体中に纏わり付く湿気のせいだと、思い込もうとした。
 結局、霖雨は質問には答えなかった。否、総監の言葉を借りるなら霖雨には何も解らないのだろう。器質製健忘症、所謂記憶喪失なのかとも考えたが、だからと言ってあそこまで人権を損害されていいという理由にはならない。実は凶悪犯罪者で、記憶が欠落しているが為に生かされているのだろうかとも考えた。そんな安っぽいSFは御免蒙りたいが、他に考えは浮かばなかった。
 あれだけの措置が取られるのだから、余程の罪を犯したのだろうとは思う。けれど、その決定的証拠が既にあるからこその処置なのならば、何故、刑を受けることもなく、こうして一介の刑事の元へ預けられているのだろうか。それも、目が回るような大金を積んでまで。
 余りにも色々なことがあり過ぎて、元々深く考えるのは得意ではなかったため、その日は早々に眠りに付いた。翌日からはこの住み慣れた住居を離れ、ド田舎まで引っ越す準備をしなければならない。二週間の休暇を貰ったからにはのんびりしたかったが、地図によれば近くの商店まで車で二十分。現在のコンビニまで徒歩五分という状況を考えると悪夢のようだ。
 これから始まるだろう田舎暮らしに悪夢を見て、魘され目を覚ました午前十時。寝室からリビングに入った香坂は目を疑うことになる。
 ソファには、昨夜と同じ場所・同じ姿勢のままで眠る霖雨がいた。


(……なんだ、こいつ)


 横になればいいのに、と思うが、遠慮したのだろうか。呆れながら霖雨の肩を揺すった。
 霖雨はすぐに目を覚まし、緩慢な動作で香坂を見た。妙な姿勢で眠っていたにも関わらず、霖雨はまるで何事も無かったかのように目を瞬かせた。


「お前、よくそんな姿勢で寝れるな」


 霖雨は何も答えなかった。答えようと口を開いたが、言葉として発されることはなかった。
 同じことを何度も言うのは好きではないので、香坂は何も言わずにキッチンに入った。昨晩、解凍していた食パンを四枚トースターに突っ込み、欠伸をする。


「今日は忙しいからな、気張れよ」


 元いたソファから微動だにしない霖雨を一瞥し、香坂は言った。この物臭な男を扱き使ってやろう、そのくらいは許される筈だと思いながらも、大した戦力にはなるまいと理解していた。
 朝食も早々に片付け、引越しの準備を始めると、霖雨はやはり呆然としてソファに座っていた。中々に終わり切らない梅雨の嫌な湿気が纏わり付く。


「見てないで、お前も働けよ」


 口調が荒いのはいつものことだ。けれど、この嫌な湿気と、此方が汗だくになって働こうというのに立とうともしないこの居候に苛立ったのも事実だ。霖雨はゆるゆると顔を此方に向け、きょとんとしている。


(言わなきゃ解んねぇのかよ)


 荷物をダンボールに詰めるというだけの単純作業だ。そもそも、手伝おうかという気が欠片も無いというのは人間としてどうなのだろう。
 この苛立ちも全ては湿気のせいだと思い込もうとして、香坂は霖雨に背中を向けた。こんなことなら、冷房は一番最後に片付けるべきだった。既に取り外し終えた冷房を眺め、溜息を零す。
 元々荷物が少ないということもあり、ダンボールへ詰め込むという作業は思ったよりも早く終わった。後は業者が来るのを待つだけだ。
 午後三時を回り、遅い昼食のラーメンを啜りながら、香坂は霖雨の横顔を盗み見た。
 香坂とて多弁ではないが、霖雨の完全なる黙秘は違和感を感じざるを得ない。特殊な環境に突然送られたということもあるだろうが、この超受動的な姿は聊か問題がある。此方がしてやらなければ何もしない。人の世話をするのは得意ではない、というかむしろ嫌いだ。多少自分勝手でも自分のことは自分でして欲しいと思うのは当然だと香坂は思う。
 けれど、わざわざそれを言うつもりもなかった。香坂にとって霖雨は一時的に預けられているだけの存在であり、深く関わり合いになりたいとも思えなかった。人から一時的に預かった荷物、そういう認識しかない。勿論、それで十分だと思っているし、改める気も無い。
 無言で作業をする霖雨の手は止まらないけれど、まるで初めてやったかのように要領が悪く呆れた。やはり、碌な戦力にならない。その分、香坂自身が作業を行わなければならなかったが、元々物が少ないが為に作業は予想していたよりも早く終わった。
 暑さと疲れで昼食を作る気も食べる気も起こらず、霖雨が何も言わないのをいいことに香坂はボイコットした。窓を全開にして涼みつつ、あと数十分で来るだろう引越し業者を待つ。その時、携帯が鳴った。
 見慣れた番号に溜息を零しながら、香坂は不機嫌そうに言った。


