警視庁刑事部特殊犯捜査班第四係は問題児の寄せ集めだという者もいる。それは、通常業務をこなす一介の警察官にしてみれば、第四係は秘匿性を必要とするが故に普段何をしているのかも解らない為である。その仕事内容は心身ともにまともな人間ではこなすことのできないものであるし、日々仕事に忙殺されている為、フロアを歩く姿は無愛想で非干渉。この国が元々島国であるが為に、自分達を異なるものは徹底的に排除しようとする風習がある。同じ警察官だというのに、と零したくなるのもよく解るだろう。
 ただし、問題児の寄せ集めだと称されるのは反論せざるを得ない。何故なら、問題児を集めた訳ではなく、適した職員を彼方此方から引き抜き、異質な仕事を日々こなす間に皆、一般人とは異なっていくのだ。香坂はそう思っているし、自身もそうだと信じている。
 だが、樋口リョウという男は違った。この男は元々が問題児であり、心身ともにまともな人間ではなく、警察官になっていなかったら何処かで重大な犯罪を起こしただろうと思う。そういう所謂『異常』な人間が極希にいる。それが偶々香坂の後輩に当たり、運悪く懐かれてしまっているというだけだ。

 盛大に溜息を吐いた香坂の前で、樋口は穏やかな微笑を浮かべて首を傾げた。


「溜息なんて吐いて、どうしました?」


 人の良さそうな爽やかな容姿をしている青年は、一見すると高校生にも見える。第四係最年少の刑事であり、俗に言う天才という名を欲しいままにする男だ。特に情報に関してはこの男の右に出る者は無く、あらゆる世界と通じる太いパイプを幾つも持っている。
 こうなることは解っていたのだ。
 突き抜けるような青空の下、香坂は疎ましそうに目を細めた。ベッドから抜け出して来たばかりの香坂の髪は奇妙な形で揺れている。元々朝が弱かったが、午前八時に突然チャイムで起こされるとは思わなかった。この家に引っ越してから訪問者など一人としていなかった。
 最初の訪問者がこの男と思うと、溜息も出るものだ。


「……何しに来た」


 自然と不機嫌そうな低い声が出た。その態度を隠そうともせずに香坂は不用意に扉を開けてしまった自分自身の迂闊さを恨んだ。
 樋口は片手にぶら下げていた大きな西瓜を持ち上げて見せ、笑った。


「差し入れを持って来ました。……入れて下さいよ」
「嫌だ、帰れ。西瓜だけ置いて帰れ」
「わあ、酷いなぁ」


 欠片も酷いとは思っていないだろう。その証拠に香坂の腕を簡単に掻い潜って玄関に侵入する。その身のこなしに僅かに驚きながら、悔し紛れに予想の範疇だと笑おうと思った。
 山道を歩いて来たらしい泥だらけのスニーカーを揃えもせず、遠慮なく廊下を進んで行く樋口の後をのんびりと追った。居間には誰もいない。今起きたばかりなのだから、テレビも点いていなければ、お茶も用意されていない。それを承知で、樋口は我が物顔でソファにどかりと腰を下ろす。
 その様を見ながら、面倒臭そうに香坂は目を細める。
 何の用だとは、訊かなかった。樋口がいつか此処を尋ねて来ることは予想できていた。それが好奇心の為であることも、短い付き合いだが解っている。


「面白半分で首を突っ込むな。お前、死ぬぞ」


 へらりと笑う樋口にその言葉は果たして届いているのだろうか。樋口は香坂を一瞥し、きょろりと部屋を見渡した。


「綺麗な家ですね」


 引っ越して来たばかりの部屋はまだまだ新築だ。幾ら香坂がチェーンスモーカーだからと言っても、そう簡単に白い壁紙が黄ばむ訳ではない。
 樋口は口角を吊り上げ、皮肉っぽく言った。


