「おかしいと思っていたんですよ」
眉間に皺を寄せ、手を組んで此方を睨む青年を、香坂は呆れながら見ていた。
その真剣な眼差しはともかくとして、彼が何故此処にいるのか香坂には最早理解できない。
「性懲りもなく、よく顔を出せたな」
そう言うと、目の前の青年、樋口は悪びれもせずににこりと笑うものだから、香坂もそれ以上何も言えなくなってしまった。以前、突然訪問した樋口を追い返してから数日が経った。霖雨に対しての余りにも勝手な態度に追い返したときには、二度と来るなという意味を込めて対応していたのだが、樋口には全く通じていなかったらしい。
お陰で霖雨はすっかり怯え、普段はリビングから移動しないというのに、樋口の顔を見た瞬間から自室に篭って出て来ない。
我が物顔でソファに寛ぐ樋口は霖雨のことなど気にしていないようだ。香坂は溜息を零し、仕方無しに樋口の正面へ座った。
「何がおかしいって?」
「先輩と霖雨が会ったその日から」
要領を得ないな、と思いながらも樋口に話の先を促す。
「如何して、あの場に部長がいる必要があったのでしょうか」
香坂は霖雨と初めて出会った日を思い出す。刑事部を総括する部長に直々に呼ばれ、共に警視総監の執務室へ行った。そこで会ったのが、拘束衣を着せられ、外界からの全ての情報をシャットアウトされた車椅子の霖雨だった。その異常な対応に驚いたが、自分の状況を考えれば何も言うことができなかった。
その場に部長がいるのは何ら不自然ではないと思っていた。今、樋口に問われるまでは。
「部長がいる必要はなかった。だって、この件に部長は何の関係もない。そもそも、そこに同伴するべきだったのはことの秘匿性を考えれば部長ではなく係長だった。現に、部長が同伴することで情報は漏洩している」
確かに、言われてみればその通りなのだ。樋口が霖雨の存在を知ったのも部長を通してのことである。
あのとき部長が同伴していたのは、霖雨に関わることがとても重要なことであるため、刑事部の長としての責任だろうと考えていた。けれど、それでも確かにあの場に香坂と部長だけが呼ばれたのは不可解だ。やはり、あの場には係長がいるべきだった。第四係は刑事部からも独立した機関と見なされているからだ。
その理由に、樋口は何か考えがあるらしい。
「それで、お前はどう思う?」
「……霖雨が警視庁の地下で監禁されていたのは約二年間。つまり、二年前。部長が直々に関わったヤマを全て洗いました」
大変な手間だな、と思いながら、その情熱を仕事にも向けて欲しいものだと香坂は思った。
そこで樋口は声を潜め、言った。
「二年前、世界を騒がせた未曾有の凶悪事件がこの国で起こったでしょう?」
言われてみて、考える。だが、答えはすぐに導き出せた。
「A国大使館襲撃事件、か……」
樋口は微かに頷いた。
二年前の夏、茹だるような熱波が日本を襲った。毎日のように熱中症で何人もが病院へ運ばれ、その内何人かが死んだ。けれど、その中で当時の全ての事件を押し遣って一つの事件が大々的に放送された。それが、A国大使館襲撃事件。
事件が発覚したのは八月三日月曜日、午前八時十五分。大使館への連絡がつかないことと、職員が帰宅しないとの連絡を受けて警官三名が現場を訪れた。その前日はA国が主催したパーティが行われており、様々な国の要人が招待されていた。平和ボケしていた当時の人々は、パーティが盛り上がっているのだろうと職員の帰宅が遅くとも心配していなかったという。
交通量の多い道路に面した位置にある大使館の門は固く閉ざされ、入り口に設置された警備室は蛻の殻であったにも拘らず、何処からか腐臭が漂って来る。不審に感じた警官はすぐさま応援を呼んだ。
十分後、到着した応援と合流し、幾ら呼んでも、押しても引いても沈黙を続ける門を攀じ登り、中へと進入した。そこで警官が見たのは正に地獄絵図だった。
緑の芝生に広がる赤い液体と、大小様々な肉片。目の前に転がる原型を留めた手首から先を見て、それが人間であったことを知った警官はその場で嘔吐したという。
当時、建物内部には二百九十二名の職員と要人が存在していた。けれど、老若男女問わず全ての人間が、物言わぬ肉塊に変えられていた。
