臨時のボーナスが入った。
その金額は、香坂晋作がこれまで頂戴したどんな賞与よりも大きく、僅かばかりの貯金とは一桁も二桁も違う大金だった。
始めは何の冗談かと思ったし、何かの間違いだと思った。けれど、あえて報告する必要もないかと黙っていると、その日の内に部長直々の呼び出しが掛かったのだった。
香坂晋作は、警視庁刑事部特殊犯捜査班第四係に勤める一介の刑事だ。この特殊犯捜査班とは人質立て篭もり事件や誘拐事件、業務上過失致死、企業恐喝などを担当する部署だが、中でも第四係は所謂怪奇事件などを扱い、秘匿性が必要とされ、捜査班も極少人数である。その部署に所属している意味を考えれば一介の刑事と称するには聊か簡略化され過ぎるが、香坂にとっては他の部署とそう変わらないのだ。
だが、通帳に記帳されたこの見たことも無い驚愕の金額を見ると、どうも嫌な予感がする。配属されて五年のキャリアを積んだが、他の捜査員に比べればまだまだひよっこだろう自分が如何して、警視庁刑事部の部長に呼び出され、果ては二人で警視総監の御前まで赴かなければならないというのか。
初めて入室すつ警視総監執務室は一目で高価と解る机や棚が定規でも使って図ったかのように配置されている。香坂の存在を認めると、警視総監は素早く取り巻きの男に目配せし、人払いをした。
嗚呼、嫌な予感。
「香坂君」
名前を呼ばれ、背筋が伸びるどころか香坂は肩に重石が乗ったかのように猫背になっている。隣の部長が小さな声で叱責するが、最早聞く気にもなれない。
何か仕事上の不手際でもあっただろうか。だが、わざわざ警視総監が呼び出して懲戒免職にする理由もあるまい。彼是と考えていると、初老の警視総監は人の良さそうな微笑みをうっとりと浮かべた。警視庁のトップとは思えない柔和さを、香坂は常々怪しいとは思っていたのだ。白髪混じりの短髪だが不衛生さは一切感じさせず、優しげな相貌と穏やかに響く声。その思考を読み取らせない眼鏡の奥の細められた瞳を訝しげにじっと見詰めると、警視総監は静かに言った。
「君に頼みがあるんだよ」
「俺に、ですか?」
どんな重要任務だというのだろうか。確かに香坂はこれまで、世間に出回ってはならない数々の情報を握り、或いは消し去って来た。時には命の危険が付き纏ったけれど、これまで警視総監が直々に話をしたことは一度だって無かった。
目の前の男の口からどんな危険任務が出て来ようと、決して驚くまいと覚悟を決めた香坂に言い放たれたのは、予想もしない言葉だった。
「ある青年と、生活して欲しいんだ」
「――へっ?」
素っ頓狂な声を上げた香坂を、隣の部長が肘で小突いた。だが、総監は笑みを一層深いものにして続けた。
「君の口座にその為の生活費と、報酬を振り込んでおいた。やってくれるね?」
生活費にしたって、多過ぎる。現在一人暮らしをしている香坂から考えれば、一体何十年分の生活費なんだと言いたくなる程の金額だ。その異常性に嫌な予感はあったが、既に振り込んであるということは断る権利などない決定事項なのだろう。此処で断れば自分の命が危ないと悟った香坂は問い返した。
「ある青年ってのは?」
それ程の金額を積んでまで一緒に暮らせと頼む青年とは、どんな人物なのだろうか。暗殺の危険に晒されている何処かの国の皇族か、それとも、凶悪事件の重要参考人かと思ったとき、背後の扉から乾いた音がした。
静かだった室内に転がるノックの音。総監が入室を許可するとゆっくりと扉が開いた。
キィ、と軋むような音がした。現れたのは拘束衣を着た車椅子の青年と、それを押す黒いスーツの男だった。
車椅子の青年が件の人物なのだと瞬時に悟った。力無く項垂れた様子を見ると意識は無いのだろう。だが、目隠しをして、何も聞こえないように耳を封じられたその姿はこの国の憲法に刻まれる人権を明らかに侵している。仕事柄、拘束衣を見ることはあるが、実際に着用させられている姿を見るのは初めてだった。
黒スーツの男がゆっくりと車椅子を総監と香坂の間に移動させた。総監は黒スーツの男を下げさせ、再び香坂を見た。
「これが、霖雨だ」
「りん、う?」
「……」
妙な名前だと思った。まさか、本名ではあるまい。
総監はその『霖雨』を見て、目を細めた。
「名は霖雨、性別は男。身長168cm、体重50kg、血液型AB型」
