「ふざけやがってッ!!」


 物の散乱したフローリングを拳で強く叩き付けた驟雨の声は、消えてしまいそうに掠れている。その左足からの出血すら忘れたように叫ぶ姿は余りに痛々かった。
 香坂もまた、唇を噛み締め吐き出したくなる嗚咽や怒りをやり過ごしている。此処で怒鳴っても叫んでも霖雨には届かないし、状況は何も変わらない。
 救急車を呼んでいる樋口の背中を尻目に、驟雨は親の仇とでも言わんばかりに香坂を睨み付けた。


「ふざけやがって、てめぇッ!」


 今、驟雨が脹脛を撃ち抜かれていなかったら既に香坂に飛び掛っていただろう。そして、何の反論も聞くことなく喉笛を食い千切ったに違いない。
 今も出血する左足を抱え、酷く悔しそうに「畜生」と呟いた。香坂も両足を撃ち抜かれ、立つこともままならない状態だ。
 この状況は、余りにも不可思議だった。上司である三間坂が香坂の家を襲撃した理由も、霊である筈の驟雨が銃弾によって撃ち抜かれた理由も解らない。


「……すぐに、救急車が来ます」


 短くそう言うと、慣れた手付きで香坂に止血を施していく。
 言い訳などできない。香坂は俯いた。


「俺達を、売ったのか……ッ?」


 悔しそうに、辛そうに言葉を噛み締める驟雨は決して香坂が裏切ったとは思っていなかった。数日とはいえ、彼の人柄は見て来た。それが全てだという程に薄っぺらい人間だとは思わないけれど、霖雨のことを護りたいと言ったあの言葉が嘘だったとはどうしても思えないから。
 ただ、驟雨は悔しいのだ。目の前で助けられなかったこと、逆に助けられたこと、自分が引き起こしてしまった事態であること。自分が悪いと解っていても、それだけでは感情を処理し切れない。


「違うとは、言えない……!」


 嘘を吐くことはできなかった。香坂もまた、俯いたまま言った。
 言い訳をすることは容易い。けれど、どんなに嘘を重ねたって驟雨は看破するだろうし、何より虚しくなるだけだ。
 だが、胸の中を満たすのは罪悪感と後悔だ。それを少しでも晴らしたくて、謝罪の言葉を口にしようとした香坂の声を驟雨が遮った。


「謝罪なんざ、いらねぇ。どうせ、霖雨は帰って来ねぇ……!」


 香坂への応急処置を終えた樋口が、驟雨の足を押さえた。やはり、触れている。
 左足の止血を行う樋口の腕に、驟雨の震えが伝わった。それが怒りなのか悲しみなのか悔しさなのかは解らない。或いは全てなのかも知れないけれど、驟雨はぎゅっと唇を噛み締めたままだった。


「ふざけんなよ、あいつ……!」


 泣いているのかと思う程に震える声に、普段のふてぶてしさは微塵も感じられない。無数の銃口を前にしても、敵に囲まれていたとしても崩さなかったあの態度は何処にもない。ただ、怯えて震える子どものようだった。


「俺だって、お前がいなきゃ生きていけねぇ……!!」


 霖雨のことを馬鹿だと思う。阿呆だと嘲笑う。けれど、強いとも思う。
 裏切られたとか、恐怖とか何も考えず、ただ自分が行けば皆が救われると思ったのだろう。目の前の情報に踊らされることもなく、自分が信じたものを最後まで貫けるそれは強さだ。
 驟雨の中に浮かび上がるのは、出会った頃の霖雨だ。自分の名前すら知らないあの子どもは、辛いとも悲しいとも言わず、此方のことばかり気にして、無邪気に笑っていた。その存在にどれ程救われたかなんて、きっと霖雨には解らない。けれど、解らないままでいい。
 応急処置としての止血を施した足を引き摺って、驟雨は立ち上がった。驚いたように樋口は目を丸くしたけれど、驟雨は何も気付かぬように玄関へ向かって歩いて行く。


「何処に行くんだ」


 香坂の声に、驟雨の足が止まった。行き先など解り切っているけれど、問い掛けずにはいられなかった。
 驟雨は掠れる声で、小さく呟いた。


「霖雨の、ところだ」
「何処にいるのか解るのか?」
「そんなもん解っても解らなくても、じっとなんてしてられねぇ」


 無茶だとは、誰もが思っただろう。けれど、その気持ちは痛い程に解った。香坂は暫しの沈黙を挟み、口を開いた。


「俺も、行く」
「必要無い。お前なんていらない」
「俺が行きたいんだ。お前の意思なんざ知らねぇ」


 ぶっきら棒に言い放ち、香坂は立ち上がろうとしたが失敗してフローリングに倒れ込んだ。新築で真新しかったフローリングは、弾痕などの傷痕で元の美しさなど見る影も無い。倒れた拍子に着いた手が、微かに血で滲んだ。
 驟雨は顔を半分だけ向け、笑った。


