――大層な美人でしたよ、霖雨とは別の


 樋口の言った言葉が脳裏を過ぎった。実際にそれがどんな人物なのか見たことはないから、確証なんてない。けれど、香坂ははっきりと、こいつだと思った。
 霖雨とはまた違う整った面は、やはり同じ人間とは思えない程に美しかった。月光を浴びた白い顔は透き通るようで、通った鼻筋も切れ長な二重の目も、そこだけ紅を刷いたように赤い唇も、全てがまるで現実味を帯びていない。
 手に持った棒切れは五十センチメートルあるかないかというくらいの、何処にでもありそうなものだ。香坂とて一度対峙しただけだが、あのバタフライナイフを持った男が只者でなかったことは解る。そんな異常者を加えた大勢の敵に向かって行く男は余りにも細く、頼りなかった。肩口からの出血は止まっていないのに、まるで痛みを感じていないのか平然と歩いて行く後姿は月光を浴びて妙に様になっている。
 驟雨と名乗った男は、棒切れを脇に構えた。その姿に鳥肌が立った。驟雨の姿を黙認した少年等が塊となって押し寄せる。
 避けろ、と叫ぼうと茂みから立ち上がった香坂には、何も見えなかった。
 幾つもの呻き声と、枯葉を踏む音だけが全てだ。押し寄せた少年等は、驟雨に触れることもなくその目の前で次々に崩れ落ちた。
 何が起こったのか、解らなかった。


「な、んだ……?」


 十数人はいただろう少年等が一瞬で伸されている。そんなことが現実に起こり得るのかと、この目で見るまでは俄かに信じがたかった。それと同時に、思い出されるのはA国大使館襲撃事件だ。その犯人の行動は人間には不可能としか思えないものばかりだったが、まさか、と思ってしまう。
 驟雨は棒切れを脇に構えたまま、動かない。張り詰める静かな殺気。


「雑魚ばっかりだな」


 ぽつりと零した声もまた、霖雨とは異なる別人のものだ。少年の面影を残す霖雨とは異なる青年の声。澄んだ湖畔に広がる波紋のように静かだ。
 足元に転がる少年等を冷たく見下ろしながら、ついと顔を上げた。


「あいつか」


 その視線の先には、闇に溶けるパーカーを来た男が立っていた。目深に被ったフードのせいで顔は見えないけれど、常人とは掛け離れた何かがある。香坂の右腕を切ったのも、この男だ。
 けれど、表情一つ変えないで驟雨は棒切れを肩に担いだ。構えることすら止めたその顔には落胆の色がありありと浮かんでいる。香坂は叫んだ。


「油断するな! そいつは玄人だ!」


 黒い影がゆらりと揺れた。闇黒の中で右脇構えたバタフライナイフだけが月光を浴びて白い閃光のように見えた。一直線に駆け抜ける黒い影を、驟雨は冷たく見ていた。
 男が驟雨を通り過ぎた、と思った瞬間。驟雨が肩に担いだ棒切れの振り下ろされる残像が香坂の目に微かに映った。ドン、と鈍い音がした。それは一瞬の出来事だ。駆け抜けた男は驟雨の横を抜けると同時に突然、がくんと崩れ落ちた。
 倒れる男に目も向けず、興味も無さそうに棒切れを肩に担いだ驟雨は溜息を零していた。


「――これが、玄人?」


 息を飲んだ香坂を振り返った驟雨は無表情だった。


「この程度、玄人とは呼ばねぇんだ。餓鬼のチャンバラごっこだろ」


 そう言い捨てた驟雨を、呆然と香坂は見た。
 フードの男は決して雑魚ではない。現に、警察官である香坂さえも負傷を負わされる破目になったのだ。だが、そんな男が子どものように手玉に取られた。フードの男が弱いのではない、驟雨は異常に強いのだ。
 棒切れを投げ捨て、驟雨は香坂をじっと見ていた。


「……どんな状況であれ、人を殺せば咎められるんだろ?」


 その冷めた目が見ているのは、目の前の香坂ではない。何処か遠くを眺める双眸から感情を読み取ることはできない。驟雨は喉を鳴らし、笑った。


「誰も、殺しちゃいねぇよ。それで、いいだろ?」


 その笑みが自嘲の笑みだとすぐに気付いた。けれど、その意味が解らなくて香坂は怪訝に眉を寄せる。


「お前、霖雨と共にある別の魂だと言ったな」
「ああ」
「それは、どういう意味だ」


 一瞬、同一性人格障害、通称二重人格と呼ばれるものだろうかと思った。けれど、それは顔まで変わったりしない。此処にいるのは霖雨とは全く別の人間だ。
 驟雨は皮肉そうな笑みを深めた。


