39.金烏玉兎B






 領主の失踪に動揺し、念仏すら唱え出す人々の前に春馬は姿を現した。その瞬間、辺りは水を打ったように静かになった。何時でも領主の座など代われたのだ。春馬にはそれだけの人望と器がある。そして、新しい主君と騒ぎ活気付く中で一人、部屋の隅に驟雨が座り込んでいる。
 異様な空気に包まれた城内を、霖雨は奇妙なものを見るような目で見ている。


(――おかしい)


 呟いた声は当然、記憶の中の人々には届かない。


(なあ、春馬! 不自然だ!)


 領主が逃亡など、する筈が無い。つい先刻、春馬が降伏を提言した時はあんなにも徹底抗戦を訴えていたのに、急に掌を返すように逃亡など有り得ない。
 春馬は頷いた。


(そんなことは、俺も解っている)


 記憶の中の春馬は、新しい主君と祭り上げられている哀れな子羊のようだった。
 異様な活気のまま戦闘へと雪崩れ込む面々を止める術を持たぬ春馬は、主君として凛と背筋を伸ばしている。だが、満身創痍の朱鷺若に万に一つの勝ち目も無いことは火を見るより明らかだ。それでも挑まなければならない戦争とは、一体何なのだろう。負け戦と知った上で、死ぬ為に皆が城門へと集結する。
 皆を見送った後、春馬は神妙な面持ちで場内を駆けていた。


(この戦争には不自然なところが多かった。幾ら立てても読まれる戦略、筒抜けの情報、こんな小国に大軍を投じる意味)


 記憶の中で春馬は慌ただしく走り回り、やがて、一つの部屋に行き着く。地下牢だ。
 湿気に包まれた闇の中、確かな血の臭いがする。春馬の足取りは重くも、立ち止まること無く確かに前へと進んでいる。やがて、春馬は最奥の牢の前に立ち尽くした。


「成程――」


 力の無い声だった。霖雨も牢の暗がりに目を向ける。そして、息を呑んだ。
 惨殺された死体が、一つ。血に塗れた衣に見覚えがある。それは紛れも無い春馬の父、領主の成れの果てだった。


「……伊庭、か」


 春馬の言葉に、霖雨は耳を疑う。伊庭は確か、真蜂隊の隊長で、春馬と驟雨が師と仰ぐ人格者の筈。
 けれど、春馬が後にした領主の部屋で、擦れ違ったのは確かに伊庭だけだった。
 重い足取りで、地上へと向かう春馬の耳に、死にに行く仲間の咆哮が聞こえた。


(仲間を止めないと――!)


 霖雨が叫ぶより早く、記憶の中の春馬は走り出している。だが、城門の開く音と共に仲間達は銃弾の餌食になっていた。
 響く悲鳴と銃声。立ち上る黒煙、満ちる血の臭い。地獄だ。霖雨は目と耳を塞いで座り込みたかった。一方的な虐殺。呪いの言葉が、縋り付くような助けを求める声が、春馬に向かって飛んで来る。けれど、その中で。


「止めろおおおおおおおおッ!!」


 驟雨の悲鳴にも似た怒号が、曇天の下に響き渡る。銃声と雄叫びの騒音の中ではっきりと聞き取れたその声と共に、振り上げられた手には一本の槍。それがまるで矢のように粉塵の中を駆け抜ける。
 ずぶり、と。槍が食い込んだのは、討幕軍の指揮官らしき男。馬上の影がぐらりと揺れ、そのまま倒れ込む。ざわめく敵軍と一瞬の静寂。だが、伊庭がそれを阻む。


「突撃ィ! 退路は無い! 俺に殺されるか、敵に殺されるか、そのどちらかだ!」


 血迷ったか!
 春馬の叫びが木霊する。見せしめのように怯え立ち竦む少年兵を斬り殺す伊庭の目は濁っている。最早正気でないことは明らかだ。狂っている。
 兵の目に映るのは勇気ではない。恐れ、葛藤、嘆き、後悔。雄叫びではない、悲鳴だ。
 恐怖し立ち止まる若い隊士を伊庭が容赦無く斬り殺す。春馬が刀を握る。その目は伊庭を捉えていた。
 だが、その瞬間。緋色の閃光が駆け抜けた。一直線に駆け抜けた先に、ずぶりと鈍い音がする。貫かれた大きな背中からの呻き声が、春馬の耳にも確かに届いていた。


