02.一樹の陰一河の流れも他生の縁






 学校に遅刻したのは生まれて初めてだった。
 時計を確認し、午前十時を過ぎていると理解すると何もかもどうでも良くなってしまった。アラームをセットしていた筈の携帯は充電が切れたまま枕元に転がっている。そして、毎朝起こしに来るお節介な同級生は今日に限って来なかったようだ。
 今更、登校する気にもなれない。午後六時からのバイトにも時間がある。かといってやることがある訳でもなく、貧乏暇なしをモットーとして来た自分が何の因果か突然手にした空白の時間に戸惑う。バイトの時間まで眠るには勿体無い程の晴天だ。いつも週末に纏めて行う家事を片付けようと、寝巻のグレーのスウェットを洗濯機に突っ込み、インディゴの細身のジーンズに足を通す。ハンガーに掛けられた淡いブルーのシャツに腕を遠し、ボタンを留めながら洗濯機のスイッチを押す。
 洗濯機の唸るような音をBGMに、キッチンに向かう。自宅では一切の食事をとらない為、洗い物も生ごみも堪らない。水回りもガスコンロも全く汚れは気にならない。それでも生活していれば汚れる床に掃除機を掛け、棚や机を拭き、トイレの掃除をする。午前十二時にを回り、漸く午後に差しかかろうかという頃になって、思い出したように携帯を手にする。掃除機を掛ける為に机の上に転がしたまま、充電が切れた為に電源が落ちている。
 充電器に差し込み、電源を入れる。掌にバイブレーションを感じ、画面に起動中の文字が表示された。
 新着メールは無かった。それは一つの違和感だった。
 確かに、自分にはメールを送って来るような友人はいない。ただ、一人を除いては。
 何故、林檎からのメールが無いのだろう。几帳面な彼女は必ず返信をするし、昨日はわざわざ一緒に学校へ行こうと誘って来たにも関わらずすっぽかしている。仮に自分が如何しても起きなくて、仕方なしに先に学校へ行ったとしても、やはりメールの一つは送って来ただろう。
 何かあったのだろうか。
 そう思いつつも、携帯を閉じた。余計な詮索はするものではない。彼女は自分とは違い、友達の多い女子高生なのだ。人に言えない事情も予定もあるだろう。
 溜まっていた家事を片付け、晴れやかな気分で大きく背伸びをする。窓の外に広がる晴天に誘われるように、薄暗い玄関の扉を開いた。煤けた廊下の向こうには満開の桜が待っていた。葉の擦れる微かな音の中に、賑やかな祭囃子が聞こえた。何処かで祭りでもしているのだろう。
 人込みは嫌いだ。だが、如何してか手は履きなれたスニーカーを掴み、足は玄関の向こうに踏み出される。誰かに呼ばれたような気がした。
 白い桜花の散る中、坂ばかりの道を微かな祭囃子を頼りに進む。平日の真昼間に行われる祭りなんてどうせ碌なもんじゃない。頭ではそう思っているのに、何故か足が止まらない。
 ふつりと、祭囃子が途絶えた。其処は寂れた公園だった。小さな砂場に一歳くらいの子どもが二人、傍で談笑する母親らしき女性が二人いるだけだ。公園を取り囲む桜が満開の花弁を散らせている。暖かな心地よい春の風を感じながら、公園に足を踏み入れる。ペンキの剥げ掛かった青い滑り台と、赤茶く錆びた箱型ブランコ。朽ちた木の打ち付けられた小さなベンチ。耳の奥の響いていた祭囃子は無く、子どもの楽しそうな笑い声があるだけだ。
 砂地を踏み締めながら周囲を見渡しても、祭りなど行われてはいない。幻聴だろうかと、溜息が漏れる。
 家族も無い。友達も無い。金も無い。精神病を患いながら、幻聴の祭囃子に誘われてこんなところまで来てしまった。自分は一体何なのだろう。何の為に生きているのだろう。何の為に存在しているのだろう。此処にいることに意味があるのだろうか。
 春の穏やかな日差しに照らされながらも、心は急降下していく。と、そのとき。
 視界の端に、黒い影が過った。反射的に目が追う。その先に、白い桜吹雪の中で際立つような人影が目に入った。
 黒い着流しを粋に着崩す、何処か現実離れしたその姿に目を奪われた。黒い短髪が風に舞う。桜花の中に消えてしまいそうな白い肌は、いっそ病的だ。けれど、その漆黒の双眸はとても強く、鋭い。此方をじっと見詰めるその男を、知っているような気がした。
 まるでその場所だけがタイムスリップしたようだ。腕を組んだまま、真っ直ぐ背筋を伸ばしていた。
 着流しが風に揺れる。ふっと踏み出された一歩は、間違いなく此方へ向けられていた。
 足音も無く、何の迷いも無く歩み寄る男の顔が酷く整っていることに驚く。通った鼻筋も、切れ長な目も、真一文字に結ばれた口元も、まるで精巧に作られた人形のようだ。けれどそれは、人と呼ぶには余りに美しく、人形と呼ぶには余りに強く。
 近付く男から目が離せない。
 目と鼻の先に迫った男が、真一文字に結ばれていた口を開いた。