「犯罪者を住ませておくには、余りにも綺麗過ぎる家だ」
「犯罪者、だと?」


 聞き返す香坂の反応を、まるで予想通りだとでも言うように樋口は笑った。


「だって、他に考えようがないでしょう。警視庁の地下で二年間も秘密裏に拘束されていた身元不詳の男が、まさか罪も無き一般市民だとは思えない」
「それは憶測だろ。真実は解らない。お前の独断で人を犯罪者にするな」
「人が良過ぎますよ、香坂さん」


 そうして困ったように笑う樋口の奥で、ゆっくりと扉が開いた。
 この状況をこれ以上にややこしくするだろう男の存在は、できることなら隠しておきたかった。だが、ゆっくりと現れた霖雨を見て、香坂は肩を落とした。


「おはよう、霖雨」
「おは、よ、う」


 ぎこちなく挨拶を返す霖雨の目は、香坂ではなく、いる筈のない第三者を見ている。樋口は愉しそうに笑い、立ち上がった。


「おはようございます、霖雨さん?」
「おはようございます……」


 戸惑いと警戒が混ざった何とも言えない顔をし、霖雨はゆっくりと香坂の傍へ歩いて行く。見知らぬ人間に好んで近付くような物好きは此処にはいない。香坂が霖雨に歩み寄ろうとしたその時。


「待ちな」


 拒否を許さぬ強い口調で、それまでの穏やかな物腰など一瞬で消し去った樋口は霖雨の手首を掴んだ。驚愕と恐怖で霖雨の肩がびくりと揺れたのが香坂にはありありと解った。
 反射的にその手を振り解こうと霖雨が身を引いた瞬間、その細い体はフローリングに叩き付けられていた。骨のぶつかる鈍い音が響き、香坂は自分のことのように目を細めた。


「逃げることはないでしょう? 仲良くしましょうよ、霖雨さん」


 笑顔を貼り付けた樋口だが、その目は決して笑ってはいない。
 受身も取れずに痛みに堪える霖雨の体が震えているのは、見間違いではない。


「止めろ。遣り過ぎだ、樋口」


 横から手を伸ばし、樋口の腕を取り押さえる。霖雨は慌てて逃げ出すかと思ったが、その場で動かずに震えていた。


「冗談ですよ、冗談」
「遣られた人間は、冗談だとは受け止められない」


 動けない霖雨を立たせようと腕を掴み、香坂は俄かに驚いた。驚いたのは解るが、霖雨の腕は小刻みに震え、硬直していた。ショック症状かのようで内心焦ったが、腕を引けば霖雨は怯えたように慌てて立ち上がった。けれど、その場から動かなかった。
 ――否、動けないのだ。


「……霖雨、腹減ってるか?」


 動いていいと言ってくれないと、霖雨は動けない。力で押さえ付けられ、其処から逃げることすら霖雨はできないのだ。
 香坂はできるだけ優しい声色で、問い掛ける。霖雨はぎこちなく頷いた。


「飯、作るよ。其処に座ってろ」


 樋口からできるだけ遠い場所を指し、香坂は二人に背を向けた。微かな震えを隠すように自分を抱く霖雨を横目に、香坂は樋口を睨んだ。
 余計なことをするなと釘を刺したつもりだったが、樋口はやはり笑っただけだった。
 香坂の消えたリビングで、樋口は早速霖雨を見た。再び浮かべる笑みに、霖雨が何を感じたのかなど誰にも解らない。樋口は言った。


「俺の名前は樋口リョウ。香坂さんの後輩で、同僚。つまりは刑事なんだけどね」


 霖雨は何も言わなかった。その意味も樋口は知っている。言わないのではなく、言えないのだ。答える言葉を何一つ持ってはいないのだから。


「俺が尋ねることには正直に答えてもらう。これは、職務質問だ」
「職務質問……?」


 その意味すら霖雨には解らない。それを承知で、樋口は尋ねるのだ。


「君の名前は?」
「あ、の」
「名前は」


 迷いすら許さぬ強い口調に、霖雨の表情が曇る。それも気付かぬふりで、樋口は笑顔を繕うこともせず無表情に詰問した。


「わ、からないけど、霖雨、と……」
「解らない? 自分のことだろ」


 びしりと言い放った樋口に、霖雨は返す言葉を持たない。助けを求めるように、キッチンの香坂を窺うが、その姿は何処にも見えない。
 口を真一文字に結び、霖雨は自然と俯いて行った顔を上げた。