「もしもし」
『こんにちは、香坂さん』


 飄々とした青年の声に気が重くなるのを感じた。


「何の用だ、樋口」


 樋口というのは、香坂の後輩にあたる刑事であり、第四係では最年少である。見た目は爽やかだが、性格は非常に利己的で言葉は辛辣だ。情報収集を重要視されるこの職場だが、必要な情報を必要なだけ収集する香坂に比べ、必要の無い情報まで調べ尽くす樋口というこの男は、仕事とは関係無く情報収集が好きなのだろう。仕事はできるがプライベートではできるだけ関わりたくない。にも拘らず、樋口は香坂に何かとちょっかいを掛けて来るのだ。


『聞きましたよ、香坂さん』
「何を?」
『惚けても無駄です。二週間の休暇なんて、羨ましい限りですね』


 その分の皺寄せはきっと殆ど樋口に回ったのだろう。いい気味だと内心笑った香坂は、次の言葉に息を呑んだ。


『随分綺麗な男ですね、霖雨ってのは』


 それをこの男が知っている筈がない。そう思うのに、樋口ならばもしかして何か情報を掴んでいるのではと思ってしまう。だが、カマ掛けている可能性だって十分にある。


「何の話だ?」
『惚けたって無駄ですってば。部長に盗聴器を仕掛けたんです」


 平然と言ってのける後輩に眩暈がする。自分の身辺は定期的に調べるようにしているが、まさか自分の上司に盗聴器を仕掛ける部下がいるだろうか。それも仕事でも何でもないただの自分の趣味だ。
 例えそれが部長に知れたとしても、樋口を責めることはできないだろう。これが樋口でなければ大問題になっていたことなのだから。


『護送されていく姿も遠目でしたが、確認しました。もう言い逃れはできませんよ』
「……お前、何が目的だ。これは面白半分で首突っ込んでいいような、単純なものじゃねぇんだぞ」


 電話口で樋口の笑う息遣いが聞こえた。


『面白半分なのは、認めます。でも、俺は香坂さんに有益が情報も掴んで来ましたよ』
「有益な情報?」
『その霖雨という男についてです』


 はっきりと言った樋口の口調に何か含むようなものがあり、嫌な予感がした。それは知るべきなのに、知りたくないと思う。香坂は溜息を零し、話の先を促した。






Act.2 The strange.





 高速に乗って二時間、都心から随分と離れた場所。狭い室内の重苦しい沈黙に堪え、漸く出た外は淀みのない新鮮な空気に満たされていた。生まれも育ちも都会で、旅行という趣味を持たない香坂にとっては生まれて初めての感覚だった。空気とは、こんなにも美しいのかと感じた。
 日が傾き始めた空は橙に染まり、東は紺色が滲んでいる。確かに同じものを見ていた筈なのに、息をする場所が違うだけでこんなにも別のものに見える。当たり前のように通り過ぎて来た景色がとても価値のあるものだと教えられているようで――酷く不快だった。
 僅かな手荷物だけを持ち、雑木林を歩いて行く。都会ではまず見られない巨大な薮蚊に驚きながら、足元で蠢く山蛭に怯えながら、漸く新しい住居に到着した頃には日は既に暮れていた。突然、道が開けて現れた其処は、田んぼであるのに、まるで夜の凪いだ海のようだった。闇に沈んだ青い稲がさわさわと揺れている。白い砂利道の向こうにある二階建ての家。二人の人間が生活するには広過ぎるように感じるが、昨日出会ったばかりの気の置けない赤の他人と暮らすのだから、広いに越したことはないのだろうけど。
 すぐ後ろを歩く霖雨の息は荒く乱れていたけれど、気付かぬふりをして、無言で前に進む。玄関には業者が運んで行ったダンボールが高く積まれていた。雨が降る予定はないけれど、梅雨という時期なだけに外へ放置しておくことはできない。せめて、すぐにエアコンだけは設置したいのだ。
 端から霖雨には何も期待せず、休む間もなく一人で作業を始めようとする香坂を見て、額に汗の雫を張り付かせたままの霖雨も黙ってダンボールを運び始めた。その姿を見て、やっと解って来たかと何処か満足そうに口角を吊り上げた香坂の足は止まらない。


