酷い血の臭いだった。
 一寸先も見えない闇の中で、一体何が起こっているのか香坂には何も解らなかった。如何して自分が此処にいるのかも解らず、ただ何処からか漂う強過ぎる鉄の臭いに顔を顰めることしかできない。
 コンクリートの硬質な感触が履き慣れたスニーカーを通じて伝わる。微かな砂利を踏む感触と遠くに響く足音が何処か現実味を帯びていて、同時に懐かしいと感じた。
 此処はあそこにそっくりだ。
 そう理解したとき、体中に走った悪寒と粟立つ肌に苦笑する。あれから一体何年経ったというのだろう。もう十年も前のことを未だに体が、脳が覚えている。故に感じる恐怖を抑えることのできない未熟さを嗤った。
 歩調が自然と速くなる。自分の身体が震えていることは解っていた。此処から逃げ出したい。早く、速く此処から逃げなくてはならない。そうしないと――。
 そう考えて、香坂は止まった。そうしないと、どうなるのだ。
 自分の思考の愚かさと滑稽さに額を抑え、くつくつと皮肉そうに喉を鳴らして嗤った。何もかも遅過ぎるのだ。後悔も懺悔も祈りも叫びも、何もかもが届かない。


(もう、帰る場所なんて何処にもないのに――)


 理解した瞬間、底の見えない奈落に引き摺り込まれるような虚無感の中で目を閉ざした。すれば突然、足元にぽっかりと穴が空いて身体は落下を始めた。けれど、香坂は目を閉ざしたままだった。
 このまま地獄に堕ちても構わないと思った。どうせ、この世には端から未練なんてないのだ。大切なものも護りたいものも此処にはないから、居場所も帰る場所も何処にもないのだから、今更どうなっても構わない。むしろ、此処で死ねばあちらの世界で両親に会えるのではないだろうか。そう考えると、このまま死ぬのは酷く甘美なことのように思えた。
 けれど――。
 不意に脳裏を過ぎった霖雨の横顔。能面のような無表情と、泣き出しそうに儚い微笑み。それを思い出した瞬間、思ったのだ。


(――嗚呼、生きないと)


 あいつを独りにしてしまう。自分が生きていることが、彼の居場所になるのだ。だから、死ぬ訳にはいかない。
 無意識に伸びた手は何も掴まない。けれど、生きなければと強く思った。落下していく中で何か掴もうと伸びた手を、誰かが強く掴んだ。急停止した体が大きく揺れ、宙ぶらりんのまま見上げた先に酷く美しい青年が此方を冷たく見下ろしていた。
 其処で、意識が急浮上した。


「……起きたか?」


 夜の闇の中で、テレビの鮮やかな光がリビングを照らしている。薄く伸びた家具の影の中で、背中を向ける男が横顔を此方に向けていた。長い睫が白い頬に影を落としている。細められた切れ長の目は正しく触れれば切れてしまいそうな危うさを秘めていて、この男が霖雨ではないとすぐに悟った。


「驟雨……か?」
「ああ。随分、魘されてたな」


 クッ、と皮肉そうに口角を吊り上げる様はまるで悪童のようだ。年齢が幾つかは解らないが、その顔は実年齢よりも遥かに幼いだろう。香坂はソファに沈んだ体を起こした。ローテーブルに置かれたノートパソコンがスリープ状態になっていた。仕事を片付けている間に眠ってしまっていたことを思い出し、大きな溜息を零す。
 驟雨はぼんやりと窓の外を眺めている。闇の中にに薄く糸のような三日月が光っていた。


「霖雨は」
「寝てる。だから、俺が此処にいるんだ」
「霖雨が寝ていなきゃ、お前は出て来られないのか?」


 驟雨は緩く首を振った。


「あいつが望めば何時だって出るさ。今はただ、俺が出たかっただけだ」
「……主導権は、霖雨ってことか?」
「主導権も何も……」


 また、クッと皮肉に嗤う。驟雨の癖なのかもしれないなと、香坂は思った。


「これは元々、霖雨の体だ」
「何?」
「俺はただの居候だよ」


 益々訳が解らない。けれど、いとも簡単に驟雨は答えた。


「幽霊と言えば、解り易いのか?」


 香坂は言葉を失った。そんなものは信じていない。
 けれど、皮肉そうな笑みを浮かべたまま驟雨は闇夜に浮かぶ三日月を眺めているばかりだった。


「お前が、幽霊?」
「嘗てはお前と同じく自分の肉体を持った人間だ」


 驟雨の言っていることの理解ができない。けれど、とても嘘を言っているようには見えない。香坂はこの現実味を帯びない夢の中のような空間で、横顔を向け呟くように話す驟雨を見詰めた。