「そんなプロフィールは必要ありません」
香坂は怪訝そうに眉を寄せた。
「この霖雨は、一体何処の誰ですか」
「それは君が霖雨に聞きたまえ。……霖雨には、何も解らないだろうがな」
答えになっていない。だが、つまり答える気は無いということだろう。
そんな正体不明の男と暮らせとはどういうことだろうか。そもそも、この『霖雨』という名前自体怪しい。こんな不審の塊のような任務は断ってしまいたいが、生憎、香坂はその術を持たなかった。
「……解りました、受けましょう」
「君ならばそう答えると思っていたよ」
にっこりと笑った総監を苦々しげに香坂は見た。この状況で断れる程に神経の太い人間が、この第四係にいるものか。そう言ってやりたい衝動を抑え込み、香坂は静かに寝息を立てる霖雨の後ろに回った。
酷く細い男だと思った。顔の造作は、目隠しに猿轡をさせられているが整っていることは解る。一体何を仕出かしたか知らないが、実に哀れだと思う。
とにかく、この男を自宅に連れ帰るかと考えたとき、思い出したように総監が言った。
「ああ、そうだ。君達の住居はもう手配してあるよ」
傍に立っていた黒スーツの男が、懐から一枚の紙を取り出し、押し付けるようにして渡した。酷く簡略化された地図だったが、其処に記入されている地名に眩暈がした。ギリギリ首都圏だが、深い山々に囲まれたド田舎だ。生まれも育ちもこの東京という都会育ちである香坂には考えられない事態だ。
送ろうという申し出も断ってしまいたかったが、その住居までこの状態の霖雨を新幹線に乗せ、山道を歩く自信は無かった。忌々しいとは思いながらも笑顔で有り難く申し出を受け、霖雨をその場に残し、歩き始めた香坂の表情は氷のように冷たかった。
静かに後を追って来た黒スーツと、慌てた部長が部屋を出ると扉は全てを拒絶するかのように固く閉じられた。背後で聞こえた扉の閉じる音と共に、香坂は舌打ちをする。
無人の廊下を歩く二人は無言だったが、エレベータを待つ香坂の背中に部長は人事のように暢気に言った。
「これから通勤も大変だな」
香坂は振り返り、冗談だろうと思った。こんなド田舎から通勤して来いというのか。
けれど、有無も言わせぬ笑顔で頷く部長に、香坂は既に隠す気も無い盛大な舌打ちをし、悪態吐いた。
Act.1 First contact
その日の夕方、宅配便宜しく霖雨が自宅に届いた。
今にも降り出しそうな曇天の下、やる気が起こらないと言って勝手に仕事を切り上げて帰って来て間もない時間だ。香坂の思考が読まれていたのか、元々そういう予定だったのか。TVドアホンに映った三人の男の姿に、もう少し仕事をしてくればよかったと心にもないことを思う。居留守はもう使えないと、観念してドアを開ければ、総監執務室で見た一様に黒スーツを着込んだ男二人に連行される霖雨がいた。相変わらず目隠し、猿轡、両手は後ろで縛られているらしく身動き一つしない。他人が見たら驚くだろうなと呆れていると、男達は遠慮無しに霖雨を香坂の方へと押し遣った。人を人とも思わぬ扱いに香坂は眉を寄せる。
「……あんた等さ」
挨拶も無く背を向け帰ろうとする二人を呼び止め、香坂は溜息混じりに言った。
「日本国憲法の第11条、知ってる?」
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。……それが?」
平然と答える黒スーツの男に眩暈がした。それが? などと聞き返さなければ理解できない質問を自分はしただろうか。踵を返して廊下の曲がり角に消えた二人に舌打ちし、玄関先で突っ立ったままの不審者になってしまっている霖雨の腕を引いた。
耳は聞こえているのだろうが、この遣り取りに何の反応も返さない霖雨を不気味に思いつつ、靴を脱がせるとリビングへ連れて行く。先程見たような拘束衣ではなく、初夏だというのに長袖のシャツと色褪せたジーンズを着用している。目隠しに猿轡とはいえ、酷く顔は整っていると解る。とにかく、その拘束を解いてやろうとして、暫し考え込む。
猿轡ということは、舌を噛む恐れがあるのだろうか。ならばと目隠しに手を伸ばすが、躊躇する。暫く考え込んだところで、香坂は息を吐いた。
(目からビームとか、やめてくれよ?)
