03.干天の慈雨
一寸先は闇。その言葉がぴったりだと思った。
明かり一つ無い体育館裏は、観賞用に植えられた躑躅に混じって名も知らぬ雑草が青々と茂っていた。露出した土は湿気を帯びて滑っている。バイクの改造されたマフラーが遠くで唸っている。寂れた踏切は休む間もなく働いているようだ。
その中で、声がする。何かを罵倒するような乱暴な口調と、助けを求める少女の声。
「――いい加減、大人しくしろ」
「諦めろよな」
俺は何時だって、こういうトラブルから逃げて来た。巻き込まれたら、目を閉じて耳を塞いで蹲って通り過ぎるのを待っていた。傷付くのも傷付けるのも嫌だったから。でも、その中で、悲鳴のような大切な友達の声がするから。
「誰か、助けて」
口元を押さえ付けられているのだろうか。くぐもった声がする。
荒くなる呼吸を整えることもままならないまま、胸の中に確かに存在する思いのままに叫んだ。
「林檎!」
途端に、周囲は水を打ったように静かになった。
湿った土を踏み締めて更なる闇の中へ突っ込んだ。外灯一つ無い筈の体育館裏に無数の灯りが見えた。懐中電灯の白い光と、オレンジ色の煙草の火。それらに照らされるのは、大切な友達の姿だった。
「林檎!」
闇の中に蠢く男が五人。押さえ付けられた林檎に衣服が乱れている。拘束された手首が頭の上で押さえられ、両足をそれぞれ別の男が無粋に掴んでいた。これだけで、此処で何が行われようとしているのか誰だって解るだろう。
驚いたような男達の口元でオレンジ色の火が揺れる。白い光に照らされた林檎の顔は、何時もの堂々とした笑みではなく恐怖に歪んでいる。
「あれ、霖雨じゃん」
傍でしゃがみ込んでいた金髪の男が笑った。見覚えがあった。
昨日、教室で女を紹介して欲しいと脅迫まがいのことを言って来た男だ。よくよく見ればあのときに顔を見せた面々が揃っている。
「お前等ァ! 林檎から離れろ!」
我武者羅に突っ込もうとして、傍で煙草を吸っていた男の足が視界に映った。
擦り切れたローファーが勢いよく腹を蹴り上げる。避けることもできず、そのまま後ろに背中から倒れ込むと衝撃に呼吸が一瞬止まる。続けざまにもう一人の男のつま先が胸を打った。
湿った地面を体が滑り、緑色の金網に衝突して漸く停止する。噎せ返ると喉の奥から鉄の味がした。
「何しに来たの?」
解っているだろう金髪の男が、笑みを崩さないまま問い掛けた。
鈍痛の襲う腹を押さえながら起き上る。
「林檎を、離せぇ……」
拳を握り締めて、咳き込みながら男達を睨んだ。嘲笑う男達がまるで木々のざわめきのように揺れる。
「お前この娘の何なの? 彼氏?」
「友達、だ」
答えれば笑う。何が可笑しい、何が面白い。笑いながらまるで空き缶でも蹴飛ばすかのように足を振り切る。その度に蹴り上げられた腹から熱い血液が込み上げた。
それが何かも最早判別できない黒い塊が腹部を、腕を襲う。えずけば男達が笑う。立ち上がることが出来ない。
「霖雨!」
悲鳴にも似た林檎の声がする。その度に消えてしまいそうな意識を奮い立たせる。
林檎を助けたい。助けたいのに。
「うっ!」
腹を蹴り上げられ、腕を踏み付けられ、地面に縫い止められて嘲笑われる。
立ち上がらなければ。俺は林檎を助けに来たんだ。そう思うのに、動けない。立ち上がれない。
「お終いか、霖雨!」
「呆気ねぇな」
げらげらと汚らしく笑う男達の声が響く。銀色の砂嵐。
呆気ないと背中を向けて行く男達が何処に向かうのか解るから、此処で寝ている訳にはいかなかった。
「……止めろ……」
地震でも起こっているのかと思う程に視界が揺れている。貧血なのか酸欠なのか、眩暈と共に脳内で鈍痛が響く。
だけど、それでも。
「林檎を離せぇ……」
