これは、彼等への裏切りになるのだろうか。
 驟雨の話を聞き終え、それら全ての情報を余すことなく記録していく。香坂が今、彼等と生活しているのは仕事だからだ。この生活の中で知り得た情報は全て報告しなければならない。報告を終えた後で彼等がどうなるのかは解らない。けれど、ただでは済まないだろう。彼等は生きていてはいけない存在である。処刑を免れたとしても、二度と日は拝めない。
 自分の言葉が一人の人間の人生を終わらせてしまう。今までも極秘情報を取り扱う仕事をこなして来たけれど、此処まで判断力が鈍ることはなかった。


(対象が、近過ぎる)


 必要以上の接触は避けて来た。情が移れば碌なことにならない。それに何より、香坂がこうして働いているのはクールともドライとも取れる他人への無関心を評価されてのことだ。持ち帰った情報を理由に人が死んでも興味を持たない冷徹さが向いていると言われた。
 けれど。


――お前に逢えて、よかった。


 常軌を逸した大量殺人犯でありながら、真っ直ぐに感情をぶつけて来るその強さと。


――此処に、いたいよ


 初めて告げたその優しいが故の脆さを併せ持つ彼等を、如何して切り捨てることができるというのだ。十年もの間、人との繋がりを避け続けて来た香坂にとって漸くできた繋がりだ。それも、彼等は余りに儚く余りに弱い。自分がいなければたちまち消えてしまうかのような風前の灯。
 これを庇護欲というのか知らない。けれど、護りたいと願ったのは事実だ。
 作成した報告書を前に、メールの送信をクリックする人差し指が動かない。まるで凍り付いたかのようなその固さに零れる溜息は自分の甘さに対してだ。隣で携帯ゲームに熱中している樋口が、此方に意識を向けているのは気配で解るけれど、指が動かないのも事実。


「報告、しないんですか?」


 白々しい、と香坂は思った。逆の立場だったとして、樋口だって同じように躊躇しただろう。だから、今も報告しないでいる香坂を責めたりしない。


「驟雨の言っていることが真実とは限りませんよ。それに、例え事実であったからと言って報告しなくてもいい訳じゃない」
「そんなことは解ってる。……だが、あれが嘘だとするなら驟雨は何にメリットができるんだ?」
「同情、でしょう。先輩は、如何して驟雨があのような話をしたと思うんですか」


 聞き返されて、香坂は押し黙った。
 感情移入はするべきではない。判断力が鈍ってしまう。必要なのは機械のように正確に作業をこなす冷静さだ。そう思い込み、一思いに報告書を送信した。樋口が横目にそれを見たが、何も言わなかった。
 痩せた月が薄雲を越え、淡い光を下ろしている。街灯一つない外は真っ暗で、満点の星空がいつもに増して美しく見えた。傍の雑木林から蝉の声が響いている。夜風に当たりながら、霖雨は目を閉ざして耳を澄ませていた。


「霖雨」


 明かりを消した室内で、気配もなく驟雨が佇んでいる。霖雨は薄く目を開け、その姿を確認すると微笑んだ。


「……あいつ等に、話した」
「うん」
「あいつ等は、お前を軽蔑したり、幻滅したりしない」
「うん」
「だから、霖雨……」
「なあ、驟雨」


 驟雨の言葉を遮って、微笑んだ霖雨は再び窓の外に視線を動かした。月光に照らされた横顔は透き通るように白く、このまま霧散してしまいそうな儚さを帯びている。


「香坂がね、此処にいていいって、言ってくれたんだ……」
「うん」
「嬉しかったんだよ……」


 そう言って、霖雨は抱えていた膝に顔を埋めた。霖雨の感情一つ一つが細やかに、驟雨の中にも流れ込んで来る。泣き出したいような、笑い出したいようなくすぐったい感情だ。けれど、それは決して不快なものではない。
 驟雨も、つられるように微笑んだ。