「貴、様……! 驟雨ゥうウ――!」


 濁った眼球が睨み付ける先に、驟雨がいた。振り下ろされる刃は蚊が止まる程に遅い。嘗て春馬と驟雨が越えようと対峙した強さは見る影も無い。
 崩れ落ちる伊庭が、呪い殺すように驟雨を睨み付けている。だが、驟雨は握った緋色の刃を引き抜くと叫びを上げた。


「剣を捨てろォ!」


 それは自軍にだけ向けた言葉ではない。叫んだ驟雨の迫力に、両軍がぎしりと動きを止める。
 静まり返った戦場に、驟雨の怒号にも似た叫びが響き渡った。


「俺達は戦いを止める! 其の方等も、――止めよ!」


 握られた緋色の刃から血液が零れ落ちる。奇妙な刀だと霖雨は思った。
 驟雨の迫力に押された討幕軍は、戦意を喪失させた朱鷺若をそれ以上攻め込むことは無かった。
 やがて過去の映像は金色の光に包まれた。場面転換の合図だと霖雨は強張った肩を下ろした。光の中、春馬は静かに言った。


(誰が敵なのか、味方は何処なのか。正義も悪も仁義も忠義も信念も全てまやかしのように粉塵の中に消えてしまう。戦争とは人を変えてしまう。得るものは無く、失うものは大きい)


 その通りだと、声も無く霖雨は思った。
 春馬が愛した生国は最早塵と消え、驟雨が望んだ未来は砂上の楼閣。どれだけ必死に走り回っても、剣を握っても、本当に大切なものは終に守れないまま。
 金色の光が消えて行く。ゆっくりと浮かび上がったのは、それまでの戦塵による曇天が夢だったかと思う程の蒼穹だった。春馬は言った。


(戊辰戦争の終結後、俺は捕縛されたまま牢に押し込まれた。後始末をしなければならなかったから)


 蒼穹は小さな窓に収まり、暗く冷たい牢獄の中で春馬は膝を抱えている。
 幾度と無く降伏を進言し続けた春馬がしなければならない後始末とは、一体何なのだろう。霖雨がそう考えた時、地を這うような足音が近付いていた。牢の前で停止した人物に、霖雨ははっとする。


(三間坂先生――)


 霖雨にとっては一介のスクールカウンセラーに過ぎない男が、びしっとした洋装で立っている。
 顔を上げた春馬の目は胡乱で、目の前の男に興味すら持っていない。だが、三間坂は薄く笑った。


「良い格好だね、常盤春馬君」
「誰だ、あんた――」


 元来の砕けた物言いで、春馬が応えると三間坂は言った。


「私は三間坂と言う。この朱鷺若戦争では参謀長を務めていた者だ」
「……ならば、教えてくれ。何故、こんな小国に拘る。何が目的だ。何の為に――」


 春馬の声は微かに震えていた。三間坂はくつりと喉を鳴らす。


「白々しい、気付いていただろう。――時の扉だよ」


 覚えのある単語に、記憶の中の春馬同様に霖雨もぎくりとした。如何して、その言葉がこの場で出て来るのだ。言葉を失くした春馬に、三間坂は言った。


「朱鷺若に代々伝わる時の扉と呼ばれる神通力を調べていてね。禍を封じる箱のようなものだと聞いている。その開閉には番人の許可が必要とのことだが……、現在の番人は君かい?」


 春馬は鼻を鳴らし、馬鹿にするように言った。


「そんな御伽噺を信じていたのか? 時の扉など、常盤家の先祖が自らの力を誇示する為の作り話だよ」
「どうかな? 私が大した調べも無く、戦争に興じるとでも?」
「――興じる、だと?」