「どういう意味も何も、そのままの意味だ」
「別の魂、だと?」
「そうだ。……なあ、話はまた今度にしてくれ。そろそろ、霖雨と代わるから」
「代わる、だと?」


 驟雨がそう言ったのと同時に、その細い身体は糸の切れた操り人形のように崩れた。僅かに湿った地面に倒れ込んだその様に慌てて駆け寄るが、微かな寝息が聞こえて香坂は安堵の息を零した。
 眠り込むその相貌は見慣れた霖雨のそれであり、つい先程まで見た危うげな空気を持つ驟雨とは異なっている。
 訳が解らない。今まで嫌な夢を見ていたように思う。だが、切られた右腕から広がる疼痛が夢だったとは信じさせてくれない。
 脳が容量オーバーだ。香坂は深く考えることは止め、意識を失った霖雨を肩に担いで自宅へと歩き出した。






Act.6 Lostman.





 霖雨が目を覚ましたのは、その翌日だった。昨夜のことなんて何も無かったかのような様子で起き上がった霖雨は、肩口の傷に表情を歪めつつも香坂を見て「おはよう」とだけ言った。
 香坂はそれに軽く返事をして、以前纏めて購入したロールパンをローテーブルに置いた。霖雨がソファで眠っている間に必要最低限の処置はしたが、切り付けられた傷は香坂も含め思った以上に深かったらしく、上手く動かない右腕はなるべく使いたくなかったのだ。病院へ行くべきだとは思うが、このような傷で病院に行けば警察沙汰になることは十中八九間違いない。香坂とて警察だが、部署が違うと別の機関だ。できるならば余り関わりたくない。
 選択肢は一つしかなかった。医術に精通する信頼のできる者を呼ぶ。それも、全ての事情を知っても問題のない者、だ。
 香坂が自ら樋口に連絡したのは、一時間程前のことだ。匿名で昨夜の若者達を警察と救急へ通報した後だ。遠くで鳴り響くサイレンに溜息を零したとき、霖雨はまだ眠っていた。
 起き上がった霖雨は、眠そうに目を擦っている。その様子からも昨夜の驟雨の面影はない。けれど、あれは香坂の作り出した妄想ではなく、全て真実だ。別の顔をした同一人物。仕事だからという義務ではなく、香坂は霖雨に聞かなければならなかった。


「驟雨とは、何者だ」


 霖雨は一瞬動きを止めたが、すっと顔を上げて香坂に微笑んだ。それはこれまで見せて来た泣きそうに儚い笑みではなく、まるで作り物のような固い笑みだった。


「驟雨に、会った?」
「……ああ。昨日、お前が意識を失った後」
「そうか。……驟雨は、何て?」
「霖雨と共に在る別の魂だと、言っていた」


 香坂の答えを聞くと、霖雨は目を伏せて微かに笑った。


「うん、その通りだ。俺とは異なる、別の魂だ」
「どういうことなんだ、それは」
「そのままの意味だよ」


 作り物のような表情を崩さない霖雨に、自然と溜息が出る。けれど、霖雨は重要なことを言っている。
 霖雨は、驟雨の存在を認知している。そして、霖雨は驟雨の意識であるときは眠っているのか情報を得ることができない。
 そこで思うのは、A国大使館襲撃事件だ。あの事件を起こしたのは驟雨の意識であり、霖雨は何一つ知らなかった。故に、これまでの事情聴取では何の情報も引き出せなかった。だから、彼は警視庁の地下で二年もの間拘束され、処罰を受けることもできず、こんな非科学的なことを公にすることもできなかった。
 霖雨は、驟雨の存在こそ知っているが、外界で何が起こったのか何も知らない。
 香坂は脳の奥に疼痛を覚え、肩を落とした。


「驟雨の存在を黙っていたのは、何故だ」
「言ったら、信じてくれたのか?」


 すぐさまそう切り替えした霖雨は、困ったように眉を下げて笑った。
 霖雨の言うことは尤もだった。この唯物主義の世の中で、一体誰が信じるというのだ。予想もしないだろうし、誰も納得しないだろう。香坂とて、実際に目にしても未だに信じられない。それよりも、信じたくないのだ。