「知ってる」


 何がしたいとも、何がしたくないとも霖雨は口にしたことがない。欲求が満たされることはないという諦観と発することによって降って来る暴力への恐怖。一つ一つの感情が備に驟雨の中には流れ込んで来た。霖雨が笑うのは、幼い頃に生家で共に暮らした母を心配させない為だ。霖雨が泣かないのは、父やあの男達に必要以上の暴力を受けないで済む為だ。
 けれど、驟雨の前で少しずつ涙を零せるようになった。それは、怖いから、悲しいから、嬉しいから。そして、驟雨に助けて欲しいから。だから、驟雨はそうして縋り付いた手を突き放すことは絶対にしないと誓った。もう、これ以上霖雨が傷付く必要なんてない。
 それ以上、霖雨は言葉を繋ぐことは無かったけれど、驟雨は黙ったまま隣に佇んでいた。朝が来ても、夏が終わっても、冷たい冬が来ても、どんな運命が霖雨に降り注いでも、決して傍を離れないと誓った。彼が幸せであるようにと、願った。


 ――そうしていつか、祈りは届くと信じている。






Act.9 Are you happy?





 大きな麦藁帽子を被って、しゃがみ込んで道脇にある用水路を覗いている図は何だかシュールだと思った。
 午後二時頃に寝癖の残る頭で部屋から出て来た霖雨は明らかに寝起きといった調子だ。亡羊とした目で何処を見ているのかもはっきりとしないけれど、久々に見る驟雨ではない霖雨につい噴出してしまった。樋口は呆れた顔で見ていたが、霖雨は何処吹く風で洗面所に行って顔を洗っている。
 少しずつ人間らしさを見せるその姿が、まるで自分達への信頼だと言っているようで、香坂は微笑んでしまう。
 いつだって受動的だった霖雨は、自分で何がしたいという主張をしない。何がしたいと訊いても答えることができない。けれど、例えば腹は減っているかとか、眠くないかとか、イエス・ノーで答えられる質問ならば頷くし首を振る。その変化が、とても嬉しいのだ。
 顔を洗ったまま拭いもせず、濡れた顔のまま何をするかと思えば一日の最高気温である時間にサンダルを履いて、ジャージと半袖シャツのまま外に出ようとしていた。此処で止めれば、この信頼関係が逆戻りしてしまうような気がして、玄関に置いてあった麦藁帽子を乗せてやった。霖雨は一度振り返ったが、やはりぼうっとしたまま出て行ってしまった。
 それから、用水路をじっと眺めたまま動かない。


「……何を見てるんですかね」


 パソコンに向き合ったまま、樋口は言った。香坂もまたディスプレイから目を離すことなく「さあな」と短く返す。実際、霖雨が何を見ているのかなんて解らない。解らないけれど、自ら進んで何かをしに行くというのは初めてだ。
 口元に笑みを残したまま、香坂はキーボードを打ち続けた。
 外は相変わらずの灼熱だったが、霖雨はじっとしている。午後四時を越えれば僅かに日が傾いて来たと感じるが、それでも気温は殆ど下がっていない。朝から飲まず食わずで外に出た霖雨のことが流石に気になって、サンダルを引っ掛けて出てみると、数歩と歩かない内に汗が出た。
 砂利を踏み締め、霖雨の後ろに立つが振り返ることもない。


「何を見てんだよ」


 漸く振り返った霖雨は、帽子の影になっていても解るくらい赤い顔をしていた。白い腕はほんのりと赤くなっている。傷は日焼けすると痕が残る。幾ら男だとはいっても、日焼け止めを塗ってやるべきだったと後悔した。
 霖雨は覗き込んでいた用水路を指差す。同じようにしゃがみ込んで覗くと、透き通る水の中に小さく黒いものが無数に見えた。


「これ何?」
「あー……田螺だろ」


 円錐形の貝だ。生まれも育ちも都会である香坂は生まれて初めて見た。よく見れば田螺の他にも、すいすいと泳ぐ黄緑色の雨蛙、流れに逆らって泳ぐ御玉杓子、黒い蛞蝓のような馬蛭。小石には緑色の藻が張り付いているけれど、流石に名前は解らない。
 時折吹き抜ける風の音と、遠く響く蝉時雨。この大自然の中で霖雨が何をしていたのか、解った気がした。
 見るもの触れるもの全てが霖雨にとっては宝物なのだ。太陽の傾きも、流れる雲も、揺れる稲の穂も、焼けた白い砂利も、こうして水に住まう生き物達も、全てが霖雨にとっては新鮮で、愛しいものなのだろう。