 今にも噛み付きそうに春馬が睨んでいる。沸々と浮かび上がる殺気が、青白い炎のように目に見えるようだった。


「戦争を何だと、人の命を何だと思っている! そんなものの為に、朱鷺若を蹂躙したというのか!」


 嘗て、現世で春馬が三間坂と顔を合わせた時も同じように凄んでいた。それも当然だった。この戦争の黒幕は、三間坂だったからだ。
 三間坂は笑みを崩さぬまま答えた。


「そうだ。時の扉には、それだけの価値がある」
「……あんなものに、価値など無い。あれは更なる禍を呼ぶだけだ」
「それでも」
「お前に使いこなせる代物ではない」


 びしりと言い切った春馬に表情は無い。それは三間坂が幾ら言葉巧みに春馬を騙そうとしても無駄だと一目で解る、決意の表れだった。
 三間坂は肩を落とした。


「……出来ることなら、君を拷問に掛けてでも全て吐かせたいところなんだが、生憎、時間が無くてね」


 時間とは何のことだろうと、霖雨が考えると同時に三間坂は言った。


「君の処刑時間はもうすぐだ」


 その言葉に、霖雨が大きく目を見開く。
 何故、春馬が処刑されるのだ。


「時の扉の情報を差し出せば、他の捕虜は助けてやろう。――そう言えば、取引に応じるかい?」


 こいつ、人の命を何だと――!
 叫び出したい衝動に駆られる霖雨の前で、膝を抱えた春馬は口角を釣り上げて皮肉そうに嗤っていた。


「冗談だろう?」


 何故、笑えるのだろう。この状況で、如何して春馬は笑っていられるのだろう。霖雨には解らない。
 三間坂は一つ溜息を零すと、引き返すべく半身になって言った。


「そうだろうと思っていたが、実に薄情な領主様だね。まあ、いいさ。また何時か、私は時の扉の謎に迫れる日が来るだろう」


 そう言って、三間坂は傍にいた看守に何か話し掛ける。春馬は黙ったままだった。
 そして、数日後の夜。看守によって春馬は牢を出された。それは解放された訳では無く、処刑の前日を意味にしていた。再び押し込まれた牢で、春馬は壁に背を預けて拳を握った。微かに震える拳が解かれた時、掌からはふわりと金色の光が浮かび上がる。


「驟雨」


 次第に辺りを満たしていく光の中で、春馬は確かにその名を呼んだ。隣の牢には、壁を挟むようにして驟雨が座り込んでいたのだ。周囲の牢では仲間が死んだように眠っている。季節は春か、小さな鉄格子の窓から桃色の花弁が舞い降りていた。
 驟雨は驚いたように身を起こした。


「春、馬――!」


 互いに姿は見えない。けれど、壁の向こうから確かに聞こえる友の声に縋り付くようにその名を呼んだ。
 久しぶりに聞く友の声に、安心したのか春馬は微笑んでいた。


「驟雨、お前に話しておかなければならないことがある」


 酷く真剣な声で、春馬は言った。


「朱鷺若には代々、神通力というものが受け継がれている。それは時に災害を回避し、日照りに雨を降らせた。その神通力は、時の扉という」
「……何を言ってる?」
「時の扉とは、過去と未来を繋ぐ扉だ。中には鬼が棲み、許可なく扉を潜るものを喰らうという」
「何の話をしているんだ!」


 牢獄ということも忘れて驟雨が叫んだ時、春馬の牢を満たしていた金色の光は天の川のように驟雨の牢獄の茣蓙を掻き消していく。驚いたように体を強張らせる驟雨に、姿も見えぬまま春馬は冷静に言った。


「これが、時の扉。常盤の血を引く者は代々、時の扉の番人の使命を受ける。今は、俺が番人だ」
「春馬……?」
「此処は時の扉によって切り離された空間だ。時とは距離、時とは絶対の力。討幕軍は、その力を恐れたのだろう」


 目の前の現実が理解出来無いだろう驟雨が黙り込む。けれど、淡々と語り続ける春馬に苛立ったように驟雨が叫んだ。


「好い加減にしろ! それが何だと言うんだ!」


 驟雨の怒声は、牢に眠る仲間も看守も叩き起こさんばかりの大声だったにも関わらず、誰一人目を覚ますことなく、誰一人異変に気付くものはいない。当然だ。この場所は時の扉によって切り離されている。
 それでも信じ切れない驟雨が、掠れた声で続けた。


