41.晴好雨奇
夢を見たんだ。
春馬が俺の家族で、隣には驟雨が歩いていて、林檎は笑っていて、香坂は仏頂面で。
何でもない毎日が、当たり前のように過ぎて行く。悲しい時には大声で泣いて、嬉しい時には腹を抱えて笑う。どんな時でも一緒にいて、嫌なことがあれば励まし合って、良いことがあれば喜び合って、偶には喧嘩したり、擦れ違ったり……。
それでも、お前が大切で。
なあ、春馬。俺、お前に逢えて良かったよ。
深い眠りについていた霖雨の体は、薄ぼんやりと発光したまま微動だにしなかった。その手を握る驟雨もまた、金色の光に包まれたかと思えばそのまま倒れ込んでしまい、未だ意識は戻らない。
お手上げだと、三間坂は諦めたように椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。呑気なことだ。佐丸は眠ったままの二人を見下ろし、せめて彼等の仲間には一方するべきだと判断した。
驟雨の携帯を拝借しようと、ズボンのポケットに手を伸ばす。壊れたキーホルダーの金具がポケットから顔を出していた。
けれど、その時。
一瞬、強い光が辺りを包み込んだかと思うと、意識不明の筈の霖雨の長い睫が、僅かに震えた。伸ばし掛けた手を止め、佐丸は霖雨の顔を凝視する。
「おい、霖雨……?」
三間坂がマグカップから視線を動かす。光は徐々に収束していく。そして、大きな瞳が、ゆっくりと現れた。
数度の瞬きと、一筋の涙が零れ落ちた。油の切れた人形のように、軋む体を驟雨が起こす。夢と現が曖昧なのか、その目は茫洋と虚空を漂う。霖雨もまた、酷く怠そうに体を起こし、苦しそうに呟いた。
「春馬……」
絞り出すような単語と共に、霖雨は俯いた。白いベッドに丸い染みが無数に作られていく。
両目をぐしゃぐしゃに擦りながら、子どものように、縋るように霖雨は涙を零し続けた。訳が解らないだろう三間坂と佐丸だけが目を白黒させ、驟雨はただ泣きじゃくる霖雨の背を摩り続けた。
「もう、いない……!」
その言葉の意味が、解っただろうか。驟雨は唇を噛み締め、俯いた。其処にもまた、霖雨と同様に丸い染みが作られた。
胸の中、大きな空洞があるようだった。それまであった筈のものが消えて無くなってしまった。まるで、其処には初めから何も無かったかのように。霖雨は顔を上げ、人目も憚らず咽び泣いた。
「春馬ぁああ……!」
時の扉が消えて、春馬も逝ってしまった。それを望んだのは霖雨だ。
別れが寂しいのは最初だけだと、彼は言った。じゃあ、この悲しみも何時かは消えて無くなるのだろうか。共に過ごした思い出だけが美しく残って?
止め処無く流れ続ける涙を止める術などあるのだろうか。驟雨には解らない。その驟雨とて、涙が滲んでいる。だが、その時。
「――春馬が、如何したってんだよ」
呆れたように、佐丸が腰に手を突いて言った。
振り向いた驟雨越しに、三間坂が霖雨の額に手を当てる。彼が何を言っているのか解らず瞠目する霖雨に微笑み掛け、三間坂が言った。
「……うん。すっかり熱も下がったようだね」
何も知らないだろう部外者である二人の平然とした態度に、呆気に取られる。佐丸は溜息を吐いた。
「ったく、急にぶっ倒れんなよな、霖雨。春馬と驟雨が心配し過ぎて死んじまうぞ」
何を言っているのだろう。佐丸の言葉の意味が解らない霖雨は不機嫌そうな顔を凝視する。
だが、佐丸は霖雨の視線など気にならないように驟雨を睨んだ。
「てめぇもてめぇだ。熱で倒れたくらいで、他人の家に押し掛けてんじゃねぇよ。家宅侵入で訴えられるぞ」
「お前、何を」
驟雨もまた、訳が解らず佐丸を見た。その時、驟雨の携帯が震えた。
状況が呑み込めぬまま、驟雨は携帯を取り出して硬直する。着信、――常盤春馬。
何時から携帯電話は、冥界に通じるようになったのだろう。混乱するままに、驟雨は導かれるように通話ボタンを押した。
「もしも――」
『霖雨は!?』
鼓膜を破るような大声に、耳がきーんと鳴った。驟雨は耳を押えた。
何が起こっているのだろう。状況は解らない。けれど、小さな機械の箱から聞こえた声は有り得ない筈のもので。
「お前、春馬、か?」
『当たり前なこと訊いてんじゃねぇよ。それより、霖雨は!?』
「あ、ああ。此処にいる……」
喉がからからに渇いている。驟雨はベッド上の霖雨に目を遣った。
互いに理解不能なまま、それでも耳に馴染む彼の声に無性に安心して。霖雨は驟雨から携帯を預かると、彼の声を一つでも逃すまいと耳に押し付けた。
「――春馬?」
『霖雨、大丈夫なのか?』
此方を気遣う春馬の声に、目頭がじんと熱くなるのが解った。記憶に残るものと相違ない声が、当たり前のように自分の名を呼んでいる。小さな機械越しに届く春馬の存在証明。
「大丈夫だよ……」
如何して、春馬がいるのだろう。如何して、誰もが当然のようにその存在を認めてくれるのだろう。