「……よう、いい天気だな」


 親しい人間に話すようなその口ぶりは、何か言いたい言葉を呑み込んだように感じた。
 じっと此方を見詰める目は、今にも泣き出しそうに細められる。返す言葉を見付けられないまま黙り込むと、男は少しだけ笑って続けた。


「桜は、好きか?」


 この男は誰だろう。
 その疑問を抱えながら頷く。けれど、男が何かを続けようとするのを遮って、言った。


「でも、俺は、梅が好きだ」


 そう答えた瞬間、男の目は酷く驚いたように見開かれた。
 男の後ろに、もう花を散らせた細く痩せた梅の木が見えたのだ。幹の太い桜が立ち並ぶ中、まるで場違いのように存在するその梅の木に親近感を覚えた。この木の存在を知っているものはいるのだろうか。いたとしても、決して気には掛けないだろう。この美しい桜並木の中で、滑稽なこの存在を誰が認めてやるのだろう。
 誰が何と否定しても、此処に存在している。草木が凍えながら眠る寒風の中、凛と咲き誇り、散りても尚、強い香りを残す梅。それが、とても好きだった。
 男は「そうか」とまるで独り言のように呟くと俯いた。そして、顔を上げたその頬には一筋の滴があった。


「俺も、梅が好きだ」


 奇遇だな、と微笑む男は、此方が凝視していても自分が泣いていることにすら気付いていないようだった。


「……俺の名は、桜丘驟雨という。また逢おう、霖雨」


 何事も無かったかのように踵を返し、颯爽と歩いて行くその背は真っ直ぐだ。小さくなっていく黒い背中が公園から消え、まるで金縛りから漸く解放されたかのように体が揺らいだ。恐怖とも違う、緊張とも違う奇妙な感覚。あの男を知っているような気がした。
 相変わらず、此方の様子など気付きもせず談笑を続ける二人の女性と、砂を弄る二人の子ども。急に現実に引き戻されたその感覚はやはり、夢でも見ていたようだ。
 桜丘驟雨。耳に馴染むその名前を聞いたことがある。あの強い目を見たことがある。名乗ってもいない自分の名を、親しげに呼ぶ驟雨とは、近い内に何処かで逢うような気がした。まるで散り行く桜のような、花弁を散らす微風のような、今にも消えてしまいそうに儚さなのに、決して揺るがない一つの大樹のような男だった。
 その時、ポケットに突っ込んだ携帯が羽虫のような音を立てて震えた。着信。取り出した携帯を開くと、ディスプレイに柊メンタルクリニックの電話番号が表示されていた。病院から連絡をして来ることなど今まで一度も無かった。何事だろうかと電話に出ると、聞き慣れた柊医師の穏やかな声がした。


『霖雨君、今すぐ、来られるかい?』


 平日の、日も傾き始めたばかりのこの時間は、普通なら学校にいるだろう。柊医師にそれが解らない筈が無い。


『大切な話があるんだ。今すぐ、来てくれないか?』
「大切な話?」


 不審に思っているのは伝わっただろうか。声を低めて問い掛けたその言葉は、電話の向こうにいる柊医師を苦笑させた。


『ああ。緊急の話なんだ』
「……解りました、向かいます」


 夕方からのバイトにはまだ時間がある。通話を切断し、時刻を確認する。病院から真っ直ぐ出勤すれば十分に間に合うだろう。ポケットには財布と携帯電話と家の鍵。他に必要な持ち物は何も無いのだ。
 行き慣れたいつもの道程を、履き慣れたスニーカーで踏み締める。あと何回この道を通るのだろうか。何時になったら終わるのだろうか。
 憂鬱な気持ちのまま駅へ向かう。携帯には未だに林檎からの連絡は無い。脳裏を過るのは酷く嗄れたあの声と、親しげに自分の名を呼ぶ驟雨という男の顔。自然と歩調は速くなり、駅は既に目前だった。