「全部、生きてるんだね」
「あ?」
「こんなに小さいけど、此処で生きているんだね」


 この小さな世界で、懸命に生きている。
 そう言いたいのだろうか。香坂は眉を顰め、霖雨の横顔を見た。此処に生きる田螺と自分を重ね合わせているのだろうか。此処から出られない、こんなちっぽけな存在に――。


「哀れだと、思うか?」


 乾いた声で問い掛けた香坂に、霖雨は少しだけ驚いた顔をして、言った。


「如何して?」


 そうして、笑ったのだ。それは今まで見たこともない、何処か子ども染みた無邪気な笑顔だ。不意に心臓がドキリと鳴った。
 霖雨はまた水面に目を戻した。


「此処は、大きな川に繋がってた。行こうと思えば何処にだって行ける。それでも此処にいるのは、此処がきっと心地良いからだよ」


 決して水中に手を沈めることなく、その小さな命たちの生活を乱すこともなく、ただ傍観している姿が霖雨そのもののようで、胸の中にじわりと温かい何かが広がったように感じた。


「俺達にとってはとても小さいけど、彼等にとっては素晴らしい場所なんだろう。好きな場所で好きなように生きられるっていうのは、すごく幸せなことなんじゃないかなぁ」


 誰かを傷付けることもなく、誰かに同情することもなく、こんな小さな生き物の幸せを喜べるこの男は一体何なのだろう。
 驟雨が傍を離れてしまえば幼子のように怯え泣きじゃくるこの男は、一体何なのだろう。弱くて儚くて、脆くて可哀想で、けれど、酷く優しく強く、美しく生きている。
 この子どものような純粋さと、仏のような優しさは、一体何処から来ているのだろう。如何して笑えるのだろう。如何して妬まないのだろう。
 灼熱の太陽が嘲笑うかのように照り付ける中で、汗一つ零さない霖雨にぞっとして香坂はその首根っこを捕まえると引き摺るようにして家へ戻った。発汗できないのは危険信号だ。日射病でも引き起こしているのだろうかとスポーツ飲料をがぶ飲みさせ、冷房を聞かせた室内で横にならせた。それでも窓の外を見る霖雨は寂しげだったけれど、また明日も見に行けばいい。そう思って、寝かせておいた。
 やがて日が傾き、八時を過ぎれば外はいよいよ暗くなった。一日中部屋に引き篭もって、パソコンに向き合って仕事をしていた樋口は大きく背伸びをした。関節がパキパキと乾いた音を鳴らす。
 何の気なしにテレビを点ければ、華々しいセットの中で暢気に笑う芸能人と呼ばれる人々が談笑していた。すっかり置物になっているテレビだ。名前など殆ど解らないが、現実離れした世界が酷く滑稽に見えた。


「子どもみてぇ」


 可笑しそうに樋口が笑った。振り向けば、いつもは猫のように丸まって眠っていた霖雨が大の字になって口を空けたまま暢気に眠っていた。


「こいつ、随分と変わりましたね。猜疑心ってのは、もっと深く根付いているもんだと思ってましたけど」
「猜疑心ってのは、一度裏切られなきゃ生まれねぇ。何かに期待したことのない霖雨が、そんなものを抱く筈ねぇだろ」


 それはとても悲しいことだけれど、こうして当たり前のように信頼して、全てを曝け出している霖雨がとても大切だと思うのだ。護ってやりたいと、強く思う。初めて背負った大切なものなのだ。人との繋がりを避け続けて来た香坂にとっては唯一の存在だ。
 自分の思いを口にした。笑うようになった。何かに怯えることなく眠るようになった。その全てが信頼だと全身で伝えて来るこの存在を、如何して愛おしく思わないだろう。
 自然と緩む頬だったが、香坂は其処でぴたりと動きを止めた。同時に動きを止めた樋口を目を合わせ、頷く。


「……囲まれてる」


 以前、報復に遣って来た少年達とは明らかに異なる気配。押し殺した殺気は素人のものとは異なる。
 香坂は素早く眠っている霖雨を揺り起こし、樋口は静かに立ち上がって姿を隠したまま外を窺った。闇に包まれた外には何も見えない。


