいるのですよ!」
「黙れ! 幕府軍は今も戦っているというのに、易々と白旗など上げられるものか!」
「戦ってる? 敗走しているの、間違いでしょう」


 皮肉っぽく春馬が言えば、男はいきり立って怒鳴り付けた。


「臆病者め! 世迷い事を申している暇があるのなら、戦略でも練っていろ! それが民を、国を守る領主の務めだろう!」


 何を言っても通じない。苦々しい顔で春馬が背を向けた。歩き出す背中が何処に向かうのかは解らないけれど、霖雨はもしもこの場所に自分がいられたなら、春馬の手を握ってやりたいと思った。襖を開けた所で伊庭が驚いたような顔で、何か言おうと手を伸ばすが、春馬は突風のように通り過ぎて行った。
 凄惨な過去の映像を、金色の光を瞳に宿す春馬が感情の失せた顔で見ている。


(俺の父、当時の領主は武芸に秀でた自国の力を過信していたし、現状が見えていなかった。籠城を続ければ必ず幕府軍が救援に来てくれるだろうと信じていた。家臣や民もそれを信じていたし、領主の幕府への揺るぎない忠心を誇りに思っていた。……俺を覗いては)


 領主の部屋を後にした春馬は、武器庫である天守閣に現れた。その顔は青年へと変貌しながらも、暗くやつれていた。
 軋む壁に背を預け、崩れ落ちるように座り込む。空は鉛色の雲に覆われ、青々と生い茂った桑畑は蹂躙され、賑やかだった街中は見る影も無い。
 嗚咽を噛み殺し、春馬は膝を抱え蹲った。其処に、大きな足音が近付く。


「――春馬、こんなところにいたのか」


 ひょっこりと顔を覗かせたのは、驟雨だった。幼さの消えた青年の顔は傷だらけで、頬には血が滲む。ぼさぼさの黒髪は砂埃で白髪のようだった。
 反応の無い春馬に怪訝そうに細めた目を向け、驟雨は傍に歩み寄る。すると、絞り出すように春馬が言った。


「……降伏するべきだ」


 目の前の驟雨は言葉を失ったまま、立ち尽くしている。
 何時だって凛と背筋を伸ばして前を見据えている春馬が、まるで何の力も持たない子どものように膝を抱えている。春馬以上にやつれ傷だらけの驟雨が驚くのも無理も無い。


「お前、何を言ってる」


 驟雨の声は酷く乾き、冷たかった。膝を抱えた春馬がぎゅっと拳を握る。
 そう言われることも、春馬は解っていた筈だ。降伏など、誰の頭にも無い。このまま消耗戦になって全滅しても、城壁が突破されて殲滅されても、自分達の忠義を誇りに思いこそすれ、徹底抗戦を唱えた領主を恨む者など皆無の筈だ。驟雨の目は鋭く、春馬の言葉を蔑むようだった。


「今更、退ける筈、無いだろう!」


 驟雨の叫びは当然だった。
 張り詰めた空気の中の二人を見詰めながら、霖雨は言葉を探している。何を言っても不正解で、何を言っても無意味。そんな気がして呼吸すら潜めてしまう。すると、金色の光の中で春馬が言った。


(この戦争の結末は見えていた。幾ら戦略を練っても時間の問題だ。時代の流れに逆らうことは出来ない)


 無表情の春馬の声もまた、乾いていた。


(もう、後には引けなかった。降伏を求めるには、余りにも血を流し過ぎていた)


 それでも、諦めることなど出来なかっただろう。最後の最後まで、一人でも多くの人を救おうとしただろう。だから、春馬は今も父に降伏を提言するのだ。
 記憶の中の春馬もまた、同様だった。


「なら――、このまま皆死ねと言うのか!」


 こんなに感情的な春馬を見るのは初めてだった。


「このまま抗戦を続けて、もう戦うことも出来ない仲間も、女子どもも皆死ねと言うのか!」


 伊庭なら、そう言っただろう。武士道とは死ぬことだと、何の迷いも無く告げただろう。だが、春馬は武士ではない。同じように驟雨もまた、武士では無かった。それが幸せなのか不幸なのか、もう解らない。


「俺は嫌なんだ! これ以上仲間が死ぬのも……、お前が傷付くのも……!」


 霖雨は拳を握った。悔しくて、悲しかったからだ。
 春馬は国を治めるに相応しい男だ。剛毅果断で、温厚篤実で、民にも家臣にも愛された。けれど、この激動の時代を統べるには余りに優し過ぎた。人の痛みをまるで自分のことのように苦しみ、悲しんだ。自ら戦場に出て戦うことも出来ず、死地へただ送り出すことしか出来なかった春馬が傷付かなかった筈が無い。
 春馬の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは彼が今まで隠し続けた本音であり、弱さだ。驟雨は俯き、何かを堪えるように拳を握った。


「春馬、今すぐに此処を出ろ」
「――何?」
「お前が此処にいると、都合が悪いんだ」


 冷静さを取り戻した驟雨の声が、はっきりと響いた。だが、意味が解らず春馬はただただ瞠目する。
 驟雨は腰に差した刀を握る。覚悟を決めた真剣な眼差しだった。


「俺達は降伏する。お前等領主が逃亡したことによる降伏だ。お前等に全ての罪を着せ、俺達は助かる」


 真剣な言葉が痛々しかった。それはまるで刃のように、驟雨自身を刻んでいるようだった。
 春馬は何も言わず、驟雨は続けた。


「お前等を恨むことが、俺達の生きる理由になる。だから、お前は此処から逃げろ! 恨まれ憎まれながら――生きろッ!」


 ぽつりと、驟雨の瞳から涙が零れ落ちた。
 そんなことを、驟雨が望む筈が無い。春馬は何も悪くない。民から褒められことすれ、恨まれる謂れは無い。それなのに、愛する生国を捨て、恨まれながら生きろと告げる驟雨の苦しみが痛い程に解った。
 何が正解なのかなど、霖雨にも解らない。否、何をしたって不正解なのだ。記憶の中で、春馬が何かを言おうと口を開いた。けれど、その時。


「春馬様ッ」


 一人の武士が、転がり込むようにして天守閣に現れた。そして、春馬の顔も碌に見ないまま訴え掛けるような切羽詰まった口調で言ったのだ。


「領主様が……、何処にも見当たりません」


 空気が凍り付くのが、解った。


「先程から、真蜂隊を含む動ける者で探しているのですが……。恐らく、逃亡されたものと」


 春馬が目を閉ざす。驟雨は何も言わなかった。否、言えなかったのだろう。これで、驟雨の願った未来は閉ざされた。
 ゆっくりと目を開けた春馬の覚悟はもう決まっていた。それは、例え驟雨がどんなに説得しても、何をしても変えることの出来ない揺るぎない決意だった。


「解った。……すぐ、皆の元へ行こう。騒ぎを鎮めなくては」


 そうして颯爽と歩き出し、驟雨に背を向ける。春馬は二度と振り返らないだろう。





2011.9.30