俺は林檎を、友達を助けに来たんだ。
視界が歪む。耳鳴りがする。それでも、立ち止まれない。
不快に響いていた笑い声が止んだ。金髪の男が無表情のまま目の前まで歩み寄って、影を落とす。そして、拳を振り上げた。
肉を打つ鈍い音。立つことがやっとだった体は呆気なく倒れた。それでも、土を握り締めて起き上る。
「しつこい野郎だな」
無表情ではない。汚いものでも見るような蔑む目で、男はまた拳を振り上げた。
拳を見ることもできなかった。金網に衝突し、ずるずると倒れ込む。笑うことも止めた男達の白い目が、親戚中を盥回しにされた頃を思い出させた。何も知らない癖に、何もわからない癖に、当たり前のような顔で嘲笑う。
誰も助けてくれなかった。誰も守ってくれなかった。だから、俺は思ったんだ。独りきりで生きてやろうって。そして、こんな思いをするのは俺一人で十分だって思ったんだ。助けを求める人がいたら、それがどんな人間だろうと必ず助けてやると誓ったんだ。
今、目の前にいるのに。大切な人が助けを求めてるのに、如何してこの手は届かない。如何してこの足は立ち上がれない。
血塗れの手を伸ばそうとするけれど、指一本動かすことができなかった。
男が言った。
「馬鹿な野郎だな。始めから適当な女、連れて来ればお前もこの女も、こんな目に遭わずに済んだのによ」
「……そんなこと、できない」
「あ?」
「嫌な思いをさせると解っているのに、連れて行くことなんてできない……!」
男がくつりと笑った。
力を振り絞ってゆっくりと、ゆっくりと立ち上がると驚いたように後ろの男達がざわめいた。金髪の男が無表情に見て、歪んだ笑みを見せた。
「とんだ御人好しだな。……いいぜ、ゲームをしよう」
意地悪く喉で笑いながら、男が言った。
「俺の一発を受けて立ち上がったら、この女を解放してやるよ」
「……本当だな、約束しろよ」
「ああ」
わざとらしく両手を上げて笑う。一発堪えれば、林檎を助けられる。小さく息を吸い込んで頷く。男が一層深く笑った。
けれど、男が傍に置いていた長い獲物をずるりと持ち上げた。それが振り上げられる。木刀だ。
「素手とは、誰も言ってないぜ」
嘲笑うように男がそれを振り下ろした。
首筋に振り落とされた瞬間、脳幹が痺れたかのように真っ白になった。鈍い音、熱が体中を駆け巡る。目の前に地面が迫った。早々に木刀を捨てた男が背中を向ける。
地面に転がった木刀が空しく鳴った。けれど。
「――待てよ」
泥塗れのスニーカーで地面を踏み締めて、血が滲む程拳を握って、それでも倒れる訳にはいかない。
それが痛みなのかも解らない熱が首筋を支配する。出血しているのかも知れない。死ぬのだろうか。でも、それでもよかった。林檎が助かるなら。
「お前」
忌々しげに顔を歪ませて、金髪の男が足を振り上げた。
鳩尾を襲う蹴りと共に金網に衝突し、そのまま俯せに倒れた。もう、起き上ることができない。
「あんな約束、守る訳ねぇだろ」
男が言った。だけど、もう考えることもできない。視界が急激に狭まっていく。
欲しい。逞しい腕が、力強い脚が、大切なものを守れる力が欲しい。
血を吐くような叫びの中で、あの凛と響く青年の声が耳の中で木霊する。開けてはならない。そう警告するけれど、友達を守る力が得られるのなら、どんな扉だって開いてやる。どんな力だって、必要なときに閊えないんじゃ何の意味もないじゃないか。
けれど、そのとき。
指一本動かすことのできない血塗れの掌を、誰かがそっと握った。
「よく頑張ったな」
その声を聞いたとき、正体を悟ると同時に胸の中に安心感が広がった。
痩躯に見合わぬごつごつした掌が頭を撫でる。
「……驟雨?」
「ん、助けに来た。体制変えるぞ、せーの」