「お前の意思で、驟雨と代わることはできるのか?」


 霖雨は首を振った。


「互いに了承していなければできない」
「なら、昨夜は」
「俺の意識が無い状態だから、驟雨が出たんだ」


 何処までも非科学的な話だ。頭が痛くなる。


「お前等は別の魂だと言っているが、それは別の人格という意味か?」
「いいや、人格ではない。あくまで別の魂だよ」


 人には肉体と魂、それを繋ぐ精神があるという。けれど、一つの肉体に二つの魂が宿ることはありえるのだろうか。頑なに二重人格ではないと主張する霖雨の心中など、香坂には解らない。
 解らないけれど、解る必要もないのだ。そう考えると体が軽くなったように思う。香坂は大きく背伸びをして、霖雨を見据えた。


「出掛けようぜ」


 そう言って微笑んだ香坂を見る霖雨は、驚いたように目を丸くした。何の脈絡も無く、突然切り出したその言葉の意味など理解できる筈もない。けれど、香坂は微笑んだままゆっくりと立ち上がった。


「天気がいいんだ。こんな室内に閉じ篭って暗い話をする必要もないだろ」


 すぐに背中を向けて歩き出す香坂は後ろで、微かに息を呑む音を聞いた。


「――うん」


 以前、霖雨に如何していつも空を眺めているのかと聞いたことがある。そのときに、霖雨はこの空を忘れたくないからと言っていた。恐らくきっと、霖雨は何らかの理由で何年か十数年か空の見えない室内に監禁されていたのだろう。そして、またいつか自分は其処に戻らなければならないと悟っている。
 けれど、それでも。
 此処にいたいと、初めて自分の意思で伝えた霖雨の言葉は嘘ではないから。
 ゆっくりと歩き出す香坂を追って来る霖雨が今何を考えているのかは解らない。だが、理解できないものや人と異なるものを否定して差別して何になるというのだ。
 玄関に置いてある大き目の麦藁帽子を二つ、自分と霖雨へ被せる。外は炎天下だ。二人分の飲料とタオルを持って、歩き出す。
 田んぼに囲まれた畦道で、用水路から微かに蟇蛙の声がする。遠くまで木霊する声は油蝉と蜩だろうか。車どころか人影一つ無い田舎道。無言で隣を歩く霖雨に、香坂は思い出したように言った。


「昔話を、してやるよ」


 俯いていた霖雨はついと顔を上げた。香坂は風に揺れる杉を遠目に見ている。


「あるところに、一つの家族があった。警視庁に勤める夫婦と、中学に入学したばかりの息子だ。その家庭は一見すると何処にでもあるようで、絵に描いたような普通で幸せな家庭だった」


 遠くを見る香坂の目が何を見ているのかなど、霖雨が知る由も無い。


「息子は反抗期真っ盛りでな、事有る毎に両親に反抗した。息子は気付いていたのさ、自分の家が決して普通なんかではないと。静かで厳しい父と、穏やかで優しい母。それが本当の姿ではなく、仮面だということに」
「……仮面?」
「夫婦は警視庁のある特殊な部署に所属していた。それは国家機密を取り扱う所謂諜報機関みたいなもんだ。それ故に口外してはならない秘密を多く抱え、自分や他者を騙す仮面を無数に持っていた。生まれ育った家だが、何処か余所余所しくてぎこちない家庭に嫌気が差していた。だからさ、家にも寄り付かず学校にも行かず、毎晩のように遊び歩いては喧嘩を重ねた。学校や警察に呼び出されるのはしょっちゅうだ。でも、夫婦は息子が馬鹿やる度にきちんと叱り、向き合って来た。そうして半年が過ぎた。事件が起こったのは、こんな風に暑い夏だった」


 目を細め、眩し過ぎる太陽を見る香坂の横顔は何処か哀しげだった。霖雨とて、これがただの作り話や冗談ではないと解っている。これはきっと、香坂の過去なのだろう。


「ある日突然、何の前触れも無く、息子が誘拐されたんだ。喧嘩で鍛えた腕っ節なんて、突付けられた銃口の前じゃ無力だ。殺されると、本気で思った。抵抗どころか声を出すことすらできなかった。そのまま車に押し込まれて、見たこともない廃屋に連れて行かれて……毎日暴力を受けた。毎日殴られて、毎日蹴られて、毎日煙草を押し付けられて、毎日銃口を向けられた」


