積み上げた煙草の吸殻が崩れたとき、窓に打ち付ける雨の音がやけに耳障りだと気付いた。
 豪雨は未だに止む気配は無く、モザイクでも掛かったように窓の向こうは何も見えない。例え晴れていたとしても、人家の殆ど無い此処で何か見えるものがあるとは思わなかったけれど。
 集中すると周りが見えなくなるのは昔からの癖だった。自他共に認める短気集中型であり、所謂書類仕事は纏めて最後に片付ける。要するに、夏休みの宿題を最終日に片付けるタイプということだ。それは長所でもあり、短所でもある。集中力が切れた途端に痛み出した目頭を押さえ、パソコンに向かい続けて既に三時間余りが経過していることにに驚く。
 コーヒーでも飲もうかとキッチンへ向かおうと立ち上がり、はっとした。
 ローデスクの上に置かれたそれは、数時間前は確かに食べ物だった筈だ。否、現時点でも食べ物ではあるが、とても食べる気にはなれない。汁を吸い伸び切ったカップラーメン。割られていない割り箸。その奇妙な光景に疲れた脳が停止したような気がした。思考能力が著しく低下している。


(なんだ、これ)


 霖雨が、提供した食事を残したことはただの一度も無かった。明らかにもう食べられないといった様子のときでも無理に胃に突っ込んでいたこともある。まるで命令すればその通りに動くロボットのような男が、急にエラーでも起こしたのだろうか。
 そんな訳はないと解っているけれど、やはり脳は錆付いたように動かない。訳が解らなかった。
 兎に角、霖雨を呼ぼうと窓辺に目をやり、其処には誰もいないと気付いた。部屋の何処にも霖雨はいない。この住居は2LKの平屋だが、このリビングに風呂や排泄以外で出たことはない。一応、全ての部屋を見て回るが、何処にも霖雨の姿は無かった。


「おーい」


 呼んだ声は虚しく空間に響いた。何処からも帰って来ない声に呆然として、反射的に窓の外を見た。
 酷い豪雨だ。都会から離れたことのない香坂にとっては信じられない程の豪雨に俄かに驚く。打ち付ける雨の凶暴さ、耳を侵す轟音。例え空腹であっても、外に出るのは遠慮したいと思った程だ。けれど、まさかと嫌な予感が脳裏を過ぎった。


(まさか、外に)


 逃げたのだろうか。けれど、それにしてはこのタイミングは妙だろう。逃げるチャンスなど幾らでもあった。それなのに、香坂が同じ空間にいるのに逃げるとは、おかしいと思うのだ。けれど、霖雨が此処からいなくなる理由が他に思い浮かばなくて、部長に連絡をしようと携帯を手に取った瞬間に自分の声が耳に蘇った。


――お前が、いなかったら、よかったんだがな


 まさか、それだけで?
 確かに、あの言葉は言う必要のないものだった。厭味にも似た愚痴は、一般的に言われた人は傷付くだろう。けれど、霖雨だからいいかと心の何処かで思っていた。霖雨なら構わないか、許されるか。今までのあの放任して来た態度で、どんなに好い加減に接しても文句一つ言わなかった霖雨だから、いいだろうと思っていた。
 頭が冷えて行く。それと同時に、心臓がゆっくりと熱を無くして行くような冷たさと窮屈さで手足が微かに震えた。こんな感情を覚えるのは随分と久しぶりのような気がする。
 足は玄関へ向けて踏み出していた。玄関の扉は開いていた。けれど、霖雨の靴は置いてあった。やはり家にいるのかと思った。いや、思いたかったのだ。でも、本当は気付いている。霖雨はきっと、靴を履かずに出て行ったのだ。
 瞼をぎゅっと閉じ、眉間に皺を寄せる。外は真っ暗で、酷い豪雨だ。けれど、手は扉を押し開け、足は既に家を飛び出していた。傘を持ってくるという思考能力すら無くて、数歩の間に体はびしょ濡れになった。
 周囲は闇に包まれていた。気持ち程度に設置された外灯は殆ど意味を成していない。辛うじて道は解るものの打ち付ける雨は強く、露出した土の地面を削っているようだった。
 霖雨が何処へ行ったのかなんて解らない。香坂自身、この辺りがどうなっているのかなんて解らないのだ。知り合いもいなければ、人家もない。行く当てなどあるとは到底思えなかった。
 焦りを感じながらも、頭の何処か冷静な部分が自分の行動を嗤っている。警察に連絡するべきなのだ。詳細を問われたって自分は警察官であるし、上から幾らでも手は回してくれる。自分一人で探すなど砂漠に落ちた針を探すようなものだ。こんな雨の中、傘も差さずに正体不明の居候を探すなんてお人よしにも程があると思いながら、この数日の霖雨が思い出されていた。

 最後に声を聞いたのは、何時だ?
 最後に、きちんと向き合ったのは?
 その名を呼んだ、のは?

