40.泥中の蓮






 一筋の光も無い闇の中で、春馬と霖雨は漂っていた。啜り泣く霖雨を肩に抱き、春馬は虚無と化した闇を茫洋と眺めている。過去の映像が消え失せた世界は音も無く、光も無く、終わることの無い絶望の空間だった。ただ一つ、霖雨がいることを除いて。


(……死の寸前、俺は時の扉を開いた)


 自分に代わって涙を零し続ける霖雨を優しく撫でながら、春馬は言った。


(あの戦争による負の遺産、全てを封じる為だ。それらが未来を生きるものに悪い影響を与えぬよう、散った命が新たな生を歩めるよう、封じ込めた。俺自身の魂を鍵として、共に砕いたんだ)


 霖雨が、春馬の衣を握り締めた。
 感情の含まぬ淡々とした口調が何より辛かった。


(残された俺の心だけが、時の扉の中で漂うことになった。百五十年以上もの月日が、流れた)


 この闇の中で、ただ一人で、眠ることも消滅することも狂うことも出来ず、終わりの無い虚無の中を春馬は漂い続けた。その苦しみなど霖雨には想像も出来ない。先の見えない暗闇の中で、春馬は何を思っただろう。人を憎んだだろう、世界を恨んだだろう。絶望し、諦観し、何もかも嫌になって投げ出したくなっても、此処から出る術すら無い。叫びも祈りも無に消える。
 だが、春馬は言った。


(この暗闇の中を、未来永劫漂うのだと思った。それが対価だ。そう思っていた。だが、光を見付けたんだ)


 それは百五十年の時を経て、初めて見た光だった。
 初めは小さな光にも関わらず目が眩んだ。近付くことすら恐ろしかった。だが、一歩一歩と近付くにつれてその光がとても優しく、温かいことを知った。
 掌にそっと浮かべ、それがすっかり忘れてしまっていた人の温もりだと気付いた時、春馬の頬を伝ったのは涙だった。望むことすら許されないと思っていたものが、其処にあった。今にも消えてしまいそうに儚く、小さく、――けれど、強く。


(光を抱き締めながら、その温もりに縋りながら、願ったんだ。時の扉を開くな、と)


 その言葉に、霖雨ははっとした。春馬の存在を認める以前から、自分の中で響き渡る何者かの嗄れ声。あれは、春馬の身を裂くような叫びだったのだ。


(あの光は、命の光だ。混沌の闇の中で、俺自身が砕いた魂の欠片を持って生まれた命があった。不思議なことが、あるものだな)


 其処で初めて、春馬は笑った。それはこれまで見せて来た皮肉めいた自嘲でも、誰かを馬鹿にするような嗤いでもない。何かに心を許すような、張り詰めていた糸を解くような微笑みだった。


(あれは、お前だよ)


 光はやがて、閉ざされた時の扉を擦り抜けるようにして消えて行った。現世を生きる新たな命。けれど、時の扉をその身に宿す人柱も同然だった。だから、春馬は何としても霖雨を守ろうとした。時の扉の為ではない。春馬自身が、霖雨を希望としていたからだ。


(お前は、俺のたった一つの希望なんだ。……だから、こんなところにいてはいけない)


 そう言って、春馬は霖雨の肩を押した。宇宙遊泳をしたならば、こんな感覚なのだろう。霖雨の体はいとも簡単に春馬から離れ、闇の中進んでいく。


(――春馬!)


 霖雨は手を伸ばした。だが、春馬は微笑むだけだ。その手を取ることは無いだろう。
 此処まで来て、春馬の過去を見て、そうしてまた、距離を置かれるのか。守られる一方で、救ってやることも出来ないで。


(春馬!)


 闇の中に消えようとする春馬に、取られないと解っていても霖雨は手を伸ばす。霖雨の声は悲鳴のように闇に響いた。春馬は微笑んでいる。けれど、その時。
 誰かが、霖雨の手を取った。肉刺と胼胝で固くなった掌。薄闇が晴れて行く中で、霖雨は確かにその姿を見付けた。


(驟雨――)


 真っ直ぐに春馬を見据える驟雨は、記憶の映像なんかではない。驚いたのは霖雨だけではない。春馬もまた、いる筈の無い存在に瞠目する。
 如何して、此処に。消えて行こうとする春馬がそう問い掛けようと口を開くと同時に、離れていた筈の驟雨との距離は縮まり、その手は強く掴まれていた。
 驟雨は霖雨の手を掴みながら、春馬を睨むように見詰め言った。