「無様だな、香坂」
「煩ぇ」


 笑った驟雨の横顔が、泣きそうに歪んだ。


「……あのとき、霖雨の感情が俺に流れ込んで来たんだ」


 驟雨と霖雨が分かれた、そのときのことだろうと香坂は思った。驟雨は拳を強く握り締め、搾り出すように言う。


「生きたい。生きていたい。そう、願っていた」


 霖雨はずっと死にたかった。驟雨は今までそう考えて来た。死にたくても死ねない。死なせたくない。色々な人間のエゴの中で生かされた霖雨を哀れだと思うけれど、驟雨とて彼を死なせたくなかった。
 だが、あの瞬間、驟雨の中に流れ込んで来たのは酷く純粋な願いだった。


「生きてさえいればいい。あいつがそう願うなら、俺が何をしても生かしてやるつもりだった。その結果で誰が傷付いても、死んでも構わない。そう、思ったんだ。……でも、言っただろう?」


――お前がいなくなってしまったら……俺はもう、生きていけないんだよ


 その意味を、理由を、価値を、理解した瞬間、驟雨は泣き出したくなった。
 香坂や樋口を殺すと脅しかけた三間坂に嫌だと答えた霖雨の心中を悟って、酷く悔しく思った。


「俺が生きていることが、香坂がいることがあいつの救いなら、俺はそれを絶対に護ってやる。……お前が裏切り者でも構わない。構わないが、お前に死なれる訳にはいかないんだ」


 この数日間が霖雨にとってどれ程の価値を持っていたのか、香坂には解らない。何の変哲も無い、他愛の無い数日間だ。けれど、霖雨にとってこの数日間は何に変えても護りたい宝物のような日々だったのだろう。空を眺めた、食事を取れた、風呂に入った、田螺を見つけた。そんな些細なことを子どものように喜び、愛おしんでいたのだろう。
 いつか終わってしまう世界と解っていたから。


「あいつが伸ばした手を、振り払うことなんてできねぇ。今なら、きっと届く」


 そう言って握り締めた拳は、間違いなく触れることができる。驟雨はそうして笑った。
 ずっと届かなかった手が、叫びが届く。それなのに、手を拱いていることなんてできなかった。






Act.10 Rainy.





 有り得ないと否定することは容易い。目の前の現象に尤もらしい理由をつけて、何もかもなかったように切り捨てることも簡単だ。それはとても楽なのだ。少なくとも、自分はもう傷付かないで済む。
 けれど、自分が傷付くことも厭わず、至極当然のように危険に身を晒す彼等を見ていると歯痒く思うのだ。もっと楽な道はある。自分を傷付けるものなど見えない振りで通り過ぎてしまえばいいのに、悲哀も悔恨も憎悪も絶望も、当たり前のように拾い上げて、それでも前に進もうとするその姿が余りに馬鹿らしくて、余りに不器用で、――けれど、余りに美しかった。
 救急車に運ばれながら、明けてゆく空を見詰める背中が何を思うのかなど問う必要もなかった。ぴんと伸ばした背筋が、恐らくきっと彼がこれまで歩んで来た人生を現しているようだ。


「この世界は、こんなにも物で溢れて、飢えに苦しむこともなければ、雨風に震えることもない。それなのに、如何して傷付け合っているんだ。一体何を、奪い合っているんだ」


 まるで独白のように、驟雨は言った。
 香坂は答えられなかった。驟雨は仮面のような無表情を貼り付けて、これまでの霖雨がそうであったように、取り憑かれたように空をじっと見詰めていた。


「……俺の生きた時代は、こんなにも豊かではなかった。飢鬼の頃はいつも腹を空かせていたし、雨が降れば木陰でじっと身を固めていた。守ってくれる法もなく、弱者は常に虐げられる。……けれど、全ての人間が冷たいと、恐ろしいものと思い込まなければならないような世界ではなかった」


 口調すら淡々と、無表情と同じく何の感情も読み取らせはしない。けれど、其処にあるものが香坂への怒りだとか、恨みというものではないことは明白だった。


「人は、温かい。確かに脆くて愚かな一面もあるけれど、とても強い生き物だ。憎悪や怨恨を抱えることもあるが、何れ許すことができる。……そう、人は許すことのできる生き物だ」


 以前、驟雨は外国へ自分達では想像もできない恨みがあると言った。死して幽霊となった今でさえ許すことができず、恨み彷徨い、罪も無き人々を殺戮した。けれど、何れ許すことができるというのだろうか。
 香坂は黙って拳を握った。両足を撃ち抜かれ、立ち上がることもできない自分の弱さを恥じた。霖雨は、自分達を売った香坂のことを恨んではいない。だから、驟雨も許すのだろう。それが霖雨の願いならば、と。
 きっと、自らへ言い聞かせた驟雨の言葉がじわりと胸に染みた。