 そう思ったときに胸を掻き毟りたくなるような焦燥感が湧き上がった。心の中で何度も何度も悪態吐きながら、それでも目は必死に闇の向こうを探している。そんな自分を滑稽だと嗤う自分は一体何なのだろうと、答えのない闇の中に問い掛けていた。






Act.3 Tell me.





 夜が死んでいく。その腹を食い破って朝が顔を出す。
 体が酷く重かった。一晩中駆け回った足は枷でも付いているのではないかと思う。雨はすっかり上がったが、清々しい気分にはとてもなれなかった。全身余すところ無くびしょ濡れで、輝く朝日に眩暈がした。
 重い足取りで踏み入れたのは名も知らぬ神社で、潜った鳥居の錆付きがまるで自分のように思えて滑稽だった。何処か遠くで雀が鳴いている。朝日に光る水滴に目を細めながら、神社の石畳を一歩一歩と踏み締めていく。
 歩く度に水の飛び出す靴が不快だった。けれど、誰かに操縦されているかのように思い体はそれでも前へ前へと進む。
 やがて目の前に石段が見え、最早無心に登って行く。一晩中豪雨に侵された耳に微かに人の声がした。何かを揶揄するような耳障りな声だ。何を言っているのかは判別できない。けれど、足は自然とその方向へと向かって行く。
 神社から少し離れた藪の中から響いて来る。


「――よ」


 何処か上から抑え付けるような強い口調だ。責めるような、怒鳴るような。
 少し開けた場所に集まる数人の若い男。いかにも柄の悪そうな派手なシャツを着て、髪は金色の立てている姿を見て、なんだと落胆した。けれど、その中心に蹲る男を見て心臓が止まるかと思った。
 ぐっしょり濡れた体は動かない、うつ伏せに倒れ込むその体を男達が笑いながら蹴っている。肌蹴たシャツは土に茶色く汚れ、白い肌には出血しているのか血液の赤が見えた。
 男が蹴ったとき、顔が此方を向いた。薄く開かれた目は何も見てはいない。微かな瞬きが、振り上げられた男の爪先を呆然と見詰めている。
 腹部にぶつけられた爪先。鈍い音がして、その口から鮮血が飛び出した。彼を取り囲む輪が笑いに揺れる。一人の男が胸倉を掴んで持ち上げ、何か怒鳴っている。
 何を怒っているのだろう。何を責めているのだろう。霖雨が、何をしたと言うのだろう。
 振り上げられた男の拳をただ見詰める霖雨の冷めた目に、香坂の足は既に地面を蹴っていた。
 男の拳が霖雨に届くよりも早く、香坂の拳は男の体を遠くへ弾き飛ばしていた。辺りは騒然となった。戸惑いながらも怒鳴り付ける声がよく聞き取れない。霖雨は冷たく香坂を見て、ゆっくりと瞼を下ろした。
 掴みかかろうという男達を次々に殴り、或いは蹴り飛ばし、傷害で逮捕されそうだと頭の何処かで思いながらも体は輪を作る男達を倒して行った。
 そうして、辺りがしんと静まり返った後、香坂はゆっくりと動かない霖雨の傍に歩み寄る。男達を殴り飛ばした拳が鈍く痛んだ。けれど、足は止まらなかった。


「てめぇ、こんなとこで何してんだよ」


 足元に転がった若い男を蹴りながら、苛立ったように香坂は言った。霖雨はゆっくりと目を開いたが、何も答えなかった。呆れを含む溜息を零し、霖雨の前にしゃがみ込む。
 殴られたのだろうか、蹴られたのだろうか。有りもしない金品を物色されたのだろうか、女のように犯されたのだろうか。けれど、何も聞くことはできず、暫しの沈黙を遠くで響く鳥の声が埋めていた。
 香坂の脳裏には再び、あの時自分の言い放った言葉が蘇った。


――お前がいなかったら、よかったんだがな


 それは決して、霖雨にいなくなってほしいと言った訳ではない。香坂とて人間だ。厭味にも似た愚痴を、まさかそのままに受け止めるとは思わなかったのだ。――けれど、事実霖雨はそう受け止めた。出て行けと、いなくなれと言われたと思ったのだ。
 此処にはいられないと家を飛び出して、でも、何処にも行けなくて、ずっと此処にいたのだろうか。
 見付けたら怒鳴ってやろうと思った。お前、何してんだよ。ふざけんな、迷惑なんだよ。勝手にいなくなるんじゃない。そう、思っていたけれど。
 夏とはいえ、寒かっただろう。腹も減っただろう。殴られ蹴られた体は痛かっただろう。それから、怖かっただろうし、寂しかっただろう。そう思ったら、怒りなどすっかり跡形も無く消えて無くなってしまった。