「玄人ですね。何たってこんなところに」


 そう言って懐から銃を取り出し、樋口は苦笑した。寝ぼけ眼の霖雨を横目に、香坂は立ち上がって電気を消した。騒がしいテレビの音量だけを残し、室内は無音に包まれた。


「目的は何ですかね。俺か先輩か……、霖雨か」
「何にせよ、平和的に解決するのは難しそうだ。来るぜ」


 蝉時雨に混じって、硝子の割れる騒音が響いた。途端に放たれた銃声。香坂は霖雨の腕を掴んでソファの影に飛び込んだ。
 樋口が壁に隠れながら様子を窺う。流石に目を覚ました霖雨が驚いたように目を丸くしていた。


「……霖雨、だよな?」


 こくりと霖雨が頷く。すぐに驟雨が出て来るものと思っていたが、そうも行かないらしい。
 この銃声を聞いて助けに来てくれる誰かに期待はしない。確か今夜は花火大会があった。銃声の奥で地響きのような音が鼓膜を揺らす。満点の星空に浮かび上がった紅い花。状況も忘れてその光の花に見惚れる霖雨を再びソファの影に押し込む。
 一瞬、花火の光で浮かび上がった人影は明らかな武装をしていた。玄人、どころの話ではない。国の特殊部隊のような格好だ。乱射される機関銃からは精鋭部隊というよりはゲリラ部隊のような印象を受けるが、法律で銃砲等が禁止されるこの国では考えがたい装備だ。


「マシンガンまで持ち出すとは」


 笑おうとして失敗した、固い表情で香坂が呟いた。けれど、そのとき。


「一体、何事だよ」


 ふてぶてしく言ったその声は霖雨のものではなかった。隣に目を向ければ、面倒臭そうに溜息を零す驟雨がいた。


「お客さんか。お茶くらい、出してやれよ」


 無表情に言い放ち、驟雨はゆったりとソファの影から立ち上がった。人影に向けて放たれる銃弾。新築の家の壁に無数の穴が空いて行く。咄嗟に叫んだ香坂だったが、驟雨はまるで何事も無いかのようにキッチンに入ると湯を沸かし始めた。


「おい、驟雨!」
「あいつ等に出す茶じゃねぇよ。俺が飲む茶だ」


 そんなことは訊いていない。カウンターキッチンの向こうでゆったりと急須の用意をする驟雨に、この状況が理解できているのかも解らない。けれど、奇妙だった。
 銃弾を避ける風でもない驟雨が自由に歩き回っても、全く当たらない。


(……どういうことだ)


 と、そのとき。


「入るときは、玄関から入るのが常識だろう」


 そう言った驟雨の口調は呆れを孕んでいる。窓の向こうから黒腕が伸びた、と同時に樋口がその腕を撃ち抜いた。噴き出る血液がフローリングを汚す。それを合図に一斉に無数の気配が進入した。
 嵐のような銃撃と、花火の音に混ざる銃声に鼓膜が破れそうだった。硝煙の臭いに混じる仄かなほうじ茶の匂い。それが、冷静さを取り戻させてくれる。香坂は侵入者を冷静に射殺して行く。
 だが、一瞬の油断が全ての命取りだ。
 樋口の銃弾が切れるその瞬間に侵入者の銃弾が放たれた。咄嗟に香坂は低く走り、樋口を引き倒した。壁に突き刺さった銃弾から硝煙が昇る。そして。


 ドン、と。
 花火にも似た低い音と共に、右足に熱が走った。


「――うっ、ぐ」


 低い呻き声の中、もう一発の銃弾が今度は左足に撃ち込まれる。上げそうになる悲鳴を寸でのところで呑み込んだ。けれど、全てが其処で終了している。
 ぱっと明るくなった室内は、この銃撃戦の激しさを物語っているようだった。
 両足に銃弾を撃ち込まれた香坂はうつ伏せに倒れたまま起き上がることもできない。樋口は壁に押し付けられたまま銃口を向けられている。驟雨だけが、庖丁を片手に銃口の前に佇んでいた。


「……何の用だよ」


 銃口などまるで見えないかのように堂々と、茶を盆に載せてローテーブルへ運ぶ驟雨は酷く冷静だった。その奇妙なまでの冷静さがこの男の恐ろしさを物語っている。
 普段の態度を崩さない驟雨に、侵入者の銃口が足元へ向いた。途端、侵入者の首からは鮮血が噴出した。
 ざわりと殺伐とした空気が不穏に揺らぐ。驟雨は背中を向けたままだが、その手の庖丁からは血液が滴り落ちていた。