 柊メンタルクリニックの看板は消えていた。奇妙なマスコットは今日も変わらず薄笑いを浮かべて小首を傾げている。青地の看板に白い文字が、定休日であることを知らせていた。曇り硝子の扉の向こうは暗く、ドアノブにも定休日を知らせる札が下がっていた。
 夢でも見たような心地で携帯電話を確認するが、やはり、先程の着信は嘘ではない。
 恐る恐る扉に手を伸ばし、力を籠めれば呆気なく開いた。院内は暗いけれど、診察室まで続く廊下には、導くように光が灯されていた。
 玄関でスリッパに履き替え、無人の受付を通過する。ベージュの薄い扉の向こうから、紙を捲る微かな音がしていた。


「……失礼します」


 ノックもせず、返答も待たずに扉を開ける。触れたドアノブの冷たさが、奇妙な程に現実感を与える。
 声が響く。開けてはならない。鼓動が早まる。眩暈がする。


「いらっしゃい、霖雨君」


 黒縁眼鏡の奥で、目が細められていた。笑っているのだ。
 軽く会釈していつもの患者用の椅子に座ろうと、後ろ手に扉を閉める。ドアノブが冷たい。
 声がする。開けてはならない。如何して。この声は嗄れ声なんかじゃない。若い男の声だ。春の新緑を思わせず鮮やかで優しく、けれど力強い声。俺はこの声を知っている。


「大切な話があるんだ」


 柊医師の声も、笑顔も酷く穏やかだ。それなのに、やけに鼓動が早い。肘置きに手を当て、ゆっくりと柊医師が立ち上がる。軋むような音がした。
 後ろ手に握り締めたドアノブを離せない。いつものように椅子に座ろうと思うのに、体が動かない。男の声がする。凛と響くその声が知らせるのは、警告だ。開けてはならない。


「……な」


 声は掠れた。喉がからからに乾いて、上手く声が出せない。ドアノブを捻ろうとして、掌にびっしょりと汗を掻いていることに気付いた。


「来るな……」
「霖雨君?」


 怖い。此処にいてはいけない。逃げろ。――何処に?
 何処にも居場所なんかない。何処に行けばいい。何から逃げろというのだ。解らない。解らないことが、何よりも怖い。視界が歪む。銀色の砂嵐。


「――俺達に、関わるな」


 ホワイトアウトしていく視界、ノイズ交じりにあの声がした。
 強く優しく、決して揺るがない凛とした声。俺はこの声を、知っている。
 歪む視界に柊医師の笑みの消えた顔が映る。眼鏡の奥には驚愕がありありと浮かぶ。


「君は、誰だ?」


 質問が理解出来ない。俺は常盤霖雨。それ以外の誰でもない筈なのに、柊医師はまるで信じられないものを見るかのような目で此方を見ている。
 ドアノブを握っていた掌がゆっくりと離れ、俯いていた顔が上がる。自分でありながら自分ではない誰かが体を動かしている。冷や汗が引いて、鼓動が穏やかなリズムを刻む。得体の知れない何かが腹を食い破って出て来るような気味の悪い想像が脳を占拠する。けれど、そのとき。
 静寂を切り裂くように電子音が響いた。途端に視界は明瞭になり、鼓膜を叩いていた騒音は消えた。


「あ……」


 まるで夢でも見ていたかのような心地でポケットから携帯を取り出す。サブディスプレイの表示は着信。それは、待ち続けた林檎からの着信だった。
 現実感を帯びないまま、目の前の柊医師の存在も忘れて電話に出ると、先程までとは違う確かなノイズの中に、微かな息遣いが聞こえた。