「……帰ろうぜ」


 そう呟いた。霖雨は何を言われたのか解らなかったかのように香坂を見た。


「何、変な顔してんだよ。びしょ濡れじゃねぇか、風邪引くぞ」


 立たせようと霖雨の手を掴んだ。人の手に触れるのは随分と久しぶりのような気がする。その細く小さな掌が思いの外温かくて、何故だか泣き出したくなった。
 きょとんとした霖雨を立たせ、殴り倒した男達を避けながら踏み出した家路は通い慣れたもののような気がして、香坂は胸の中にふつふっと浮かび上がる奇妙な温かさを思った。
 家に、帰ろう。誰にとも無く、胸の中で繰り返す。香坂は背中を向けた霖雨に気付かれないように、少し笑った。
 
 それから家に帰り、交代で風呂に入った。やはり風邪を引いたのだろうか、風呂上りとはいえ、霖雨は少し赤い顔をしていた。
 さっさと布団に押し込むことにして、少し長い黒髪をドライヤーで乾かしてやる。気が向いたときにでも切ってやろうと思いながら、香坂は言った。


「なぁ」


 されるがままになっている霖雨の後頭部に向かって、香坂は言う。顔が見えなくて、よかったと思った。


「もっと、色んなこと話せよ」


 霖雨の顔は見えないが、香坂は静かに続けた。


「して欲しいことがあるなら、言え。解らないことがあるなら、聞け。……もう、お前がいなかったらなんて言わねぇから」


 この青年が何者なのか香坂は知らない。けれど、泣くことも笑うこともせず、与えられる不条理を享受し続けているこの霖雨を護ってやりたいと思った。
 あのとき、振り上げられた拳をじっと見詰めていた。怯える訳でもなく、怒る訳でもなく。体中の傷は古いものから新しいものまで様々だった。つまりは、そういうことだろう。暴力が彼の日常だったのだ。
 食事もきっと、満足に与えられなかったのだろう。だから、文句を言わなかったのだ。それが彼の普通だったからだ。
 そうして全てを諦めながら、いつか香坂も暴力を振るうと思っていたのだろうか。食事を抜いて、力で押さえ付けて、傷付けると思っていたのだろうか。――そうだとしたら、それはとても、不愉快だ。自分をそんな連中と同列にして見ないで欲しい。
 これは同情だ。けれど、それでもいい。彼に教えてやりたいのだ。それは普通ではないのだ、と。もっと自由に生きていいのだ。自分は傷付けたりしないと、知って欲しい。そして、何よりも。


「何処にも行かなくていい。此処にいろ」


 居場所が無いのなら、此処にいればいいのだと知って欲しい。
 自分はお人好しではないし、むしろ、かなり利己的だとは思う。お荷物だと思いながら、厄介者扱いしながら、それでも、霖雨を切り捨てられない自分の甘さを呪った。
 触れた掌が吃驚してしまうくらい温かくて、それが発熱故の温度だとしても構わない。人の温もりに触れたのが余りにも久しぶりで、今までの空白を埋めて行く温かさに涙が零れそうだった。
 こんな仕事をしていると、人間というものが嫌いになって行く。関われば傷付けるのなら、関わらない方がいい。そう思っていたけれど、また、こうして新たな関わりを持とうとする。それは酷く滑稽だけども、きっと自然な姿なのだろうと思うから。
 霖雨の肩が微かに震えたが、気付かないふりをした。
 彼が何者なのかは知らない。けれど、いずれ話してくれるそのときまで黙って待っているのもいいだろうと思う。時間は十分にあるのだから。この弱い生き物を護ってやりたいと、人知れず思った。


「全てを受け入れる必要なんてない。お前にだって拒否する権利はある。幸せになる権利はある」


 それを幸福追求権とは言わなかった。きっと、言ったって解らないと思うから。
 けれど、避けて通れる苦しみや悲しみまで受け入れなくてもいいのだ。苦しまない道があるのなら、それでいいと思う。


「だからさ、お前も少し、笑えばいいと思う」


 仮面のような無表情を貼り付けておかなくていい。彼に感情があるのなら、素直に表してもいいだろう。此処にはそれを否定する人間はいない。
 霖雨は振り返らなかった。人形のように強張った肩の力を解すように、ドライヤーを止めて軽く叩いた。殴られると思ったのか怯えるように震えたけれど、気付かないふりをした。


「俺は、お前を殴ったりしないよ。お前を縛り付けたり、傷付けたりしない。俺も鈍感だから、精神的には傷付けることもあるだろうけどな」


 けれど、傷付けて傷付けられてというのが人間の生き方だとも思うのだ。それでいいだろう。
 すると、ゆっくりと霖雨が振り返った。頬に残る擦傷は消毒したけれど、完全に消えるまでは時間が掛かると思う。傷とはそういうものだ。けれど、その傷だらけの顔で少しだけ、笑った。その綻ぶような微笑みに心臓が抉られるような痛みを覚えた。
 その今にも泣き出しそうに儚い微笑みが、いつか大輪の花が咲くような笑顔に変わればいいと思った。柄じゃない、自分で自分が気持ち悪いと思いながら、それでも、そう願わざるを得なかった。

2010.7.6