掛け声と共に、動かない体を起こしてくれる。殴られた首筋が拍動のように脈打っていた。
驟雨はどよめく男達を一瞥すると、傍に落ちていた木刀を拾い上げた。
「派手にやってくれたな」
「……なんだよ、お前」
苛立ったように、後ろで笑っていただけの男がガニ股で歩み寄る。ポケットから取り出した銀色のナイフが毒々しく光っていた。
だが、次の瞬間。男の体が空中で一回転した。そのまま稲妻のように地面に叩き付けられる。吐き出した血反吐と共に沈黙した。誰もが目を疑った。
「な、何しやがる!」
同様にナイフをこれ見よがしに見せ付ける男が、驟雨に向かって足を踏み出すと同時に地面に叩き付けられた。眉一つ動かさない驟雨の手には一本の木刀。
後ずさる男の一人が、驚きを隠せぬまま指を突き付けて叫んだ。
「お前、驟雨だな!?」
驟雨は無表情だ。動けないまま、精巧に作られた人形のような横顔をじっと見つめることしかできなかった。
「驟雨って、あの桜丘驟雨か?」
「なんでこんなところに!?」
恐怖に戦き後ずさる男達を尻目に瞠目することしか出来なかった。驟雨と出会ったのは今日が初めてなのに、如何してか初めて会った気がしなかった。初対面で突然泣いたり、出会って間もない筈の俺の身を案じてくれたり、奇妙な男だと思っていた。
桜丘驟雨。不良ですら逃げ出そうとするこの男は、一体何者だろう。
「お前があの、血の霧雨と呼ばれる桜丘驟雨か……」
何か合点行ったような顔つきで、金髪の男が笑った。
「家は江戸時代から続く剣術道場。入学式早々、駅前で絡んで来た三人の他校の男子生徒を素手で薙ぎ倒し、応援に駆け付けた十七名も病院送りにした。その男の周りは常に血が霧のように舞っていたという。そうか、お前が……」
「御託はいいんだよ。俺は今、ムカついてるんだ」
酷く苛立ったように、血塗れになった木刀を手で弄びながら驟雨は言った。ぐるりと一回転させ、静かに構えるそれは素人目にも解る程、精練された玄人の手付きだ。
驟雨の目は真剣だった。闇に沈む中で、双眸だけが光を反射して猫のように光っている。
「お前は俺の一番大事なものを傷付けた。絶対に許さねぇ」
大事なもの。その言葉が理解出来ない。此処に、驟雨にとってこんなにも怒りを露わにさせるものがあるとは思えない。けれど、先刻より繰り返される驟雨の言葉を思い出せば、理解出来ないままにも、その大事なものが何なのか解った。
――俺は、お前が傷付くことが何より嫌なんだよ
驟雨はそう言った。
俺に家族はいない。友達だと胸を張れるのは林檎くらいだ。けれど、逢ったばかりの自分にまるで当たり前のように、他の誰でもなくお前が大切なのだと言ってくれる。この男は一体何なのだろう。
足音も無く一歩踏み出した驟雨の後ろ姿がぶれて見えた。金髪の男が懐からナイフを取り出しても怯む様子も無い。
鋭い風切音の中で、驟雨は最低限の動きでそれを避けていく。そして、次の瞬間。
骨を砕くような鈍い音が響いた。
「がっ……!?」
男の体がぐらりと揺れる。ゆっくりと膝を着き、俯せに倒れ込んだ後は微動だにしない。
勝負は一瞬で決したのだ。俺の目にも映らない刹那の瞬間に。
崩れ落ちて動かないその姿に、怯えた男達が敗走する。砂利を蹴り飛ばすように、転がるように闇の中に消えていく。金髪の男もまた、引き摺られ見えなくなった。その瞬間、体中に圧し掛かっていた重石のような緊張感は空気に霧散した。
驟雨は血塗れの木刀を投げ捨て、すぐさま振り向いた。その向こうから手首を拘束されたまま、衣服の乱れも忘れたように林檎が駆け寄る。けれど、其処で俺の意識は消えた。
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