「答えろよ。お前等の目的は、何だ」


 驟雨が庖丁を振り上げたことすら、見えなかった。嫌な沈黙が流れたと同時に、玄関から乾いた音が響いた。
 闇の向こうから現れた男は、かっちりとしたスーツを着込んでいる。見覚えがあると、香坂も樋口も思った。当然だ。その男は、香坂や樋口の勤める警視庁刑事部の部長なのだ。霖雨と顔を合わせた際に居合わせたのも、この男だ。


「素晴らしい」


 人当たりのよい笑顔を貼り付けるその男を、驟雨はじっと睨んでいた。部長は笑ったまま、まじまじとその非現実的な驟雨を見詰めた。


「報告を聞いたときには信じられなかったが……いやはや、素晴らしい」
「部、長……?」


 上半身を起こした香坂が、信じられないものを見るような目付きで部長を見た。報告をしたのは確かに香坂だ。けれど、如何してこんな強行突破する必要があったというのだ。


「申し遅れた。私は警視庁刑事部長、三間坂豊。香坂や樋口にとっては上司に当たる」
そんなこと訊いてねぇんだよ、クソ爺。俺の質問に答えやがれ」


 苛々と言い放つ驟雨も、既に彼等の目的を理解しているだろう。三間坂は微笑んだ。


「君を迎えに来たんだよ、霖雨。……いや、櫻丘驟雨と呼ぶのが今は正しいのかな?」


 驟雨は、目を丸くした。


「全て、香坂からの報告で聞いているよ。君が今いるその霖雨という男の過去も、大使館襲撃のことも」
「どういうことだ、香坂……」


 信じられないものを見るような目付きで、驟雨は香坂を見た。今も両足から血液を流し続ける香坂がそんなことをする筈がないと思いながらも、霖雨の過去を告げたのはこの二人以外にはいない。


「霖雨がこれまでどれだけ不幸だったとしても、人を殺していいという理由にはならないんだよ。罪には罰だ」
「霖雨は誰も殺していない」
「ああ、君が犯した罪なんだろう? だが、死者を裁くことはできない」
「だから霖雨を裁くというのは、可笑しいだろうッ!」


 声を荒げ、驟雨は鋭く三間坂を睨み付けた。左手にぶら下げていた庖丁をまるで刀か何かのように脇に構え、今にも飛び掛りそうな殺気を放っている。


「ふざけんなよ、てめぇ等……!」
「そんな庖丁で歯向かう気か?」
「驟雨!」


 息を荒くしながら、香坂は叫んだが、驟雨は冷たく睨み付けるだけだった。


「……面白かったか?」
「何……?」
「面白かっただろう。俺達が簡単にお前等を信用して、べらべら情報を喋って、お前等は笑ってたんだろッ!」


 違う、と言い掛けて、香坂は黙った。否定はできない。情報を報告したのは香坂自身だ。すれば彼等がどうなるか知りながら。
 けれど、それでも信じて欲しいと思うのは傲慢だろうか。霖雨のことを護りたいと思ったのは、嘘ではないと知って欲しい。何の言葉も言うことのできない無力さを歯痒く思いながら、香坂は足の痛みも忘れて驟雨を見詰めていた。


「来てもらうよ、驟雨。香坂と樋口をこの場で撃ち殺しても構わないが」


 驟雨が、馬鹿にするように一声笑った。


「勝手にしろよ。俺だって、こいつ等がどうなろうが構わない」
「……俺は、嫌だ」


 その声が誰の声が、一瞬解らなかった。けれど、驟雨の体が二重に重なって見えたかと思った瞬間、分身でもしたかのように体は二つに分かれた。


「り、霖雨!?」


 黒い着流し姿の驟雨が、驚いたように霖雨を見詰める。其処にいたのは確かに霖雨だった。
 銃を構えている男達がざわりと揺れる。余りにも非現実的な光景に息を呑みながら、三間坂は可笑しそうに笑みを浮かべていた。
 霖雨は表情もなく、周囲を一瞥し、三間坂の方へと一歩踏み出した。