「この世に留まる理由は……、霖雨か?」


 つい、と驟雨は香坂に目を向けた。
 暫しの沈黙が流れた。笑いもせず、怒りもせず、無表情に驟雨は香坂を見ている。そして、はっきりとした口調で言った。


「そうだ」


 そう答えた驟雨の目に、香坂は金色の炎を見た。全てを照らす日輪のようで、今にも消えてしまいそうな火花のようで、それがこの驟雨と名乗る男を表しているようだった。


「俺はただ、霖雨を護りたい。ただ、それだけだ」


 それきり黙り込んでしまった驟雨は、再び窓の向こうへ目を移した。その背中は霖雨の体であるとはいえ余りにも細く頼りない。
 次第に項垂れた後姿から微かな寝息が聞こえ、香坂はその肩に上着を掛けてやった。目を覚ましたときにはきっと霖雨なのだろうけれど、こうして驟雨が現れた理由を思い、苦笑した。






Act.7 Cherish.





 礼のつもりなのだろう、と思った。日が昇っても眠りこける霖雨は目を覚ます気配すらなく、昨夜の膝を抱えた姿勢のまま動かない。首を痛めないのだろうかとも思ったが、疲れているのだろうと思いそっとしておいた。
 香坂は初めて、自分の過去を人に話した。そのお陰で、精神的外傷を直に抉るような悪夢に魘されてしまったが、驟雨は何でもない顔で香坂の傍にいた。
 自らを幽霊と言った驟雨は、言うなれば霖雨に憑依しているということなのだろう。オカルトには詳しくないので香坂には解らないが、別の魂というのはそういうことだろう。
 報告書を纏めながら、溜息を零す。こんな報告を果たして受け入れてもらえるのだろうか。不安に感じても仕方がないのだが、自然と零れる溜息に肩を落とす。
 霖雨を護る為だけに存在している幽霊。A国大使館襲撃事件の犯人は十中八九、驟雨だろう。あの事件が何故起こったのかはまだ解らない。けれど、霖雨を護る為だけにこの世に留まっているという驟雨が何の意味も無くあのような事件を引き起こすとは思えないのだ。
 そう深読みすればするだけ泥濘に嵌ってしまうような気がして、香坂は考えることを止めた。と、同時に玄関のチャイムが鳴った。重い腰を上げて向かった玄関、扉を開いた奥で見慣れた青年が此方の気も知らず暢気に微笑んでいる。


「おはようございます、香坂さん」


 追い返してやりたい気持ちは山々だが、彼を此処に呼んだのは香坂自身だ。先日の少年等の襲撃事件の後始末から、驟雨と呼ばれる男の詳細についての報告を兼ねて呼んだのだ。
 勝手知ったる他人の家とはよく言ったものだ。此方の言葉なんて聞こうともせず、ずかずかと侵入して行く後輩の後姿を呆れながら見詰めていた。だが、樋口がリビングまで入ったところで、其処に霖雨がいることを思い出して慌てて後を追った。
 先日の二の舞にはするものかと声を掛けようとすれば、入り口で足を止めた樋口は目の前の男を見て立ち尽くしている。


「……小僧、久しぶりだな」


 無表情にそう言い放ったのは、驟雨だった。
 眠っていたのは霖雨だった筈だ。けれど、其処に立っているのは間違いなく驟雨。樋口の存在を知って霖雨と代わったのだろうかとその様を見ていれば、樋口が可笑しそうに言った。


「成程、これは、信じられねぇや」


 口角を吊り上げた樋口はまるで可笑しくて仕方がないとでも言いたそうに無表情の驟雨を見ていた。驟雨は興味も無さそうに樋口を一瞥するとまた其処に座り込んで、窓の外を眺める。
 振り返り、樋口は問い掛けた。