「解らないんだ、何も」


 必死で訴えるその姿に嘘があるとは思えない。だが、樋口は疑うことを仕事とする側の人間である。眉の寄せられた眉間に深く刻まれた皺に、霖雨がびくりと震えた。


「年齢は、家族は、出身地は」
「解らない、解らないんだ」
「学歴は、職歴は、犯罪歴は」
「解らない!」


 震える声で霖雨が叫んだ。それと同時に、反射的に樋口の声が大きくなった。


「ふざけ――!」


 怒鳴りつけるような強い口調が響いたその瞬間、キッチンからそれ以上に大きな声が飛んで来た。


「好い加減にしろッ!」


 それと同時に壁を叩く鈍い音が響いた。キッチンからゆらりと現れた香坂の顔にはありありと怒りが浮かび、鋭い目は樋口を強く睨んでいる。
 樋口は驚きも一瞬にして隠し、すぐさま笑顔の仮面を貼り付けた。


「お前、何しに来たの?」


 低く問い掛けた香坂は冷たく樋口を睨んでいる。


「帰れば?」
「……香坂さん」
「帰れよ」


 樋口はぐっと黙り、はっきりと言った。


「この男は重大な犯罪者かもしれない。それを隠して、知らぬ存ぜぬで通そうとしているんですよ?」
「だから、何だ。お前には関係ねぇだろ」
「このまま、こんな男とぬくぬく生活していくつもりですか? こいつからもっと情報を引き出さないと」
「こんな状態で何を訊くってんだよ、言ってみろ」


 苛立っている香坂の奥で、カタカタと震えながら自らを抱える霖雨が見えた。青褪めた顔にはありありと恐怖が刻み込まれている。
 香坂は不機嫌そうに、サンドイッチの乗った皿をローテーブルに運び、ソファに腰掛ける。黙ってテレビを点ける香坂は既に樋口を見ていない。興味を失ったかのように見向きもしない様子に、樋口は悪びれた様子もなく苦笑し、肩を落とした。
 両手を挙げ、降参とでもいうかのようなポーズを取ると樋口は荷物を持ってすぐに立ち上がった。


「今日のところは帰ります。また、来ますね?」


 香坂は何も言わなかった。樋口は霖雨に目を戻した。


「霖雨、よく考えろよ。お前は此処にいるだけで、迷惑になる」
「――――ッ!」


 音を立てて立ち上がった香坂だったが、其処に樋口はもういなかった。廊下の向こうで玄関の閉じる音がする。香坂は大きく息を吐き出し、崩れるようにソファへ座り込んだ。


(何なんだ、あいつ)


 苛立ちを隠さず、出来立ての朝食に手を伸ばすと目の前の霖雨が視界に入った。また、元の無表情で遠く空を眺めている。


「気にしなくていい」


 自分でも何故そんなことを言ったのか、香坂には解らなかった。
 ただ、霖雨を犯罪者と決め付けて、その存在すらも否定しようとする樋口の遣り方は卑怯だと思った。身元不詳だから、何を言ってもいい訳ではない。
 ただ、樋口が何の考えもなしにあのようなことを言うとはどうしても思えなかった。何か裏があるとは思いながら、テレビに目を向け素っ気無く「食え」と霖雨に言い放つことしか香坂にはできなかった。






Act.4 The permit.