(もう、いい。これ以上、お前が傷付く必要は無い)
(驟雨……)
(過去なら、俺も見た。お前が死んだ後、すぐに俺も死んだんだ)


 それは、霖雨が見た春馬の過去とは異なるものだ。何せ、記憶を持つ張本人である春馬は死んだのだから、その先の記憶などある筈も無い。だが、驟雨は違う。春馬が処刑された後の記憶が、驟雨にはある。


(時の扉には、俺の記憶も封じられていた)


 驟雨は目を伏せた。
 春馬が処刑されたことを知った後、誰かにその事実を否定して欲しくて、驟雨は囚われながら渾身の力で暴れた。看守等を口汚く罵り、戦争を齎した外国を呪った。そのまま数人掛かりで押え付け、引き摺り出され、敵を何人も殺し、斬首されたのだ。


(俺は処刑された後、新たな世界で桜丘驟雨として生きることになった。……でも、お前は、この闇の中で)


 驟雨の言葉は途切れた。彼等の心境を思えば、霖雨とて言うべき言葉は見付けられなかった。
 大義の為にと自らを犠牲にし、百五十年以上も闇の中を独り彷徨い続けた春馬。転生し、春馬の存在も約束も全てを忘れてしまっていた驟雨。


(あの時、何が何でも、お前の傍にいれば良かった……! そうすれば、お前をこんな闇の中で、独りにすることなんて無かったのに……!)


 酷く悔しそうに、噛み締めるように驟雨は言った。そうして、鼻を啜って驟雨は霖雨を見た。


(後は俺に任せてくれ。もう、春馬を独りにはしねぇ)


 驟雨が何をしようとするのか悟り、霖雨はその手を離すまいと力を込めた。このまま闇の中に消えてしまわないように、失くしてしまわないように。けれど、その手を振り払おうと驟雨は腕を振り上げる。
 この手が離れてしまえば、二度と彼等には逢えない。二人を犠牲に、闇の中に置き去りにして、それで残された者は如何なるのだ。全部忘れて幸せになれると思うのだろうか。そうして、二人は本当に満足なのか。
 霖雨は叫んだ。


(そんなの、違うだろ!)


 泣き出しそうな、悲鳴にも似た叫びに驟雨は動きを止めた。霖雨はその手を離すまいと縋るように握り締める。


(一緒に死ねなかったから、悔しいのか? 違うだろ!)


 滅亡した小国の領主として、責任を取る形で処刑された春馬。唯一無二の親友を奪われ、茫然自失のまま処刑された驟雨。彼等が本当に願ったのは、そんなものなのか?


(例え遠く離れても、互いを信じて、生きることが出来なかったから、悔しいんだろ!?)


 だからあの時、驟雨は裏切り者の汚名を着せてでも春馬を生かそうとした。
 独りは寂しい。けれど、その闇の中に未来永劫漂うことになるとしても、人々を、親友を助けたかったから春馬は自らを犠牲にした。二人で時の扉の中に消えることが、一体何の解決になる。
 霖雨の頭には、大佐和と麻田の心中が過る。死んだら、いけないのだ。諦めたら、終わりなのだ。
 驟雨の手がびくりと震えた。この手は届いているのに、離さないと言った筈なのに。
 少しだけ、春馬が微笑んで。

 その手を、離した。


(――春馬ァ!)


 闇の中へ落下していく春馬の体が、燃え尽きる花火のように金色に発光する。
 春馬なら、誰かを巻き込むくらいなら自己犠牲を選ぶだろう。そんなことは解っていた。驟雨はその光を追い掛けるように闇の中へ飛び込んでいく。
 お前は待ってろと、驟雨が振り返り叫ぼうとするよりも早く、霖雨の体は春馬の腕を掴んでいた。


(言っただろ、春馬。俺はもう、何も捨てたりしない!)


 どんな理由があっても、どんな困難が待ち構えていても、この手は絶対に離さないと誓った。
 春馬はその手を振り払うように腕を引き上げる。


(離せ、霖雨! お前まで閉じ込められる!)
(離さない!)
(離せ!)


