「俺のことを話す前に、霖雨のことを教えてやるよ」


 不意にそう言って、驟雨は立ち上がった。意味を掴み兼ねた香坂と樋口が揃って眉を寄せるのも構わず、驟雨はそっと瞼を下ろした。酷く整った顔立ちだが、その面は血が通っていないのではないかと思う程に白い。長い睫が重なり、体がすっと傾いた。
 咄嗟に香坂が、その体を受け止めようと動き出す。けれど、そのとき。


「あ、あ、ああああ……」


 猫のような大きな目が開かれ、薄い体が怯えたように香坂から離れようと後ずさる。其処にいるのは既に驟雨ではなく、霖雨だった。けれど、彼がこんな風に動転する様を短い付き合いとはいえ一度たりとも見たことがなかった。
 香坂も動揺したのだ。伸ばした手は霖雨には届かず、掴まれることもなく虚空を掴んだ。


「い、や、だ……いやだ……」


 掠れるような声で、必死に自分を抱き締める。体をくの字に曲げて自分の爪先を睨むような格好で震える霖雨が見ていられなくて、香坂は手を伸ばすがそれが取られることはなく。
 何が起こったのか解らない。けれど、霖雨は香坂の伸ばされた手を視認しながらも取ろうとしない。その意味は。


「――いやだぁ!」


 血を吐くような悲鳴だった。縋りつくような目で周囲を見回し、その男を探す霖雨は今まで見て来た彼の姿とは余りにも異なった。まるで、迷子のようだ。母の姿を探す幼子のようで、痛々しい。
 香坂は何もできなかった。それは、樋口も同じだ。けれど。


「これが、霖雨の全てだ」


 その聞き覚えのある声は、有り得ない方向から聞こえた。
 殆ど反射的に声の方向を見れば、つい先程まで霖雨の体で話していた筈の男が平然と立っていた。けれど、その姿は黒い着流しを粋に着崩した、言うなれば時代劇の登場人物のような風体だ。けれど、其処にいるのは間違いなく驟雨その人で。


「お前、驟雨?!」
「ああ。姿くらいなら、見えるだろう」


 意味深なことを言って、驟雨は霖雨の正面まで歩み寄る。怯えたように俯きしゃがみ込んだ霖雨の背を優しく撫でながら、その顔をそっと覗き込んだ。


「霖雨、俺は、此処だ」


 幼子に言い聞かせるように優しく語り掛けると、肩を大きく揺らした霖雨が顔を上げる。その面はただでさえ血の気がなく真っ白だったというのに、死人のような蒼白に変わっていた。驟雨の顔を確認すると二度と離すまいと強く腕を握り締める。


「落ち着け。此処はもう――、あそこじゃないんだ」
「解ってる、解ってる! けど!」
「解ってない。……見ろ。此処にいる人間は、お前を傷付けたりしない」


 霖雨はゆるく顔を上げ、周囲を改めて見回した。以前、霖雨をフローリングに叩き付けた樋口がいる時点で説得力は無かったけれど、香坂の姿を見て大きく息を吐き出した。
 酷く真剣は目で、驟雨は言った。


「それに、俺がいるだろう」


 危うく過呼吸になりそうな荒い息をどうにか落ち着けるが、霖雨はとても話をできる状況ではなかった。その目は亡羊とフローリングを見詰めているけれど、両手はしっかりと驟雨の着流しの袖を掴んでいる。
 その奇妙な格好のまま、驟雨は口を開いた。


「俺は所謂、幽霊みたいなもんだ。自分の意思で霖雨の体から離れることができるが、肉体を持たないとても弱い存在だ。霖雨に対してのみ、触れることができる」


 香坂の隣で樋口が、オカルトは専門外だと呟いた。全く同意見だと、香坂も思った。
 驟雨は静かに目を閉ざし、そのままゆっくりと霖雨の中に溶け込んでいった。同時に目を閉ざした霖雨の眦から一粒の雫が零れ落ちる。すぐさま目を開けたとき、其処には驟雨は立っていた。