「人は許されて初めて、許すことができる。……霖雨がそうであったように、俺もお前を許そう。だから、頼む」


 驟雨は真っ直ぐに香坂を見た。その目が朝日を浴びて、爆ぜる火花の金色を帯びている。


「霖雨を、助けたいんだ。……力を貸してくれ」


 そう言って頭を下げた驟雨の思いは痛い程に解った。香坂は返事をしなかった。返事をする必要すら、無かった。そうして頭を下げさせた自分の弱さが酷く悔しく、悲しかった。
 救急車は病院へと到着し、すぐさま手術室へと運ばれた。体内に残された銃弾を取り払い、傷口を縫い合わせ、漸く香坂が目を覚ましたのはそれから一日が既に経過した頃だった。病院のベッドで目を覚ました香坂は、一瞬、自分の状況が把握できずに白い天井を睨んだ。遠くで烏の声が聞こえている。


「目が覚めたようだな、香坂」


 聞き覚えのある落ち着いた低い声が、傍から降って来た。その方を向けば、夕焼け空を睨むように鋭く見詰める男の横顔が見える。光を反射する眼鏡の、銀色の淵が赤く光っていた。
 色の薄い短髪を風に揺らしながら、志藤朔助は口を開いた。


「霖雨の報告は受けた。……三間坂が、裏切り者とはな」


 言葉とは裏腹に、口調は落ち着き微塵も驚くような素振りはなかった。香坂は目を伏せる。
 あの日、確かに香坂は驟雨の話を受けて、霖雨の生い立ちなど全てを報告した。けれど、その相手は部長の三間坂ではなく、係長であるこの志藤だった。直属の上司だからこそ、嘘偽り無く全てを報告したけれど、その情報が洩れてしまったのだ。ミスなどという生易しい言葉では許されない完全なる過失。あってはならない事態だ。
 志藤は大きく溜息を零した。


「驟雨に会ったよ。俄かに信じ難い話だったが、事実のようだな」
「……驟雨は」


 志藤が入り口を顎で杓った。扉に寄り掛かり、驟雨が香坂を見ている。
 一歩一歩と近付くにつれ、驟雨の白い面が夕陽に照らされて行く。怒りも悲しみも喜びも何も感じさせぬ無表情は人形のようだった。驟雨はその顔のまま、淡々と言った。


「この男に聞いた。お前が報告をしたということも、その理由も、全部」


 ベッドに横たわる香坂の傍に歩み寄る驟雨の歩調は、銃弾を片足に撃ち込まれているとは思えぬ程に流暢であった。その怪我を感じさせぬ涼しげな顔をして、驟雨は目を細めた。


「だが、そんなもんはどうだっていい。霖雨が帰って来るなら、お前が何をしようと構わねぇ」


 志藤が微笑んだ。それは酷く滑稽染みた作り笑顔だ。


「余程、霖雨が大切なんだね」
「俺にとって、霖雨は全てだ。……他には何一つ、持っちゃいないからな」


 必要もないけれど、と言い捨てた驟雨の目は氷のように冷たかった。それはまるで嘆きのような。懺悔のような悲しみを帯びている。


「なあ、教えろよ。霖雨は何処なんだ。何処に行けば霖雨に会えるんだ」


 縋りつくように驟雨は志藤を見た。香坂も同じく志藤を見る。
 志藤のことだ。既に三間坂の行き先など解っているのだろう。胡散臭く微笑んだ志藤はゆっくりと口を開いた。


「その前に、君について教えてくれ。幽霊ということだったが?」
「……生まれは知らねぇ。だが、育ちは朱鷺若という今は無き東の小国。江戸末期に生きた侍の一人だ」


 余りにも信じ難い。けれど、嘘を言っているように見えなければ、言う必要も最早無い。驟雨は目を細めたまま、つらつらと答える。


「時は幕末、戊辰戦争の頃だ。朱鷺若唯一の武装組織、真蜂隊の副長を務めていた。佐幕派であった朱鷺若は西洋の武器を取り揃えた倒幕派の圧倒的武力の前に敗れ、憐れな末路を辿った。……俺の首は、仲間や部下と共に河原に並んだ」


 所謂明治維新だ。中学レベルの歴史の勉強では、戊辰戦争という名前は知っているものの、その内容まで詳しくは解らない。けれど。


「戦争を知らぬお前等と、戦乱に生きて死んだ俺の価値観は違う。解り合うことなど始めからできはしない。ならば、始めから干渉しなければいいものを、如何して関わって来る」


 苛立ちを孕む、捲くし立てるような口調だった。


「俺の話を信じようが疑おうが構わない。けれど、全て話した。今度はお前が話す番だ」


 何時の間にやら椅子に腰掛けた志藤は無表情だった。けれど、静寂の中で乾いた音が転がる。扉を叩いたのは樋口だった。立て付けの悪い引き戸を力任せに開きながら、樋口は微笑んだ。


「三間坂の居場所なら、もう突き止めました」


 情報に関してこの男に敵うものはいないだろう。香坂は笑った。この男が恐ろしくもあり、同時に頼もしくもある。小脇に抱えたノートパソコンを開き、樋口は笑っていた。




2010.9.8