白かった筈の壁は真赤に染まり、深紅の絨毯は黒く変色し、一体どれが誰の何なのかも解らない惨劇。手摺にぶら下がっているのは人間の腸であり、ワイングラスに浮かぶのは眼球である。どれ程の場数を踏んだベテラン刑事といえど、この未曾有の惨劇を前に立ち竦むしかなかった。熱波と同時に溢れる腐臭に眩暈がしたという。
「この事件の結末を覚えていますか?」
「ああ」
唸るように、香坂は頷いた。
犯人は海外のテロ組織の組員であり、自爆テロであった。これを火種にA国とテロ組織の戦争は激化し、今も多くの死者が出ている。
けれど、この事件には謎が多い。捜査資料の殆どは爆破されたと言って残っておらず、現場に踏み込んだ関係者は固く口を噤んでいる。また、捜査は日本当局のみで行い、非公開であった。
「この事件の裏に、国ぐるみでの情報操作があったことはご存知で?」
「勿論」
それらは全て、この国が作り上げた嘘っぱちだ。香坂はそれを知る数少ない人間である。
当時、香坂はこの事件とは別件に当たっていた為に現場へは踏み込まなかったが、実際に関わった同僚の話を聞く限りそれは人間の所業ではなかった。爆薬を使った訳でもなく、全ての犯行は同一の刃物で行われていた。つまり、単独犯。凶器は厨房に保管されていた柳刃庖丁。刀身は脂が巻き、切れ味は落ちて発見された当時は既に棒のようだったという。
捜査が進むに連れて犯人の足取りが明らかになって行く。庖丁はパーティの為に招待された料理人の持ち物であり、入口付近で強奪したものと思われる。犯人は正面門を警備していた五名の警備員を凶器の柳刃庖丁で惨殺、そのまま建物内部へ侵入。銃を所持した男達が厳重な警備を行う中、目の前にいる者を次から次へと斬り殺していった。あらゆる方向からの発砲を物ともせずに進行を続け、終には全員を殺害した。現場には真っ二つになった銃弾が幾つも転がっていたという。俄かには信じ難い話だ。
香坂は眉を寄せ、樋口を睨んだ。
「……お前、調べたと言っていたな」
「ええ」
「消されるぞ、お前」
樋口は肩を竦めて笑った。
「だから、こうして先輩に話しに来たんです」
「道連れにするつもりかよ」
「あんたの努力次第です。ところで、あんたは何処まで知ってるんですか?」
「……どういう意味だ」
樋口の表情から笑みが消え失せた。
「この件に関する極秘ファイルがありましてね、ご丁寧に、全て事細かに記されてありました。犯人はその場で銃殺された、と」
「ああ。……まさか」
「生きていたんです」
香坂は息を呑み、咄嗟に霖雨の閉じ篭っている部屋の扉を見た。固く閉ざされたそこは人の気配こそあるものの開くことはない。
樋口の顔に漸く浮かんだ笑みが、自嘲にもよく似たそれだった。
「防犯ビデオが残ってましてね、犯人の所業がはっきりと映っていましたよ。勿論、その顔も」
唾を飲む音がごくりと鳴った。
樋口の言葉の先が読めるようで眩暈がした。けれど、樋口ははっきりと答えた。
「大層な美人でしたよ、霖雨とは別の」
その言葉を聞いて、自然と肩に入っていた力が抜けた。その大量殺人犯が霖雨だというと、思ったのだ。彼がそんなことのできる人間ではないとよく解っていたけれど。
だが、樋口は続けた。
「それでも、現場から発見された指紋や体液は全て霖雨のものだった。これは、一体どういうことですかね」
その意味を図りかねた香坂は怪訝そうに目を細めた。そんなこと、聞きたいのは此方の方だった。
Act.5 驟雨
別の顔をした同一人物。そんなことが起こり得るのかと、香坂は額を押さえた。
樋口の話は信じ難いものだったが、彼の性格とその真剣な表情から嘘だとはとても思えなかった。何よりも、霖雨には謎が多過ぎる。
午後七時を過ぎ、樋口の帰宅を知って漸く部屋から出て来た霖雨の顔には疲労の色が浮かぶ。先日の一件以来、樋口のことが恐ろしくて仕方ないのだろう。そんな様子を見れば、先刻の話はとても信じられない。本当ならば、彼は生きていてはならない人間だ。けれど、知ってしまったからには香坂は確かめなければならなかった。
朝食兼、昼食兼、夕食を作りながら香坂は霖雨を盗み見た。物憂げに外を眺める霖雨の横顔は酷く整っていて、同じ人間なのかと疑いたくなる。冷凍食品の餃子を焼きながら、香坂は問い掛けた。
「何で、いつも空を見ている」
はっとして霖雨が振り返った。
霖雨はいつも空ばかり見ている。飽きもせず、起きている内は殆ど全ての時間、空を眺めて過ごしているのだ。それしかすることが無いのかも知れないが、そこには何か別の理由があるのではないかと勘繰っていた。