「……あるところに、三人の家族があった」


 突然語り始めた驟雨の頬には、霖雨が零した涙が張り付いたままだった。けれど、それすら構わず続ける驟雨は無表情で、香坂や樋口の疑問に答えるつもりはこれ以上無いようだった。


「形だけの家族だ。すぐに手を上げる父は、毎日のように母と幼い息子を口汚く罵り、殴った。熱湯を浴びせることもあれば、意識を失うまで水の中に沈めたこともある。ときには息子の前で母を強姦した。幼かった息子に悪戯したこともある。そんな、どうしようもない男だった」


 遠い過去を見詰めるように驟雨の目は細められた。香坂と樋口の沈黙が室内の静寂を重く冷たいものへと変えている。けれど、二人はその話を遮ることなどできなかった。


「家はとても貧しかった。母の僅かばかりの稼ぎは父の酒代へと消えて行く。けれど、その中で母は必死に息子を護り、育てた。……俺が出逢ったのは、その頃だ」


 今でも、その当時の霖雨を覚えている。子どもながらに整った顔は今と変わらず、けれど、纏った衣服は端切れを縫い合わせた襤褸布のようで、体中に刻まれた傷痕に驟雨は言葉を失くした。


「汚ねェ餓鬼が、俺のことをじっと見詰めてた。俺のことに気付く人間なんて初めてだったから、驚いたの何のって。しかも、怖がるどころか歩み寄って来て、力無く笑ったんだ。どうしてこんなところにいるの、何か嫌なことがあったの、お腹空いてない、なんて」


 くつり、と驟雨は笑った。


「人と話ができるのが嬉しかった。餓鬼の質問に一々答えていたら、次の日も、次の日も来るようになってやがった。俺自身、それを楽しみにしていた。他愛の無い話ばっかりだったけどな、その中で餓鬼の置かれている状況を知った。聞いてる内にだんだん腹が立って来てな、なんとかして助けてやりてぇってそればっかりとずっと考えてた」


 初めて浮かべた微笑は酷く悲しげだった。


「でも、俺は生きてる人間じゃなかったから、何もできなかった。毎日新しい傷を作って来る餓鬼を見ながら、何もできない無力感をひしひしと感じた。弱音一つ吐かないその姿が酷く悔しかった。


 まだ六つ程だろうか。傷の上に傷を重ねながら、何でもないかのように笑うその姿が酷く痛々しかった。良いことなど一つもないだろう毎日の中で、庭で蒲公英が咲いていただとか、紋白蝶を見つけただとか、些細な話を並べていた。


「どうにかしてやりたくてさ、その家を見に行ったこともあった。凄惨だったぜ。こんなところで人間が生活できるのかと思ったよ。父の暴力から息子を護るように必死に母が抱いていた。酒が回って来ると暴力は増して、母の腕の中の息子を引き剥がして水を張った桶の中に頭を沈めるんだ。縋り付いて許しを請う母を蹴り飛ばして、噎せ返る息子を壁に叩き付ける」


 其処で、驟雨は額に手を当てて小さな声で笑った。


「こいつは人間じゃねぇ、獣だ。そう思った。このままじゃ、餓鬼も母親も殺される。何とかしようと思ったが、俺の声も手も届かねぇ。……意識を失う寸前にいた霖雨だけが、こっちを見て微笑んだ」


 今で言うドメスティックバイオレンス、所謂、家庭内暴力だ。けれど、其処まで悪化したケースは殆ど聞いたことがない。今はあらゆる場所に警察が配置され、すぐに通報される。疑わしきは罰せずが何時の間にか罰せよに変わって来た世の中だ。香坂には、俄かに信じ難かった。