「こいつが、A国大使館襲撃事件の犯人ですか?」


 香坂は答えなかった。まだ、直接訊いた訳ではない。けれど、ついと顔を上げた驟雨が此方を見て、にやりと笑ったのを見て確信した。
 答えない香坂を尻目に、樋口は驟雨に言った。


「改めて、俺は樋口リョウ。あんた、名前は」
「櫻丘驟雨」


 冷たく睨む驟雨などお構いなしに、樋口は更に続けた。


「霖雨はどうしたんですか?」
「寝てる。暫くは目を覚まさない。……お前等が知りたがってる情報は、全部俺が持ってる。今なら、答えてやらなくもないぜ」


 香坂には驟雨が解らない。この男が何を考えているのか全く読めないのだ。
 樋口は笑みを消し去り、尋問を始めた。


「お前のことについて、解る範囲で答えろ」
「……その前に」


 と驟雨が言い放った瞬間、その体は低く駆ける閃光のように樋口の胸倉を掴んだ。瞬きすら間に合わない一瞬、樋口の体は固いフローリングに叩き付けられた。
 鈍い音がした。腹這いに押さえ付けられた樋口の利き腕である右腕を捻り上げ、背中に乗り掛かった驟雨の目は酷く冷たい色をしている。抵抗すら出来ぬように全ての自由を奪いながら、驟雨の空いていた手は命を奪うかのように首筋を押さえていた。


「――おいっ! 驟雨!」
「先日の礼だ。……覚えておけ」


 首筋を押さえる手に力が込められる。樋口が微かに息を呑む奇妙な音が聞こえた。


「お前みてぇな餓鬼一人殺すのなんて、訳ねぇんだぜ?」


 驟雨の手に込められている力は本物だ。反射的に香坂は気配も無く驟雨の横に立ち、その体を思い切り蹴り飛ばしたつもりだった。だが、驟雨は猫のように軽々とそれを避けるとまた元の場所に戻り、くつくつと喉を鳴らして笑った。
 咳込みながら立ち上がる樋口は、先程まで押さえ付けられていた首筋を摩っている。其処には青黒い五本指の痕がはっきりと残っていた。


「テメェ……!」


 武器なんて無くても、警官である樋口を殺すことなど赤子の手を捻るも同然だと、言っているようで背筋が寒くなる。驟雨の浮かべる笑みが深くなればなるほどに恐ろしさを覚えるのは当然だろう。
 殺されかけた樋口は驟雨を睨み付けているが、その目にはいつもの余裕はなかった。このままでは拳銃さえ出しかねないと思い、香坂は二人の間に立った。


「悪ふざけが過ぎるぞ、驟雨!」
「これくらいいいだろ。殺した訳じゃあるめぇし」
「この、殺人鬼が……!」


 苦々しげに樋口が言った。驟雨は笑みを浮かべた。


「粋がるなよ、青二才。お前じゃあ役不足だ。……こいつを使ったとしても、な」


 そう言って驟雨は拳銃を見せた。はっとして樋口が自分の胸倉を探すが、すぐに驟雨を睨み付けた。


「驟雨」
「……んな、睨むなよ」


 なんでもないかのように投げ渡した拳銃を受け取り、樋口は悔しそうに唇を噛んだ。驟雨は終始笑っている。悪戯をした悪童のように。そう、彼は遊んでいるのだ。けれど、遊びで許されることと許されないことがある。
 樋口の横を影が通り抜けた。次の瞬間、鋭い風切音と共に香坂の右足は驟雨の顎先に突付けられていた。


「好い加減にしろ、遊びに来た訳じゃねぇんだ」


 驟雨はやはり笑みを浮かべたままだったけれど、その笑みは一層愉しげに歪められた。
 役不足とは、香坂への言葉だ。驟雨はまだ遊び足りないとでも言いたげな目をしていたが、それ以上相手にすることもせずに香坂は背中を向けた。


「……お前に訊きたいことがある」


 一つ咳払いをして、樋口は言った。乱れたネクタイを正しながら目は真っ直ぐ驟雨を見据えていた。


「二年前、A国大使館が襲撃を受けた。其処にいた職員二百九十二名が何者かによって惨殺された」
「ああ」
「身に覚えは?」
「……大使館ってのがどういうものかはよく解らねぇが」