「こんなもんでいいか」


 と、彼方此方にダンボールが転がったままの状態で香坂は満足そうに息を吐いた。全然片付いていないが、もう集中力が切れてしまった。寝る場所はあるのだ。時間もまだまだたっぷりある。逆に今日全て終わらせてしまったら、この二週間の休暇をどう潰してよいのか解らないと自分に言い聞かせ、香坂は床に寝そべった。
 新築らしい独特の匂いがする。畳はまだ蒼く、新しいものだとすぐに解った。家まで新築を用意するとは手が込んでいると思いながら、用意された環境には何か仕掛けがあると思う。
 まどろみ掛けた体を起こし、手荷物の中の簡易盗聴器検査機を取り出すと慣れた手付きで調べ始めた。始めに反応したのはコンセントだ。定番だな、と思いながら螺子を外す。
 霖雨と暮らすというのは仕事だが、香坂にもプライバシーはある。どんな理由があろうとそれを侵害することは許されないと思いながら、取り外した盗聴器を見詰めた。明らかに玄人の仕事だった。
 家中から反応する盗聴器の類に溜息が零れた。此処までしなければならないこの霖雨という男は何者なのだろうか。
 片膝を立てて窓の外をぼんやりと眺める霖雨を横目に、盗聴器を外していく手は止まらない。
 確かに、酷く美しい人間だ。香坂とて初めて見たとき、こんな人間が存在するのかと思った。人間好みはあるが、それでも誰もが大空は美しいと思うだろう。それと同じように、見るものを選ばない美しさだが、何処か消えてしまいそうに儚い。表情を崩すことの無いその様はポーカーフェイスというよりも、始めから感情が存在していないかのようでぞっとする。これは本当に、人間なのだろうか。
 そんなことを考えながら、香坂は今朝の樋口の電話を思い出していた。あの命知らずの後輩が持って来た情報は霖雨のことである。


『どうやらね、霖雨という男。過去の重大犯罪に関わっているらしいんですよ』
「重大犯罪?」
『ええ、それが何かはまだ調査中ですが。それが被害者なのか、加害者なのかもまだ不明です』


 大したことは掴んでいないじゃないかと笑おうとしたが、樋口はすぐに続けた。


『ただ、警視庁の地下で二年間拘束されていたその男が只者ではないことはすぐに解ります』
「二年間……?」
『ええ。それから、その霖雨という男の経歴、年齢、家族構成全てが謎です。解りますか、この異常性が』


 当たり前だ、と香坂は笑おうとして失敗した。
 この完全管理社会において、身元不明の青年がいること事態有り得ないのだ。ホームレスにだって名前はある、ひっそりと産み落とされた赤子にも番号はつけられる。死体ならともかく、身元不明のこの男が何者なのか、この特徴的過ぎる容姿を以ってしても解らないなんてことは、有り得ない。樋口でさえ正体を掴むことのできなかった霖雨の異常性を垣間見て、香坂は舌打ちしたい気持ちになった。
 目に付くところに仕掛けられた盗聴器は全て外した。残りは後日ということにして、せっかくなので新しく買い換えたベッドマットと布団を敷いた。夕食を作るのも面倒だと眠ることにしたが、霖雨がいることを思い出す。だが、霖雨が何も言わないのをいいことにそのまま香坂は眠りについた。霖雨は変わらず窓辺で外を見ていた。
 携帯の喧しい電子音で目が覚めた。外はしとしとと雨が降り出している。
 開いてみるとメールだった。部長から、休み中に仕上げて欲しいと書類がパソコンに送られているらしい。休暇は何処に行ったと叫びたい思いを呑み込み、寝起きで回らない頭を掻きながら布団から抜け出た。
 雨の日は頭が痛くなる。恨めしそうに外を睨み、霖雨の姿がないことに気付いた。
 何処に行ったのだろう。まさか、逃げたのではと嫌な予感がした。きょろりと周囲を見回してもその姿は何処にもなく、少し焦って足を踏み出すと何か柔らかい感触がした。