「それから一月と経たない内に、変化が起こった。あの凄惨な家に、びしっとした洋装の若い男が訪ねて来たんだ。……口減らしって、解るか?」


 香坂と樋口は一斉に頷いた。驟雨は口元に笑みを残したまま、続けた。


「男はさ、餓鬼を買いに来たのさ。女だったら高く売れたのに、なんて父は漏らしてたけどな、あの相貌だ。余程高く売れただろう。鼻歌なんて歌ってやがった。反対に、母はこの世の終わりみてぇな顔してたけど」
「そんなものが、まだ、本当にあるのか……?」
「ああ。事実、あったのさ。俺はさ、どんなところだろうと此処よりはマシだと思った。だから、霖雨は救われると思ったんだよ、単純に。でもさ、その家から連れ出した男が言ったんだ。お前は売られた、いらない子どもだ、このくらいしか使い道がないんだから逆らうな、逆らえば母親を殺すってね」


 驟雨の顔が苦しげに歪んだ。


「叫んだんだ。逃げろって、行くなって、何度も叫んだんだ。例えあの家から出られても、霖雨はちっとも救われない。それどころか、今度は護ってくれる母もいない」


 逃げろ、霖雨、逃げろ!
 行くな! 行っちゃ駄目だ!
 そんな叫びは霖雨には届いていただろうけれど、母親を殺すと言われれば逆らえる筈もなく、霖雨はそのまま売られていった。最後に母親が名を呼んだ。泣き叫ぶような声で霖雨と。それが最初で最後。振り返った霖雨は微笑んでいた。


「本当の地獄は其処からさ。連れて行かれた先は一筋の光も差し込まない密室。闇に蠢く無数の気配。冷たい布団の上に投げ出された霖雨に伸びる無数の手と荒い息。男だろうが女だろうが関係無かった。……何をされたか、想像できるだろ?」


 香坂は、ぎゅっと目を閉じた。自分の精神的外傷がフラッシュバックしそうで眩暈がした。けれど、霖雨が受けたのは殴る蹴るという暴力だけではない。
 驟雨の拳は強く握り締められていた。


「それから、十年だ。想像できるか、十年に及ぶ暴力と陵辱の日々。泣き叫べば殴られ、手を伸ばせば踏み付けられた。……俺は、霖雨の名を呼び続けることしかできなかった……」


 目の前で傷付けられて行くその様を見ていることしかできない虚しさや悔しさなど、香坂には解らない。こうして過去に起こった事件を聞き、過去だと解っているのに、どうして自分は今その場へ行くことができないのかと苦しく思った。


「暴力の合間に、俺は霖雨に話し続けた。いつか必ず、助けてやる。お前を傷付ける何者からも護ってやる。だから、諦めるな。そればかりを繰り返していた。それから、霖雨はずっと俺を呼んでいたんだ」


 驟雨、驟雨、驟雨。
 名を呼ぶだけで、触れることも出来ない腕に必死に手を伸ばしていた。


「あいつは、助けてとは一度も言わなかった。それでもずっと、願っていたんだ。誰でもいい、誰か助けてと」
「……誰でもなんて思ってる内は、誰も助けてはくれませんぜ」


 皮肉そうに呟いた樋口を、何の感情も含まない顔で驟雨は見詰めた。


「じゃあ、あいつは誰に助けを求めたらよかったんだ?」


 助けを求める存在も知らず、助けてくれる人もいなく、けれど、自分が助かれば母親が死ぬ。
 あのとき、伸ばされた手が香坂のものだと知りながらも霖雨は掴もうとしなかった。何処にもいない驟雨を探して、けれど、助けてと言うことはできぬまま。


「その世界が閉じたのは、突然だった。霖雨は知ってしまった。テレビの中で、父が母を殺し、射殺されたということを」


 そんな事件もあった気がすると、記憶の奥で樋口は思った。けれど、それは今では有り触れた悲劇の一つでしかないのだとも思ったが、人一人の人生を崩壊させるには十分だ。


「それから霖雨は絶望の中に堕ちた。光の無い地獄のような毎日。死にたかったんじゃねぇかな……。その中で初めて、霖雨が言ったんだ」


 驟雨は目を伏せた。


「助けて、って」


 それが全ての始まりで、全ての終わり。引き金を引いたのはそのときだったのだ。






Act.8 Help me.