数秒の沈黙を挟み、霖雨は微笑んだ。いつもの、消えてしまいそうに儚い笑みだ。
「この空を、忘れたくないから」
意味が解らないというように香坂は眉を寄せるが、霖雨はそれ以上何も言わずに視線をまた空へ戻した。
香坂の脳裏に、初めて会った日、窓を見て涙を零した霖雨が思い出された。あのときは何も考えなかったが、霖雨は空を見て泣いたのではないだろうか。
空を見て泣くその心境を考えた。空の美しさに感動したとしたら、その理由は。
「二年ぶりの空、か?」
大皿に持った大量の餃子をローテーブルに置き、香坂は呟くように言った。けれど、霖雨は笑った。
「どのくらいぶりかなんて、解らない。ただ、俺はずっと空に憧れていたんだ」
警視庁の地下で秘密裏に監禁された二年間。故に懐かしくなったのだとしたら、それ故の涙だったのではないだろうかと思ったのだ。けれど、その霖雨の言葉は彼の過去に関するものだ。初めて聞く言葉の意味を追求しようとしたそのとき。
ブツリと家中の光が消え失せた。
闇に包まれた中、一瞬驚きはしたものの香坂は冷静に停電かと思った。霖雨も特に焦る様子もなく闇に慣れた目にきょろりと周囲を見回す姿が見えた。
懐中電灯は何処だっただろうかと一歩を踏み出そうとして、気付いた。
(――囲まれてる)
大人数だ。香坂は慣れた手付きで常時保持している拳銃を掌に収め、周囲の気配を探った。
プロならば気配も殺気も出さない。これは素人だなと思いながら、香坂は玄関へ向けて歩み出した。だが、途中で足を止め、霖雨を振り返った。
「霖雨、付いて来い」
餃子が冷めてしまうな、なんて暢気に考えながら歩き出した。霖雨を置いて行くのは得策ではない。自分一人ならどうにでもなるけれど、霖雨がいたのでは難しい。先に霖雨を逃がしてから考えようと玄関を飛び出した。
突然、勢いよく開いた扉に動揺が広がった。やはり素人だと思いながら、そこにいる男達の中に見覚えのある顔があった。先日、霖雨に暴行を加えていた若者だ。
(報復か)
情けねェと思いながら、目の前の森の中へ飛び込んだ。森は漆黒に包まれていた。
背後から聞こえる若者の騒ぎ声から遠ざかるように走り抜けるが、彼方此方で聞こえる木々のざわめきに嫌な予感がする。ここらは彼等の庭も同然だ。幾ら香坂が夜目が利くといっても荷物を抱えて逃げ切れるとは思えない。
一般人、それも未成年を相手に発砲したら、幾ら正当防衛でも世論が許さないだろう。遣り難い世の中だと溜息を零しながら、香坂は立ち止まった。
「……霖雨」
すっかり息の切れている霖雨に背中を向けたまま、言った。
「腹、括れよ」
「香坂?」
「てめぇは此処を動くな。俺が全部片付けてやるから、此処で黙って待ってろ」
そうして歩き出した香坂の背中に縋りつくような霖雨の視線がある。だが、立ち止まることなく香坂は少年等の前に姿を現した。
ざわりと揺れる少年等に、自嘲の笑みが零れた。
「情けねぇやつらだ。こんな大勢引き連れて。男ならタイマン張ってみろや、コラ」
「うるせぇええ!」
鉄パイプを握った男が飛び出した。短気なヤツだと笑いながら、振り下ろされた一撃をかわして鳩尾に重い一発を捻じ込んだ。
微かな呻き声がして、男が崩れ落ちる。香坂は口角を吊り上げた。
「さっさと来いやァ! それでも金玉付いてんのかァ!」
その瞬間、わっと押し寄せた波のような少年達を前に頬が緩んでしまう。
喧嘩が、好きだ。人と殴るのが好きだ。踏み躙るのが、好きだ。自分の短気は自他共に認めているが、喧嘩が好きなのは殆ど誰も知らないだろう。普段は殆ど人と関わらずに生活しているからだ。
けれど。
振り下ろされた釘バットを避け、横から飛び出して来た少年の服を掴んで投げ飛ばす。そのまま釘バットの少年に足払いを掛けて倒れたところで腹を踏み躙った。聊か強過ぎたらしく、口から血液が零れた。けれど、香坂の笑みは深くなる。
烏合の衆は正に、交差化にとってはストレス解消の為の道具に過ぎなかった。次々にと闇に沈めていく中、妙な存在感を持つ男が近付くことに気付かなかった。
闇の中、空気を切る音が鋭く聞こえた。反射的に避けたが、香坂の腕からは深紅のものが零れ落ちた。
夏だというのに黒い長袖のパーカーに、帽子を深く被った奇妙な男が立っている。利き腕から零れる血液を押さえながら、香坂は笑った。