まるでSFのような想像をしながら、結局両方外すことにした。そして現れた顔を見て、香坂は目を見開いた。
最初に思ったのは、こんな人間がいるのかということだ。造作が整っているとか、日本人離れしているとか、そういう次元ではないのだ。不健康に白い肌と対照的に漆黒の瞳。すっと通った鼻筋に、紅を刷いたような薄い唇。中性的な顔立ちは何処か幼く、何処か消えてしまいそうな儚さを感じさせた。男に対して美しいと感じたのは、生まれて初めてだった。
動きを止めた香坂を見て、長い睫が震えるように数度瞬いた。猫のような所謂アーモンドアイに感情の変化は映り込まないけれど、香坂は溜息混じりに言った。
「……話は聞いてると思うが、俺は香坂晋作」
「……」
「お前は霖雨、だろ」
こくりと頷く霖雨に違和感を覚えて、香坂は問い掛けた。
「お前、喋れねぇの?」
だが、霖雨は首を振った。
「喋れ、ます」
「……なら、喋れよ。首振り人形じゃあるめぇし」
きょとんと目を丸くした霖雨に、何だか居た堪れなくなって香坂は其処を離れた。突っ立ったままの霖雨にソファへ座れば、と声を掛ければその通り腰を下ろす。妙な同居人が増えたと頭を掻きながら、夕食の用意をするためにキッチンへ向かった。
カウンターキッチンから見えるのは霖雨の後頭部だ。窓の向こうに目を向けたまま何かをじっと見詰めているが、そこには曇天しかない。
冷蔵庫の在りあわせの材料で何を作ろうかと、若干萎びた大根を取り出して俎板に置いた。
「おい、霖雨」
低く呼べば、霖雨が振り返る。大根を刻みながら、問い掛けた。
「お前、何者?」
それはきっと全ての核心に迫る質問だ。総監も自分で霖雨に聞けと言っていたが、霖雨自身にも解らないだろうとも言っていた。だが、正体不明というだけでこんな扱いを受けるとは思えない。
霖雨はじっと此方を見詰めたまま、口を開こうとはしなかった。
「何でこんな扱い受けてんの? 家族は?」
「……」
全ての質問を聞きながら、霖雨は答えようとしない。香坂は頭の奥がチリチリと焦げていくような感覚を味わった。
「質問に答えろよ、霖雨」
足音も無く、カウンターの向こう側から一瞬で霖雨の目の前に移動する。首筋にぴたりと当てた包丁は本物だ。数瞬前まで切り刻んでいた大根の葉が生々しく張り付いていた。
香坂は凍えるような無表情でじっと霖雨を見詰めるが、その冷たい視線が逸らされることは一切無かった。見詰め返す霖雨の感情は全く解らない。恐怖の憤怒も悲哀も憎悪も何も無い。酷く整った相貌が、よりその人形のような印象を際立たせる。不気味だと、思った。
答える素振りも見せないその傲慢な態度に苛立ち、元々長くもない堪忍袋の尾が解れているようだ。香坂の口調も自然と荒くなる。
「てめぇ、何様だ。目の前に警官がいて、刃物突き付けられて、てめぇは身動き一つできない。それでも、俺の質問は丸無視か?」
笑みとはその美しい相貌に貼り付けられた表情筋の動きであり、感情の一切が伴わぬ一つの動作でしかなかった。それはつまり、霖雨は欠片も笑ってなどいなかったということだ。
数秒の沈黙が流れ、外の鳥の声がした。何だか馬鹿らしくなり、香坂は突き付けていた包丁を下ろした。縛られた腕を解放してやり、奇妙な形に固定されていた霖雨の腕は下ろされた。溜息混じりに再びキッチンに戻ろうと歩き出す。窓の向こうは鉛色の雲間から紅い夕陽が差し込み、やがて訪れる夜の闇を教えているようだった。そして、何の気なしに霖雨を振り返り、香坂は動きを止めた。
白い頬を伝う、一筋の雫――。
反射的に窓の向こうを見るが、そこにあるのは何の変哲もない夕焼けと寝床へ帰る数羽の烏。それでも、霖雨は呆然とその窓に嵌め込まれた景色を見詰め、自身が泣いていることにすら気付かぬように、取り憑かれたかのように動かない。
理由は、問わなかった。
香坂は面倒臭そうに頭を掻きながら、またキッチンへと歩み出す。鍋は既に噴出しそうな程、熱されていた。
酷く簡素で、酷く質素な夕食が歓声した。暫く買い物にも出ていない香坂の自宅の冷蔵庫に大したものがあるわけも無く、大根の味噌汁と、白米と、冷凍食品の回鍋肉が大皿に盛られて一つ。窓の外に釘付けになった霖雨の前のローテーブルに割り箸を置いた。
冷凍食品の科学的な匂いに気付いたのか、漸く霖雨は食卓を見た。香坂は愛用のプラスチックの箸を左手に、右手に御飯茶碗を持った。