 その瞬間、驟雨の顔から笑みが消えた。代わりに張り付いた能面のような無表情に、香坂は背筋が寒くなるのを感じた。


「俺だよ、やったのは」


 冗談を言っているようには見えない。樋口は眉を寄せ、静かに「そうか」とだけ言った。香坂は何も言わなかった。否、言えなかったのだ。
 驟雨の犯行だろうと確信はしていたけれど、そうであって欲しく無かったのだ。その理由も、香坂は既に気付いている。
 樋口はポケットから携帯電話を取り出し、慣れた手付きで番号を押す。繋がる向こうは警視庁だろう。
 香坂は無表情の驟雨を見た。彼が何を考えているのかは解らないし、正直、彼がどうなろうと知ったことではない。事実、彼は罰されるべき殺人犯だ。けれど。


「樋口」


 香坂は樋口の携帯電話をそっと奪い、電源を切った。驚いた顔を向ける樋口に、ばつが悪そうに香坂は目を伏せた。


「香坂さん! 何するんですか!」


 携帯電話を取り返そうとする樋口から遠ざけるようにして、香坂は言った。


「動機も証拠の明らかになっていないのに、突き出してどうする。それじゃ事件の解決にはならない」
「そんなことはもうどうだっていいんです。こいつを逮捕してから、聞き出せばいい」
「逮捕して二年掛かっても、こいつを逮捕できなかったんだ。また、同じ轍を踏むのか?」


 樋口は押し黙った。けれど。


「どうして、こいつを庇うんですか?」


 香坂は眉を寄せた。まるで、心外だとでもいうようなその態度に樋口も眉間に皺を寄せる。


「こいつがどうなろうが俺には関係無い。……俺はただ、知りたいだけだ」


 真実を知りたいのだと、香坂は言った。
 暫し、重い沈黙が流れた。樋口は大きな溜息を零し、肩を落とした。


「香坂さんは、甘過ぎますよ」


 そう言って携帯電話を取り返しても、樋口はポケットにしまい込んで、もう電話を掛けようとはしなかった。
 そんな二人の遣り取りを見ていた驟雨は苦笑し、再び窓の外へ視線を戻した。


「ありがとよ」


 素っ気無く言い放った言葉が驟雨のものとは思わず、樋口は耳を疑った。けれど、香坂は「別に」とぞんざいに言い捨てる。
 驟雨を庇った訳ではないのだ。驟雨が犯した罪によって、どんな罰を受けようが構わない。けれど、そうはいかないのだ。罰を受けるのは霖雨だ。間違いなく死刑を執行されるだろう男は、自分の名前以外の何一つ知らない霖雨だということが、香坂をこのような行動へ向かわせた。
 二年間、警視庁の地下で拘留されていたのも霖雨だ。体中の傷を受けたのも霖雨だ。
 此処で驟雨が逮捕されても、霖雨はまた何処かに監禁されるのだろう。秘密裏に殺されるのかもしれない。そんなことはさせたくない。
 霖雨は願っただけだ。此処にいたいと、この空を忘れたくないと、そう願っただけだ。どうして霖雨が罰を受けなければならないのだ。


「俺も、お前と同じだよ」


 ポケットから煙草を取り出して、香坂は笑った。火を点けながら思い返すのは泣き出しそうに儚い霖雨の微笑みだった。


「俺も、あいつを護りたいだけだ」


 此処にいたいと霖雨が願った。此処が霖雨の居場所ならば、自分は此処にいなければならないと思った。けれど、それだけじゃない。霖雨のいるこの場所こそが、香坂にとっての居場所になっていた。
 人の温もりに触れたのが久しぶり過ぎて、気付いたらそれが手放せなくなってしまっただけだ。ミイラ取りがミイラだな、と笑い、煙を吹かす。
 樋口は困ったように笑う。利口な彼のことだから、きっと全てを理解しているのだろう。


「相変わらず、馬鹿な人だ」


 余計なお世話だ、と言い返そうとして香坂は目を伏せた。
 驟雨はきっと、試したのだろう。此処で自分がどうするのか見たかったのだ。そして、選択肢によっては自分達を殺してでも逃げたのかも知れない。
 そう思って驟雨を見るが、その横顔は窓の外を眺め、心中を窺い知ることはもうできなかった。




2010.8.10