「――林檎?」


 スピーカーの向こうで、息を呑むような音。既に日は落ちている。今すぐにでもバイトへ向かわなければ遅刻してしまう。けれど、何の声も発さない林檎に違和感と危機感を覚え、ただ彼女の言葉を待つ。
 林檎の、声がした。


『助けて』


 嗚咽を噛み殺すような、絞り出すような掠れる声。その瞬間、弾かれたように診察室を飛び出した。後ろから柊医師の声が聞こえたような気がしたけれど、足を止めることはできなかった。
 スニーカーに足を突っ込んで、スリッパも脱ぎ散らかしたまま走り出す。


「今、何処にいるんだ!」


 久しく出さなかった大声に喉が痛んだ。収まった筈の鼓動はまた警鐘のように鳴り出した。
 荒れた音声と自分の喧しい拍動で、林檎の声が聞こえない。ただ一つの繋がりを零し落とすことのないように握り締める。その小さな機械の箱に向けた全神経のせいで、赤信号のまま渡った横断歩道で軽トラックが急ブレーキを踏む。耳を劈くような高音と、荒っぽい罵声。それでも足は止められない。


「林檎!」


 声が聞こえない。それなのに、この携帯の向こうで林檎が泣いているような気がした。いつだって笑顔を絶やさなかったただ一人の友達が、何かを堪えるように震えている。
 駅が目の前に迫る。帰宅途中の学生の群れを避けながら、改札にPASMOを押し付ける。携帯から聞き慣れたチャイムが聞こえた。授業の終了を告げる鐘の音。危機感を齎す踏切の音。それから、微かな男の苛立った声。


(――学校)


 そこでぷつりと通話は途絶えた。幾ら呼び掛けても、掛け直しても二度と林檎の元には繋がらない。
 滑り込むようにホームへ入って来た急行電車に乗り込み、日が落ちて暗くなった車窓を焦燥感混じりに睨む。学校の最寄駅まではすぐだ。
 林檎のあの声を思い出して固く目を閉ざす。今朝、何の連絡も無かったあのときに気付くべきだった。いや、気付かなければならなかったんだ。林檎は約束をすっぽかすような奴じゃない。やはり、何かあったんだ。


(林檎……)


 焦燥感が背を焼く。
 鏡のような窓硝子に映る自分を睨みながら、たった一人の友達の顔を思い出そうとした。栗色のショートカットを風に揺らしながら、澄んだ真っ直ぐな眼差しで背筋を伸ばして歩いて行く。振り返ると短いスカートが翻った。此方を見て何かを言う彼女の口元。
 耳に優しく馴染むあの声が蘇る。


――友達になろうよ


 親戚中を盥回しにされながら両親の遺産を食い荒らされ、精神病患者というレッテルを貼られ友達は皆離れて行ったあの頃。独りきりで生きてやると誓ってこの地に来た。もう誰も信じない、友達も仲間もいらない。そう言い聞かせて、思い込もうとしていた。強くなるんだと自棄になったように何度も何度も心の中で繰り返した。でも、本当は解っていた。独りきりで生きていける程に強くなんてないことも知っていた。だから、あの時、林檎がそう言ってくれたことが何よりも嬉しかったんだ。
 俺は本当は、友達が欲しかったから。
 やがて目的地に電車が停まると、弾丸のようにホームを飛び出す。学校までの道程を脇目も振らず駆け抜ける。下校途中の生徒が訝しげに此方を見ているけれど、それでも通学路を疾走した。
 校門は、既に閉まっていた。職員室の明かりだけが灯っている。グラウンドは昼間の騒がしさなど嘘のように沈黙し、不気味さを醸し出していた。学校の七不思議と呼ばれる怪談が全国に広まる筈だと、その気味の悪さを思いながら校門を攀じ登った。
 何処に行けばいいのだろう。それでも立ち往生していることも出来ず、無我夢中で走り出す。職員室を避けてグラウンドを大回りに校舎裏へ。敷き詰められた砂利が撥ねる。そのとき、再び携帯が鳴った。
 慌てて取り出すと、今度はバイト先からだった。出勤時間は過ぎている。無遅刻無欠勤を褒められて来たけれど、それで本当に大切なものを失ってしまうなら何の意味も無いのだ。
 人影の無い校舎裏で、膝に手を突いて呼吸を整える。口の中に血の味が広がり、喉が渇いて張り付く。立ち止まっている時間なんて無いのに、膝ががくがくと震えて歩き出せない。