「……もし、それが本当のことだったとして。お前にそんな力があったのなら……、こんな事態を回避出来ただろう……!」


 驟雨は責めているのではないだろう。だが、春馬に何の非も無いとは思っていない。
 時の扉を開けば、この戦争は回避出来たかも知れない。だが、それは代償を伴うのだ。開けば代わりの禍が世に溢れ出る。もしかすると、それは朱鷺若が滅亡する以上の禍だったかも知れない。
 大義の為に、自分の国を、仲間を、民を犠牲にしたのだ。春馬の選んだ道は間違ってはいないだろう。けれど、誰もが春馬を責め、否定する。それでも選ばざるを得なかった春馬を思うと、霖雨は弁解してやりたかった。
 春馬は、歯切れ悪く答えた。


「言っただろう……。俺は、人でありたいと。人として国を、民を守りたかったのだと」


 春馬に何の非があるのだろう。霖雨は思う。春馬は何時だって、自分に出来ることを全力で行って来た。真蜂隊を結成し、次期領主として武芸を学び、知識を付けた。町民と親しく、家臣を思いやり、立派に生きた。戦争が始まる前から戦に異を唱え、勃発しても民を守る為に降伏を進言し続けた。
 誰に馬鹿にされても、否定されても、何を言われても本当に大切なものを守る為に戦って来た。


「なあ、驟雨」


 ゆったりと語り掛けるように、春馬は言った。


「時代は廻るから、何時かまた、お前に逢える。例え全てを忘れてしまっていたとしても、その時は、今と同じように――」


 顔を伏せた春馬の声はくぐもり、震えている。顔など見なくとも、泣いていることが解った。春馬は鼻を啜りながら、ぽつりと問い掛けた。


「俺と、友達でいてくれるか?」


 時の扉の光り輝く粒子が、ゆっくりと浮かび上がって行く。それは蛍のように、天へ帰る星屑のように、儚く消えて行く。
 驟雨の声が、響いた。


「当たり前だ……!」


 消えて行く光を眺めながら、霖雨は手を伸ばす。なんて儚い光なのだろう。生れ落ちては消えて行く、まるで人の命そのものではないか。
 冷たい壁の向こうから、噛み締めるように驟雨が言った。


「俺達はずっと、友達だ。時代が変わっても、名前が変わっても、姿形が変わっても、お前にとって裏切らない、裏切れない親友でいてやる」


 光の粒子が消え、新たな光が牢に差し込む。長い夜が終わり、朝が訪れたのだ。
 土の露出した回廊に響く無数の足音。


「出ろ」


 牢が開かれる。無表情の看守。促されるまま、死地へ向かう春馬は凛と背筋を伸ばしたまま。
 振り返ることも、縋り付くこともせず、ただ一言、零した。


「また逢おう」


 その言葉と同時に、霖雨の頬を大粒の滴が零れ落ちた。
 驟雨の伸ばせなかった手を、春馬の求められなかった助けを、届かなかった祈りを、砕かれた願いを思って泣いた。


(俺はこの後、民衆の前で処刑され、その首は見せしめとして川原に晒された)
(……春馬……)


 映像は光の中に消えて行く。金色の空間で、崩れるように膝を着いた霖雨の横で、平然と春馬は立っている。春馬にとってはただの過去、終わった出来事でしかないのだろうか。だけど。


(春馬……!)


 感情を押し殺したような無表情の春馬に縋り付くようにして、霖雨は涙を零した。泣くことすら出来ない不器用な男に代わって、泣いた。


(馬鹿だな……)


 肩口に顔を埋める霖雨を愛しむように、春馬はその頭を撫でる。浮かべた微笑みは消えそうに儚い。


(お前が俺の代わりに泣くことないのにな)


 それでも霖雨を突き放すことの出来ない自分自身を、春馬は笑った。消えて行く光の中、ぽっかりと闇が口を開けて待っていた。





2011.10.2