ぽたぽた、と。携帯に落ちる滴。防水だっただろうかと、驟雨に確認することも、滴を拭う余裕すら霖雨には無かった。
不審に感じたらしい春馬が、怪訝そうに言った。
『霖雨……、泣いてるのか?』
電話と解っていながら、霖雨は首を振った。
「いいや。――雨だよ」
降る筈の無い雨を拭いながら、霖雨は鼻を啜った。
夜の闇が広がる窓の外に、星が煌めいている。春馬も同じ空を見ているだろうか。
『迎えに行くよ』
「平気だよ。今すぐ、帰るから」
『迎えに行く。三間坂先生の家なんだろ?』
「いいんだ。俺が、春馬のところに行きたいから」
暫しの沈黙が流れ、不満そうに春馬が返事をする。
『解った。でも、俺も行く。学校で待ち合わそう』
電話の向こうで、春馬が笑ったようだった。
『早く逢いたいのは、お前だけじゃないよ』
それだけ答えて、春馬は電話を切った。ツーツーと空しく鳴る携帯から耳を離し、霖雨は驟雨を見た。
様子を窺っていた驟雨は通話の終了後、訊きたそうにしていたが、堪らず霖雨は叫んでいた。
「驟雨、学校だ!」
「何?」
「春馬が、学校にいる!」
少しの沈黙の後で、驟雨は頷いた。真剣な面持ちで立ち上がった驟雨に習うように、霖雨もまたベッドから飛び出した。
慌ただしく玄関へ向かう二人を見て、呆れたように佐丸が言った。
「毎日顔合わせてる癖に、本当にお前等は仲が良いよな」
言葉の意味を追うように霖雨が振り向けば、佐丸は「何だよ」と少し驚いたような顔をした。
「お前等程、仲の良い兄弟はそうそういねぇよ」
意味の解らない単語。霖雨は問い掛けようとしたが、玄関で驟雨が怒鳴るように呼んでいた。
ヘルメットを引っ掴んだ驟雨が蹴破る勢いで玄関を飛び出していく。後を追う霖雨は未だに状況が把握出来ずにいた。
駐輪場で乱雑に止められたバイクに、利用者はとても迷惑しただろう。だが、驟雨は気にする素振りも無く霖雨にヘルメットを投げて渡す。
「乗れ!」
言葉の通り、霖雨は飛び乗った。
走り出したバイク。アクセルを回し、エンジンが唸る。駐輪場を弾丸のように滑り出たバイクは何の迷いも無く、一直線に春馬の元へと向かう。霖雨は、把握し切れない状況を整理しようとした。
如何して、春馬がいるのだろう。佐丸は知らない筈の春馬を、自分の兄弟だと言った。霖雨は、夢を思い出した。
春馬が俺の家族で、隣には驟雨が歩いていて、林檎は笑っていて、香坂は仏頂面で。
有り得ない夢は、有り得た現実だ。信じることを、諦めることをしなければ。
なあ、春馬。俺、お前に言いたいことがあるんだ。
言えるかな。言ってもいいのかな。
夜の闇を疾走するバイクと、追い掛けて来る無数のサイレン。大幅なスピード違反は、流石に目を瞑ってはくれないだろう。驟雨はアクセルを回し、パトカーを躱すように裏道に飛び込んでいく。
一秒だって無駄にしたくないと、驟雨はブレーキすら惜しむように加速していく。それでも危なげなく走り続ける驟雨の運転技術に驚きながら、霖雨は春馬の待つ学校を思い浮かべた。
学校は闇に染まっていた。灯り一つ無い深海のような底知れぬ闇は不気味と感じるけれど、校門に佇むその影が目に映った瞬間、心臓が止まりそうになった。遠くに響くサイレンは意識の外に消えた。マフラーの荒い呼吸も、無くなった。霖雨はいても立ってもいられず、バイクを飛び下りた。急ブレーキで止まったバイクに高音が断末魔のように鳴った。驟雨はバイクを投げ捨てるように霖雨を追う。
神奈川県立春賀高等学校。誰かが待っている。
「霖雨――」
此方に気付いた人影が、駆け寄りながら名を呼んだ。続けようとした言葉を遮り、霖雨は叫んだ。
「お帰り!」
出鼻を挫かれたように、驚いたように肩を竦める。春馬は、不満げに唇を尖らせた。
それは俺の台詞だろ。そう言いたげな春馬に縋り付くように霖雨はその肩を抱いた。
「お帰り……!」
叱咤の一つでもくれてやろうとしていた春馬は、泣き出しそうに震える声を出す霖雨に観念したように肩を落とした。そして、その後頭部を優しく撫でながら答えた。
「ただいま」
春馬の耳元で聞こえる啜り泣きと、噛み殺された嗚咽。何が起こっているのか春馬にもまた、解らなかった。
ただ、霖雨は其処にある確かな温もりを離すまいと握り締める。このまま消えて無くならないように、失うことのないように。
「お前に、言いたいことがあったんだ」
顔を上げないまま、霖雨は言った。
「俺、お前に逢えて良かったよ……」
春馬の肩に染みる滴は雨なんかではない。解っていながら、春馬は苦笑交じりに霖雨を撫でるだけだ。
「何なんだよ、お前。訳が解らない奴だな」
その言葉、そっくりそのまま返すけどな。
そう言って、春馬は笑ったようだった。
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