「――食えよ」
冷たく言い、香坂は早々に食事を始める。霖雨は少し戸惑ったが、遠慮がちに手前に置かれた割り箸を取って手を合わせた。
沈黙の食卓に耐えられず、香坂はテレビを点けた。夕方の大して面白くもないバラエティからニュースへとチャンネルを替え、そっと横目に霖雨を見た。
酷く覚束無い手で、箸を握っている。所謂握り箸だ。白米を口に運ぼうとするが何度も落としてしまう。ニュースを聞き流しながら霖雨の様子を観察し、この箸の使い方からしても日本人ではないのかも知れないなと思った。
早々に食べ終え、さっさと霖雨に背中を向け、膝を抱えてテレビを見始めた。背後で聞こえる茶碗のぶつかる音と、緩慢な咀嚼の音を聞きながら、食事の終了を気配で感じ、香坂はすぐに食器を片付けた。普通に考えれば失礼な行為だが、霖雨のような身元不詳の居候に気を遣う必要も無いと香坂は淡々と作業をこなす。そんな香坂を、霖雨はじっと見詰めていた。
「……んだよ」
「いや……」
歯切れ悪い霖雨の口調に苛立ち、香坂は言った。
「お前、面倒臭い。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
この鈍間、と嗤ったが、霖雨は吃驚したように目を丸くして、怒る訳でもなく、怯える訳でもなく、ただ穏やかに微笑んで見せた。それに拍子抜けして、肩を落とした香坂に霖雨がそっと言った。
「ありがと、う」
霖雨が何を言っているのか解らず、追及しようかとも思ったが、既に視線を暗くなった窓の外に移してしまっていたので何も言えなかった。
何に対して感謝したのだろう。夕食に対しての礼だろうか。
奇妙な男だと、心底思う。水を張った桶に食器を漬け、黙って風呂へ向かった。
風呂から上がっても、霖雨は食後と一切変わらぬ姿勢で其処にいた。そのままソファを占拠されても邪魔なので、香坂は言った。
「風呂、入れば?」
すると、漆黒の霖雨の瞳が香坂を捉えた。
「ふ、ろ?」
まるで、その単語自体が解らないとでもいうような霖雨にまたも、香坂は呆れた。
「風呂だよ、風呂。風呂も入らず、ずっと其処にいるつもりか?」
「入る、のか?」
「はあ?」
面倒臭そうに香坂は溜息を零す。相手への遠慮など、香坂には一欠けらも存在しなかった。
「いいって言ってんだろ。さっさとしろよ」
戸惑うような素振りをする霖雨の腕を引っ張って立たせると、膝の関節がパキリと鳴った。ずっと同じ姿勢でいたのだから当然だ。だが、それ以上に引っ張り上げたときの軽さに驚いた。
困ったように眉尻を下げる霖雨に、香坂はまたも同じ台詞を言う破目になった。
「だから、はっきり言え」
強い口調で言うと、霖雨はやはり戸惑いがちにだが、一言問うた。その質問に香坂は呆れることになる。
「……ふろって、何?」
「はあ?」
冗談を言っているようにも見えず、そんな柄でもないだろうと感じつつ、香坂は霖雨の顔をじっと見詰めた。この青年が何を言っているのか、解らない。
風呂が何か、なんて。
けれど、呆れて何かを言うよりも先に、香坂の目には今にも折れてしまいそうに細い霖雨の白い手首が映った。女のように細い手首だ。これまで長袖のシャツを着ていた為に気付かなかったが、その手首には痛々しく奇妙な色に変色した擦過傷が残っている。
「……何だ、これ」
確かに縄で縛られてはいたが、こんな奇妙な色に変色する程ではなかった筈だ。
違和感を感じるままにそのまま袖を捲り上げ、香坂は息を呑んだ。
女というよりも少女のような病的に白くて細い腕に、夥しい数の傷跡がある。切傷擦傷の類から火掻き棒や煙草でも押し付けられたかのような火傷の痕、不気味に変色した無数の痣。遺体ですらここまでの傷は見たことがない。霖雨は自分の腕を黙って見詰めている。
背中を冷たい何かが伝った。思わず霖雨をソファに押し付け、奪うようにシャツを剥ぎ取った。千切れたボタンがフローリングの床に散らばったけれど、無視した。其処にある白い上半身にまた、香坂は驚くより他無かった。腕以上に多い痣の数々に血色の悪い身体が更に悪く見える。火傷の痕は随分古いもののようだ。
香坂は低く、唸るような声で問い掛けた。
「お前、何者だ?」
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