「――こ、のッ」


 膝を殴り付ける。嘲笑うように震える足が、太鼓のような拍動が、顎から滴り落ちる汗の滴が、己の弱さを嫌という程思い知らせる。


「動けよ、俺の足だろ!」


 自分の中にもう一人の人間がいる。それなら、頼むから、林檎を助けて。
 職員室の灯りも落ちた。学校は無人になる。本当に此処に林檎がいるのかも解らない。


「動けぇ……!」


 祈るように、絞り出すように拳を握る。崩れ落ちるように膝が折れた。砂利の上に突いた足に鈍痛が走る。
 汗なのか、涙なのか、滴が頬を伝った。街灯が眩く輝いている。スニーカーが赤く染まっていた。碌に靴紐も結ばなかったせいで靴擦れしたのだろう。零れ落ちた血液が砂利を染める。
 そのとき、一つの影が正面の光を遮った。


「よう、霖雨」


 顔を上げると、見慣れた学ランの男子生徒が立っていた。光源を背負った少年の顔は見えないけれど、聞き覚えのある声にその正体を悟った。


「驟雨……?」


 ゆっくりと歩み寄る驟雨が、穏やかに微笑んでいた。昼間に見たあの黒い着流しではない、この学校の生徒であることを証明する制服で此方へ向かって来る。
 此方の事情など、微塵も知らない驟雨が呑気に微笑む。そんな驟雨に何かを言おうとしたとき、優しい掌が頭を撫でた。


「何かあったのか?」


 その瞬間、鉛のようだった足がふっと軽くなり、痛みが遠退いた。
 明瞭になっていく視界に驟雨の真剣な眼差しが映る。そこで、弾かれたように口を開いた。


「林檎が――!」
「林檎?」


 何のことか解らないだろう。驟雨が首を傾げる。


「林檎を、助けに行くんだ……」


 絞り出したような掠れ声でそう告げると、諭すような優しい声で驟雨が問い掛ける。


「林檎ってのは、お前の友達か?」


 頷くと、驟雨は眉間に皺を寄せ少し考え込むような素振りをして、黙った。そして、何かを躊躇うような口ぶりで重々しく、此方を気遣うように言った。


「また、裏切られるかも知れないのに?」


 その言葉に、胸が軋むように痛んだ。
 驟雨が知っている筈が無い。それなのに、驟雨の言葉は確信めいて、真っ直ぐに核心を突いて来る。


「友達なんて思っているのは、お前だけじゃないのか。利用されてるんじゃないのか。嘘なんじゃないか」
「如何して」
「俺は」


 膝を突いて目線を合わせると、驟雨はじっと此方を見て言った。


「俺は、お前が傷付くことが何より嫌なんだ」


 驟雨こそがまるで傷付いているかのように、出血する足首を撫でる。初めて会った時もそうだったが、この男はまるで昔から自分を知っているかのように振る舞う。それに対して快も不快も感じない自分もまた、彼と遠い昔に逢ったことがあるのかもしれない。
 確かに、昔の自分なら知らん顔をしただろう。俺だって傷付きたくて生きてる訳じゃない。友達なんて言葉は安っぽくて薄っぺらい。何の確証も無く人を信じることなんてしたくない。そう思っていたけれど。


――友達になろうよ


 林檎のあの言葉を疑いたくない。
 汗ばんだ拳をぎゅっと握り締めて、振り絞るように叫んでいた。


「裏切られることを怖がってたら、本当の友達なんてできない!」


 俺はずっと、友達が欲しかったから。
 驟雨は身動き一つしないで、ただ目を丸くした。それが予想外の動きだとでもいうように目を真ん丸にしたかと思うと、何かを考え込むように目を閉ざし、俯いた。そして、そっと闇の向こうを指差した。


「……体育館裏で、声がしていた。急いだ方がいい」
「――ありがとう」


 砂利に手を突いて勢いよく起き上る。冷えた夜風が頬を撫でた。
 驟雨を追い越すように、彼が指す闇の中に向かって飛び込んでいく。振り返ることもしない驟雨が何を思ったかなんて解らないけれど、それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。





2011.3.27