 夜中に、玄関から音がした。
 泥棒かと一瞬考えたが、こんなド田舎で警官の家に来るなど随分と間抜けだ。既にその正体に気付いている香坂はベッドから起き上がると、なるべく音を立てないように玄関まで行き、電気を点けた。
 途端、暗闇に包まれていた玄関は照らされた。其処にいたのは予想通りで。


「何処に行く気だ、霖雨?」


 振り返った霖雨は答えなかった。ただ下を向き、黙ってしまう。
 香坂は壁に寄り掛かりながら、目を細めた。


「行く当てがあるのか?」


 霖雨は答えない。ある筈がないと、香坂は思った。
 この男が樋口の考えるような犯罪者だとは、どうしても思えないのだ。凶悪なテロ組織の一員には思えない。仲間がいるならば、もっと早く出ていただろう。


「行きたいなら、行けばいい。俺は止めない」


 これは誘導尋問だと香坂は気付いたが、霖雨は何も言わなかった。


「……迷惑だなんて、別に思わねぇよ。だから、お前の好きにしろ」


 それが一番霖雨を迷わせると解っていながら、敢えて選択肢を与える自分の狡さに俄かに呆れた。
 確かに裸足で玄関に降りようとしていた霖雨は、どちらにも行けずに立ち往生している。香坂は溜息を一つ零し、ゆっくりと霖雨の前に歩み寄った。


「お前が何者かなんてどうだっていい。お前はお前だろう」


 この男が何も感じない人形だとは思っていない。無表情だからといって、何も感じていない訳ではない。傷付けられれば痛いし、馬鹿にされれば悔しい、責められれば哀しい。当たり前だ、生きているのだから。
 何も答えず、動けない霖雨にまた溜息を一つ。苛立ちではなく、呆れたのだ。


「……寝ようぜ。眠くてしょうがねぇ」


 黙って取った手が微かに震えていた。それが夜の寒さではないと香坂は気付いている。けれど、何も知らないふりをしてリビングに連れて行き、ソファに座らせた。
 そのままキッチンへ行き、買い換えたばかりの最新の冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに注いだ。少しだけ砂糖を入れ、電子レンジを回す。三分程温めて、でき上がったそれをソファに沈み込む霖雨へ差し出した。


「よく眠れるから、飲めよ」


 欠伸を噛み殺しながら、差し出したのはホットミルクだ。霖雨はおずおずと手を伸ばし、それを受け取った。湯気と共に立ち上る甘い香り。香坂は正面のソファにどかりと座り大きな欠伸をした。
 遠慮がちにマグカップに口を付けた霖雨は、次の瞬間には驚いたのかその大きな眼を輝かせた。
 解り易い反応だな、と少し笑いながら、押し寄せて来る眠気を呑み込んだ。時計を見れば午前二時。草木も眠る丑三つ時に何をしているんだと嗤いたくなる。けれど、秒針の足音に混じって微かな声がした。


「……いよ」
「あん?」


 その声が霖雨から発せられたとは気付いたが、何と言ったのかまでは解らなかった。問い返す香坂の目に、マグカップを強く握る霖雨の姿が映った。俯いた顔は見えず、表情は解らない。けれど、微かに震える掌が全てを語っているようだった。
 その体の震えとは裏腹に、霖雨の声は強く、噛み締められていた。


「此処に、いたいよ」


 何を言うかと思えば、と香坂は溜息を零した。そんなことは、とっくに解っているのだ。
 苦笑しつつ、香坂は答えた。


「知ってるよ、バァカ」


 そうでなければ、樋口のあの言葉に傷付く筈も無かったのだ。香坂は笑いながら、震える霖雨を見た。


「言っただろ、此処にいればいいって。迷惑になんてならねぇよ」
「――本当に?」


 上げられた面が縋りつくような哀しい顔だったから、香坂は笑うことしかできなかった。
 それは決して、大き過ぎる願いではないだろう。そんな必死になって願うことではないだろう。でも、霖雨にとってその一言は何よりも重い言葉だったのだろうとも思う。
 それは霖雨が変わろうとしているということだ。香坂は口元に笑みを残したまま、言った。


「当たり前だろ」




2010.7.20