「……霖、雨?」


 部屋中に所狭しと置かれたダンボールの僅かなスペースで、まるで胎児のように丸くなって眠っている霖雨がいた。逃げ出した訳では無かったのだと安堵の息を零しながら、自分を抱き締めるように眠るその姿につい笑みが零れた。まるで、子どものようだ。
 重大犯罪の重要参考人だとか、有り得ない存在だとか言われながら、表情一つ崩さない人形のようでありながら、その姿はとても頼りなく、儚い。
 自分の使っていたブランケットを掛けてやると、すぐさまそれに蹲る光景に笑った。
 そうして、午後十一時を過ぎて遅い朝食の食パンを齧りながら、香坂は仕事をすべく荷物の中からパソコンを取り出した。
 送られて来たのは完全なるデスクワークだ。在宅でもできる仕事だが、第四係の特殊体系故に常に人員不足の皺寄せはこうして休みの日に回ってくる。普段の出っぱりの任務に比べれば体力的には楽なのかもしれないが、精神的には酷く苦痛だ。
 少し進めては気晴らしに荷物を片付けと繰り返している間にダンボールは減って行き、引越し作業は簡単だと思いながら気付いた。当たり前だ。此処にあるのは香坂のものだけなのだ。
 何一つ自分のものを持たない霖雨が、ただでさえ持ち物の少ない香坂の片付けを手伝っていたのだ。夜、香坂が眠った後も片付けていたのだろう。確かに働けとは言ったが、眠らず働けなどと言った覚えはない。
 徹夜したのか、霖雨の目の下には深い隈が刻まれている。嗚呼、と思った。
 馬鹿だな、と思う。適当に手伝って、勝手に寝てしまえば良かったのだ。元々、香坂だって期待していなかった。何の見返りも求めず、何の文句も言わず、奇妙な男だと思う。そして、同時に。


(やり難いな)


 とも思った。
 けれど、自分には関係ないかと割り切ってパソコンに向き合う。
 霖雨が起き出したのは霧雨が豪雨に変わった午後五時頃だった。自分に掛けられたブランケットを見て酷く不思議そうな顔をしていたが、香坂は何も聞かれないのをいいことに無視していた。
 そのまま再び窓の外を眺めて一日を過ごす霖雨が何を考えているのかなんて香坂には解らない。けれど、只管パソコンに向かい続けている香坂にとっては有り難かった。どの道、話すことなんてない。元来、干渉されることを嫌う人間嫌いの香坂だから、必要最低限の食事と着替えを提供してやるだけでも感謝して欲しいくらいだと思っていた。食事すら忘れてしまう日はあったが、霖雨がそれに対して文句を言ったことなど一度だってなかった。
 それから一日経ち、二日経ち、三日目。最近は問い掛けても頷くか首を振るだけだったが、それでいいと思っていた。霖雨が香坂を信用しようが心を開こうが、憎もうが諦観を抱こうがどうでもよかったからだ。霖雨が何をしていようと仕事は増えて行く。忙しさもあり、構っている時間もなかったのだが。
 長時間パソコンを見ていたせいで痛む目頭を押さえ、香坂は溜息を零した。午後七時を過ぎ、今朝から何も食べていなかったことを思い出し、キッチンへ向かう。ポットに湯を沸かしながらふと霖雨を思い出した。食事を出したのは何時だっただろうか。
 自分の起床に合わせて叩き起こした午前十時。そういえば、朝食を出した記憶が無い。自分は食パンを齧りながら仕事を始めたのですっかり失念していた。
 仕方ないと再度溜息を零し、棚からカップラーメンを出す。最後の一つだった。そんなときに限って食パンもなければ米櫃も空になっていて、歩いて二十分も掛かる商店までこの豪雨の中歩いて行く気にもなれず、諦めて窓辺に座る霖雨にカップラーメンを手渡した。
 湯を入れ、自分が食べられる訳でもないのに待った三分はまるで拷問のようだった。化学調味料のいい匂いがする。鳴り出す腹の虫を意地で押さえ込んでいたが、でき上がったそれを黙って受け取った霖雨につい、言ってしまった。


「最後の一つだから、味わって食えよ」


 意味を掴みかねたように、きょとんと霖雨が首を傾げる。香坂は苛立ちを飲み込みながら、溜息混じりに言った。


「お前がいなかったら、よかったんだがな」


 苦笑した香坂はすぐに背中を向けた。そのとき一瞬、霖雨が浮かべた顔を香坂はついに見ることができなかった。
 厭味を言ったつもりではなかったのだ。それは事実だ。
 けれど、背中を向けた香坂は、そっとカップラーメンを置いた霖雨の姿を見ることができなかった。




2010.6.30