「……気付いたときには、辺りは血の海だった」


 暴行し続けた男達は一人残らず惨殺されていた。手には真赤に染まったカッターナイフ。
 血の海の中で立っていたのは霖雨ではなかった。ブラウン管の明かりに照らされて鏡に映ったのは、霖雨ではなく、驟雨だった。


「それが、初めて霖雨の中に入ったときだ。俺も訳が解らなくてさ、まさか自分が霖雨の中にいるだなんて思い付きもしなかった。だから、必死に霖雨を探して、探して……見てしまった」


 話に聞き入っていた香坂の喉がごくりと鳴った。驟雨は二人を見る。


「あれが恐らく、お前等の言う大使館だったんだろう。……俺はさ、異国の人間に対してお前等には想像もできない恨みがある」


 霖雨も見付からず、混乱する頭で見てしまったのがその異国の人間。あの惨劇は故意に引き起こされたものではないのだろうと、香坂は思った。


「気付いたら、殺してた。悪ぃが、そうとしか言えない。血溜まりの中で暫く立ち尽くして……漸く気付いた。霖雨は此処にいるって」


 くつくつと喉を鳴らして自嘲するように額を押さえる。滑稽だろう、と驟雨が呟いた。


「俺はただ、助けてやりたかったんだ。護ってやりたかった。お前等になんて、解るものか」


 自分に助けを求め続ける霖雨の声を聞きながらも、何もできなかった。ずっと、霖雨は呼んでいたのに。
 それでも、手を伸ばすこともできずに、闇の中で傷付いた霖雨を励ますことしかできなかった驟雨の悔しさや歯痒さは誰にも解らない。


「……その事件の後、俺は意識を失った。次に覚醒したのは霖雨で、見ればまた、空も拝めない冷たい箱の中だ。警察だと名乗った奴等に身動き一つできないように拘束されて、何も解らない霖雨に詰問して、挙句にまた暴力だ!」


 驟雨は無表情だったけれど、その目に深く燃える炎は怒りだった。


「どうしたら、霖雨を救えるのか解らなかった。霖雨ももう、助けてとは言わなかった。ただ、もういいよと許容するだけだ。死にたかったあいつを死なせてやることもできず、俺はまた、見ていることしかできなかった」


 だから、だろうと香坂は思った。驟雨が霖雨を護りたいと思うのはエゴだ。けれど、闇の中から漸く出ることのできた霖雨をこれ以上傷付けたくないと、もうあんな思いはしたくないしさせたくない。そう思うのは酷く純粋なことのように思えた。


「そうしたらさ、突然、お前の家に連れて行かれて、一緒に生活しろなんて言われた。俺達は何の希望も抱いちゃいなかったよ。事実、お前は霖雨に庖丁を突付けて脅して来やがったし」
「あんた、そんなことしたんですか……」


 言われて香坂は苦い顔をした。


「でも、俺はお前に感謝しているんだ」


 張り詰めていた糸が緩むかのように、驟雨は微笑んだ。


「ぶっきら棒だけど、当たり前のように受け入れてくれる優しさに救われたんだ。生家ですら言えなかったのに、霖雨は初めて自分の願いを口にした。此処に、いたいと。だから……、お前等は認めねぇだろうけど、あの襲撃事件にも意味があったと思っちまう」


 そうして浮かべた悪童のような笑みを毒気を抜かれるような気がした。その笑顔は、決して大量殺人犯のものではないのだ。


「お前に逢えて、良かった。霖雨の分も言わせてもらう。ありがとよ」


 助けてと伸ばし続けた霖雨の手を漸く取ることのできた驟雨は、きっと何があっても離すことはしないだろう。共依存という奇妙な形を見せる彼等は酷く滑稽で、哀れで、虚しい。けれど――、何処か美しく。
 何も答えぬまま背を向け、香坂はキッチンへと入って行った。照れ隠しだと気付いただろうが、二人は何も言わずに微笑を浮かべただけだった。




2010.8.11