「行くな!」


 叫んだのは香坂だった。
 身動き一つ取れない状況でありながら、それでも背中を向けて歩き出す霖雨を引き止めたかった。霖雨は足を止め、ゆっくりと振り返った。その顔は、出会ったときの能面のような無表情だ。香坂は、搾り出すような声で言った。


「行かなくていい……!」


 此処で霖雨が行ってしまえば、もうきっと全てが終わってしまう。香坂の思いも、驟雨の誓いも、霖雨の願いも全て届かないまま消えてしまう。
 拳を握り締めて、香坂は言った。


「都合が良過ぎんぜ。てめぇ等が押し付けた癖に、ちょっと懐き始めたら返せ?」


 状況は最悪だった。強がってみても香坂には何の手立ても無かった。けれど、このまま霖雨を行かせる訳にはいかない。


「犬猫じゃねぇんだよ。こいつは、俺やてめぇ等と同じ人間なんだ。何の権限があって、こいつの世界を踏み躙るんだ!」


 霖雨が願ったのは、たった一つだ。此処にいたいと、それ以外の何かを自分から求めたことはない。それが如何して許されないのだ。如何してこいつばかりがそんな目に遭うのだ。
 暫しの沈黙が流れ、呆れたように三間坂は周囲に目配せした。途端、男達が一様に香坂へ銃を向ける。壁に押し付けられたままの樋口が息を呑むけれど、香坂は前を睨んだまま動かなかった。


「そんなもん、怖くねぇ」


 強がりだった。この圧倒的不利な状況で、死の恐怖を感じない者がいるものか。けれど、それでもこのまま黙って見送ってしまうことだけはできなくて。


「――もういいよ」


 静寂を破って、霖雨は笑った。


「もう、いいんだ。俺は行くよ。だから、二人には手を出さないでくれ」
「霖雨!」


 驟雨が叫んだと同時に、銃声が響いた。その瞬間、がくりと膝を着いたのは――驟雨だった。
 硝煙の昇る銃口を向けたまま、無表情に三間坂は立っていた。驚いたのは、驟雨だけではない。
 驟雨は自らを幽霊だと言った。事実、香坂や樋口は驟雨自体に触れることはできなかった。それは霖雨だけだった筈。だから、銃弾なんて当たらない筈なのに。
 咄嗟に駆け寄る霖雨の米神に、銃口が突付けられた。


「驟雨!」
「な、んだこれ」


 左の脹脛から零れ落ちる大量の血液を呆然と見る驟雨は、明らかに動揺していた。けれど、それと同じく三間坂の苛立ちを感じ取った霖雨は唇を噛み締めて立ち上がった。


「これ以上、彼等に手を出すな」


 聞いたこともない低い声で、霖雨は三間坂を睨んだ。そして、持っていた庖丁を自らの首に宛がった。


「これ以上、彼等を傷付けるというなら、俺は死ぬ。俺が死ねば、驟雨は何の取引にも応じない」
「霖雨……!」


 強い口調で言い放った霖雨を、脹脛を押さえたまま驟雨が縋るように呼んだ。けれど、霖雨はやはり笑った。


「もう、いいよ。ありがとう」
「ざけんな、てめぇッ! 何がいいって!?」
「いいんだ。俺、此処にいられて幸せだった」


 そうして微笑んだ霖雨は酷く儚げだった。


「もう、十分。今までありがとう」


 俺だって誰かを幸せにしたいんだ。
 そう微笑んで、霖雨は背を向けた。そう微笑んで、霖雨は背中を向けた。その細く余りに頼りない背中に、香坂は叫びたかった。寸でのところで呑み込んだその言葉を、何度も香坂は頭の中で繰り返す。そんなものは幸せでも何でもなく、当たり前のことなのだ。何より、香坂自身が言いたかった。そんなものが幸せだったなんて、思いたくない、と。
 銃口に囲まれながら、驟雨は食い下がる。それはまるで祈りのようで。


「頼む、行くな……!」


 けれど、それでも霖雨は微笑んで、驟雨を見た。


「驟雨、今までありがとう」
「馬鹿、野郎……!」
「お前がいなくなってしまったら……俺はもう、生きていけないんだよ」


 そうして歩いて行く背中に向かって、香坂は名を呼んだ。血を吐くようなその叫びに振り返ることは、なかったけれど――。




2010.8.22