 卑屈そうに喉を鳴らして笑う香坂の目は真剣だった。


「殺されると思ったらさ、何もできなかった。ただ只管、助けてくれと願った。今まで反抗して迷惑を掛け続けた両親や警察、学校の教師、友人、全てに願った。死にたくなかったんだ。こんなところで殺されるなんて真っ平御免だと思いながらも、自分じゃ何もできなかった。そうして暴力に怯える日々で、自分が如何して誘拐されたのか悟った。犯人が話していたんだ」


 香坂は足を止めた。


「この国の重要機密を、両親は幾つも抱えていた。その情報の提供こそが、犯人グループの目的だった」
「重要機密……」
「そう。今じゃそれが何だったのかすら解らない。でもさ、目的を知ったとき、安心したんだ。両親はきっと自分を助けてくれるって、思ったから。とんでもない額の身代金を用意させるなんてことになったら、両親は用意できない。でも、情報なら簡単だ。そのとき、俺はそう思っていた」


 馬鹿だよな、と笑う香坂の隣で、霖雨は掛ける言葉を何一つ持っていない。


「毎日の暴力に怯えながら、それでもきっと助けてくれると信じてた。それで、助かったら、真っ直ぐ親父とお袋の元へ行こうと思っていた。謝って、感謝して、抱き締めて……」


 香坂に表情はなかった。けれど、細められたその目は酷く寂しげで、涙すら零れ落ちそうで、霖雨は更に言葉を詰まらせた。ただ一言、香坂は零した。


「ただ、帰りたかったんだ」


 そうして香坂は背を向け、再び歩き出した。


「でもな、世界はそんなに甘くねぇんだ。俺は突然訳解んねぇまま病院に連れて行かれて、手術されて、目を覚ましたとき、俺の居場所は何処にも無かったんだ」
「え……?」
「顔面の整形手術さ。所謂闇医者がな、顔を変えやがったのさ。丁度、変声期ってこともあって、顔も違うし声も違う。劣悪な環境で行われた手術のせいで体中激痛に襲われて、地獄のような苦しみだった。その痛みの中で、全部理解した。両親は、俺を選ばなかった、と」


 霖雨は押し黙った。


「手術の痛みすら引かぬまま、路上に放置された。当然、警察に連れて行かれた。名前や住所を聞かれ、俺は掠れた声で警官に告げた。そうしたらさ、こう言ったんだ。そんな人間はいないって」


 そのときは、両親が自ら姿を消したと思った。そして、自分は捨てられたと感じた。自分の戸籍すら抹消され、やっとの思いで出た世界に自分の居場所は何処にもなかった。
 顔も声も違う人間を自分だと気付いてくれる人間は何処にもいなかった。


「身元不明の餓鬼なんざ、通常は施設行きだ。でも、幸か不幸か俺は警視庁のとある部署に引き抜かれた。両親が働いていた部署だった」
「じゃあ、そこで」
「いや」


 香坂は静かに首を振った。


「両親はいなかった。存在すらしていなかった」
「どういう、こと」
「……後になって調べて解ったんだ。両親は、この国に消された。そして、俺は口封じに引き抜かれたんだ」


 解るか、と香坂は言った。


「馬鹿みてぇだろ、下らねぇだろ。泣くことも驚くこともできなくて、笑うことしかできなかった。受け入れることはできず、向き合うことすら困難だった。……でも、それでも前を向くしかないんだ」


 それでも、前を向くしかない。それは何処か言い聞かせるような響きを孕んでいてた。
 霖雨は目を伏せ、口を噤んだ。


「香坂晋作、偽名だ。本当の名前は、もう思い出すこともできない。だから、お前が抱えてる不安や不満、悲哀や憎悪、滑稽さも解らなくはないんだ」


 振り返り、香坂は微笑んだ。


「いつか、お前も向き合えたらいい。受け入れることなんざできなくても、前向いて必死に走ってりゃ、いつか思い出に変わるだろ。過去のことなんざどうだっていいって思えるくらい、笑える今があればいい」


 そうだろう、と問い掛けた香坂に霖雨は微かに頷いただけだった。
 なら、君は笑えるの。そう問い掛けたかったけれど、香坂はきっと今必死に走っているのだろう。そう思ったら、何故だか少し安心した。




2010.8.2