(――玄人だな、こいつは)
次の瞬間に鋭く空気を裂いたそれが、よく磨かれたバタフライナイフだと気付く。それと同時に頬に一筋の傷ができていた。
咄嗟に懐の拳銃を取り出そうとして、止めた。此処で発砲したら、相手の体を貫通した銃弾が他の少年に当たる。銃弾は体を突き抜けたときよりも、留まったときの方がエネルギーを放出する為大きなダメージになる。
仕方ないとナイフを避けるが、負傷した体で避けられる程、甘くは無かった。次々に切り刻まれ、着ていたシャツが赤く染まっていく。こんなことなら、一晩くらい樋口を泊めておけばよかったと今更ながら思った。
ドン、と木の幹に背を預けた瞬間。背後からの殺気に香坂は振り返った。月光を浴びた銀色の光が目に映った――。
瞬きすら間に合わない。けれどそのとき、横から体を押されて香坂の体は土の上に転がった。それと同時に頬に生暖かい液体が落ちた。
「霖雨……ッ!?」
切られたのだろう。赤く染まっていくシャツが鮮明に目に映った。
舌打ちをして、ナイフの男に足払いを掛けた。その男が転んだ隙に、霖雨を抱えて走り出した。鉛のように重い体と、零れ落ちていく血液に嫌気が差す。荒くい呼吸を繰り返す霖雨は何も言わない。否、言えないのだ。
茂みの中に飛び込み、大きく息を吐いた。切られた右腕が痛んだが、それどころではなかった。周囲に響く無数の足音。見付かるのは時間の問題だ。固く目を閉じた霖雨を見て、奥歯を噛み締める。
「如何して、俺を庇った……!?」
香坂は霖雨の血液がべったりと染み付いたシャツを呆然と眺めた。胸の奥から沸々と湧き上がる悔しさに、無性に胸を掻き毟りたくなる。
肩口を切られたらしく、出血が酷かった。この程度で意識を失うくらいなら、盾になろうとなどするなと怒鳴りつけてやりたかった。お荷物だと悪態吐きながらも、霖雨を支える腕は揺らぐことも放されることもない。
霖雨は過去最大の殺人者の筈だ。死刑になって当然なのに、こうして生きている。その真偽が定かでなくても、霖雨には不審な点が多過ぎた。けれど、霖雨から手が離れない。
自分自身生命の危機に晒されているというのに、こんな男を捨てられないのは、霖雨が決して、人を平然と傷付けられるような人間ではないと知ってしまったからだ。弱いが故の優しさと、脆いが故の強さを併せ持つ、余りにも儚く余りにも人間臭い純粋さを知ってしまったから。この傷だらけの掌が思いの外温かいと、知ってしまったから――この手を離すことができない。
けれど、そうしていても好転しない状況に焦燥感ばかりが降り積もる。そのとき、聞き覚えのない第三者の声がした。
「嬉しかったんだよ、霖雨は」
はっとして周囲を見回すが、人影は何処にもない。
まさかと思いつつ霖雨に目を向けると、まるで何でもないかのようにむくりと起き上がって背中を向けた。しかし、その気配も声も霖雨とは明らかに異なる他人のものだ。そう、霖雨だけど霖雨ではない別の誰かのものだ。
例えるならば、刃。触れるものを皆傷付けるような危うさを、全てを拒絶する冷たい光。くるりと振り返ったその相貌に目を疑った。
「誰だ、てめぇ……」
顔が、違う。
確かに酷く美しい顔をしてはいるが、切れ長な二重の奥に宿る鋭光は霖雨のものとはまるで違う。
出血など気にならないという風に、彼は無表情に言った。
「名は、驟雨。霖雨と共に在るもう一つの魂だ」
驟雨と名乗った男は足元に落ちた棒切れを拾い上げ、血で染まった袖を捲くった。
茂みから出て行こうとする背中に、そんなもので戦うつもりかと香坂が言うよりはやく、驟雨は静かに言った。
「お前は殴りもせず、罵りもせず、居場所をくれた」
振り返ったその目に凶暴な光を宿しながらも、その美しい相貌に浮かぶ笑みは酷く穏やかだった。
「此処にいていいと言ってくれたことがどんなに嬉しかったか、お前にはきっと解らないだろうけどな」
そうして悪戯っぽく笑った顔は何処か子どものような無邪気さを持っている。手に持った棒を弄びながら、驟雨は茂みからゆっくりと一歩踏み出し、月光の元に立った。
「その居場所を壊そうとするやつがいるなら、全部纏めて俺がぶっ壊してやる」
笑みを消したその顔に浮かぶのは、禍々しいまでの怒りだった。
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