 霖雨は離さない。そして、それ以上二人が闇の中に落ちてしまわぬように、驟雨が霖雨の手を支えている。
 如何して、離さない。離してくれない。春馬は霖雨の腕に爪を立てた。皮膚が破れ、血液が滲む。それでも腕はびくともしない。泣き出したい思いで、春馬は更に爪を食い込ませる。
 俺は、お前等を救いたいだけなんだ。如何して解ってくれない。


(お前等と違って、俺は空っぽなんだ。死して、肉体は滅び、魂も砕かれた思いの塊。誰にも知られず、闇に消えて行くだけの存在なんだ)


 肉に食い込む指先の生々しい感覚と、滴り落ちる血液が春馬に降り注ぐ。それでも霖雨の手が緩むことも無ければ揺らぐことも無い。霖雨は痛みに顔を顰めながら、はっきりと言った。


(違うよ)


 この言葉がどうか、春馬に届くように。聞き間違うことの無いよう、一言一句はっきりと霖雨は言った。


(確かに肉体は滅んだんだろう。確かに魂は砕かれたんだろう。だけど、それなら此処にある心は一体何なんだ?)


 冷や汗が、滲むような涙が、絞り出された血液が、噛み締められた言葉が春馬に降り注ぐ。


(悩み、苦しみ、願い、傷付き、考える。お前の心は今確かに、此処にあるだろう?)


 霖雨がそう言った瞬間、がらんどうの筈の胸が何故だか温かくなったような気がして、春馬は握り締めた。
 春馬の砕かれた魂の欠片から生まれた霖雨が、それでも一人の人間として生きている。他の誰でもない春馬を救う為に。


(俺の傍に何時でもいてくれたように、お前の傍に俺はずっといたんだよ。独りじゃないんだよ。空っぽなんかじゃないんだよ。なあ、叫べよ、春馬)


 拒絶し爪を立てるのではなく、否定し背中を向けるのではなく、ただ真っ直ぐに向き合って叫んで欲しい。
 自分がずっと言えなかった言葉を、春馬もずっと言えなかった筈だ。


(助けてって、言えよ!)


 如何して、手を取ってくれない。引き上げる準備なら出来てるのに、背負う覚悟だって出来てるのに。
 黙っていた春馬の顔が、くしゃりと歪む。
 朱鷺若が滅んだあの時、自らを犠牲にしたその選択が間違っていたとは思わない。あの時を何度繰り返したとしても、春馬は同じ選択をしただろう。ただ、其処に霖雨がいなければ。
 選択肢は、まだあったのだろうか。自分が生きてもいい未来が、あるのだろうか。もしも、それが真実なら。


(霖雨……)


 春馬は力を込めた。爪を立てるのではなく、振り払うのではなく、血で滑る掌を離すまいと霖雨の手を握り締める。


(俺も夢を見たんだ。お前と家族で、驟雨と友達で、皆で歩いている夢)


 それは嘗て、霖雨が見た夢だ。有り得ない夢ではなく、有り得た現実なのだ。願うことを、信じることを止めなければ。


(俺も、願ってもいいのかなぁ?)


 笑った春馬の、頬を涙が零れ落ちた。それを駄目だと、誰が否定するのだ。
 霖雨はその願いを肯定するように、手を強く握った。


(当たり前だろ……!)


 貧乏籤ばかり引いて来た春馬が、大義の為と泥ばかり被って来た春馬が、如何して願ってはいけないというのだろう。百五十年以上もの間、闇の中を漂い続けた春馬が、これ以上独りきりでいなければならない理由などある筈が無い。
 ふわり、と。
 蛍のような金色の光が、春馬を包み込む。消えてしまわないように霖雨は一層手に力を込めた。それでも滴り落ちる血液がその手を外そうとする。その時。


(お前等、絶対に手を離すんじゃねぇぞ)


 頭上から振って来た声に身を固くする。だが、次の瞬間。
 二人の体は勢いよく引き上げられた。宙に浮かびそうな勢いに、感覚がぐるりと一回転する。渾身の力で二人を引っ張り上げ、驟雨は闇の中を泳いで行く。
 金色の光を振り切る光速で、驟雨は二人を引いた。行く先が解り切っているような迷いの無い驟雨の目は何処までも真っ直ぐで、それは春馬が嘗て肩を並べた親友と同じものだった。
 春馬は少しだけ笑って、霖雨の手を強く握った。


(なあ、霖雨。俺、お前に逢えて本当に良かったよ)


 金色の光が春馬の掌から溢れ出た。霖雨が瞠目する前で、春馬は頬に涙を張り付けたまま微笑む。


(時代が廻るなら、また何処かで逢える。その時もまた、お前の傍にいたいよ)


 二人を引き上げる驟雨の目前には、出口が迫っている。時の扉の中、禍と悲劇と共に自らを封じた春馬は、此処から出られない。金色の光は決して、春馬を離さない。
 自ら魂を砕いた春馬は、転生することなど出来ない、筈だった。
 霖雨は応えるように、春馬の手を握る。


(いるよ)


 こんなに冷たくて暗い場所に、置いてなんていかない。
 霖雨の掌から光が零れ落ちる。


(俺の中に、春馬の魂の欠片があるなら、返すよ。なあ、だから、一緒に背負おう)


 過去の絶望を、憎悪を、怨恨を、憤怒を、悲哀を、全て共に背負おう。
 一人では封じることしか出来なかったものも、二人なら背負って生きていける。
 驟雨が扉を抜けた。追うように飛び出した霖雨の体が淡く光った。零れ落ちた光の欠片が春馬に降り注ぐ。春馬を追う金色の光が消えて行く。
 春馬が扉を抜けた瞬間、その背後で軋むような音が重く響いた。振り返った先に、天辺が見えない程の巨大な扉がゆっくりと閉じて行くのが見えた。扉は風に吹かれた塵のように光の粒子となって消えて行く。
 封じるしか出来ないと思っていたものが、消えて行く。これが答えだと、春馬は悟った。
 影辻である秋水と対峙した霖雨が、彼女の全てを受け入れた。向けられた憎悪も、殺意も、理不尽な理由も全て。それこそが答えなのだ。
 霖雨は血塗れの掌で、胸に手を当てて言った。


(扉の中で、ずっと声が響いてた。置いて行かないで、って、泣きそうな声が)


 置いて行かないで。無かったことになんてしないで。忘れないで。ねぇ、此処にいるんだよ。
 扉の中に封じられた悲鳴が、怒号が、彼方此方に反響して始めは聞き取れなかった。だけど、それがやっと解った。


(置いて行かないよ。全部、見付けてあげる。拾ってあげる。だから、泣かなくていいよ)


 光の粒子となった時の扉が、きらきらと雨のように降り注ぐ。闇が晴れた其処には雲一つ無い青空が広がっていた。
 驟雨は突き抜けるような蒼穹を見上げながら言った。


(雲が無いのに降る雨は、空が泣いているんだそうだ)


 泣いていたのは、誰だっただろう。春馬は降り注ぐ光に手を翳す。
 光はやがて消え、霖雨が微笑んだ。春馬もまた、釣られるように微笑む。


(霖雨、驟雨……、ありがとう)


 春馬の姿が青空に透ける。消えてしまいそうな存在に霖雨は慌てて手を伸ばした。けれど、その手は触れることも掴むことも出来ず空を切った。


(別れの時が、来たみたいだ。俺もまた、歩き出せる)
(春馬……)
(泣くなよ、霖雨。これは笑うことなんだから)


 泣き出しそうな霖雨を撫でようとする春馬の手も、またその体を擦り抜けた。足元は既に消えている。


(お前が言ったんだろう。俺達が共に過ごした日々は、無くなったりしない。あの日々は嘘なんかじゃない)


 肩の荷が下りたような晴れやかな笑顔で、春馬は言った。


(別れが寂しいのは最初だけさ。きっと、また逢える)


 そうだ。これは喜ぶことなんだ。霖雨はそう思おうと、ぎこちなく笑った。
 時の扉は消え、春馬は解放された。ずっと、俺が望んでいたことだ。春馬の門出を、涙で濡らしちゃいけない。


(また、逢おう)


 最後に声がして、霖雨の目の前には蒼穹が映った。
 苦い顔で俯く驟雨の耳に、霖雨の声が届く。


(……おかしいな、驟雨)


 驟雨は顔を上げた。霖雨は、口元にだけ笑みを残している。


(雲なんて無いのに、雨が降ってる……)


 ほたほたと、足元に落ちる滴。堪えて来たものが零れ落ちて行く。驟雨は震えるその肩を抱いた。


(そうだな……)


 果ての無い青空を見詰め、驟雨は答えた。





2011.10.3