「霖雨……」


 祈りのように両手を握り、絞り出すように呟く。それはこの男の弱さを垣間見た瞬間だった。
 香坂は、目の前にいる男の存在を理解し切れていない。幽霊などという漠然とした存在でありながら、無数の銃口を前にしても欠片も恐れを感じない毅然とした態度で、一枚の刃だけで突き進んで行く。非科学的で奇怪な存在だ。鬼のような強さを持ちながら、子どものような脆さを併せ持つこの男は一体何なのだろう。
 唇を噛んで俯くその男に、嘗て大使館を襲撃した凶悪犯の面影はない。
 香坂は言葉を探していた。恐らく大半の人間が送る常と変らぬ平穏な一日の始まりが、眠ることのない町を照らしていく。白いベッドから歩き出すことも出来ない程に疲弊した体で、悔しさを噛み締めるこの男の苦痛など誰にも解らぬだろう。ましてや、過程がどうあれ結果として彼等を売ることとなった自分には理解しようとすることさえ許されない。
 同情も懺悔も励ましも告げられぬ己の無力さに堪らなくなって、香坂は目を伏せた。
 香坂とて無傷ではない。両足を貫通した銃弾は、香坂から自由を奪った。車椅子での移動を余儀なくされた香坂に比べれば、傷としては驟雨は軽傷だろう。けれど、目に見えぬ傷がどれ程深いのかなど医者にも解らない。
 すぐにでも霖雨を助けに行きたいだろう驟雨に、志藤は治療が先だと告げた。三間坂の居所は解っていると言った樋口も、術後まもなく傷の癒えない驟雨にその情報を与えることはない。
 居た堪れなくなった香坂が車椅子を反転させる。驟雨は一度として香坂を見ることは無かった。
 病室を出たとき、廊下で樋口が壁に寄り掛かっていた。金属の車輪を軋ませる香坂を見下ろし、同情とも労りとも付かぬ目を向ける。


「何の用だ?」
「香坂さんに、付いて来て欲しい場所があります」


 来て下さい、と早々に背を向け歩き出す樋口に香坂は黙って従った。
 警察病院と呼ばれるこの施設は刑務所に留置されている人間や、警察官及びその家族を対象にしている。一般の受診も可能とし、地域と密着した施設と銘打ってはいるが、紹介状が無ければ訪問することすら許さず、牢獄にも似ている。全室個室であり、病院としては最高クラスの待遇を提供するこの施設に入る人間は限られ、重大な犯罪を犯した者、護衛なく行動することのできない要人を主としている。
 故にマスコミ対策や、狙撃に対するセキュリティも万全。この国で最も安全な病院とも言われている。
 驟雨や香坂が白い要塞とも呼ばれるこの場所に入院するのは当然のことであった。
 樋口は前を歩きながら、慣れない車椅子に手間取っている香坂に歩調を合わせる。そうしてエレベータの前に立つと、漸く振り返った。


「つい数時間前に、係長から受け取ったんです」


 人差し指と親指で抓むように、二つの銀色の鍵をぶら下げる。樋口は悪戯っぽく笑ってはいたが、それが本当の笑みでないことを香坂は既に解っていた。
 エレベータが到着する。先に乗り込んで扉を開けている樋口を横目に、車椅子を進める。香坂が完全に乗り込んだことを確認してから樋口は扉を閉めた。
 B1から4Fまでのボタンが存在する。現在地は4Fだ。最下階は地下一階の駐車場。樋口は持っていた鍵で其処に据え付けられた蓋を開ける。現れた業者が点検などに使用するだろうボタンの群れの下に、更なる鍵穴を見つける。樋口はもう一方の鍵でそれを開いた。
 顔を出したのは、ある筈の無い行先を知らせる一つのボタン。
 B16と、書かれていた。


「地下、十六階……?」


 そんなものが病院に地下にあるなど、香坂でさえ知らなかったことだ。何よりも、縦横無尽に走る地下鉄の中でそんな場所が作れるとは思えない。だが、樋口は迷わずそのボタンを押した。
 ガクンと大きく揺れて、エレベータは下降を始めた。ランプが移動する。4F、3F、2F、1F、B1……。そして、ランプは消えた。


「この病院が、白い要塞と呼ばれていることは知っていますね」
「ああ」
「つまりね、この場所はこの国で最も安全な場所なんです」


 物理的にも、人為的にも、情報の漏洩を防ぐという意味においても。
 そんな最高機密機関を一体誰がどのような理由で使用するというのだろう。見当も付かない香坂は暫しの沈黙を挟んだ。そして、はっと顔を上げた。


「霖雨か……」


 樋口は頷いた。
 A国大使館襲撃事件を他国のテロと断定したその裏で、実は犯人はこの国の人間であったなどと口が裂けても、天地が引っ繰り返っても言うことはできない。その犯人もまた多くの不可解、不可能を抱える男だ。一体誰が信じるというのだろう。嘘の報告を信じて戦争を続け、今も多くの人間が殺し合う中で真実を告げることは嘘を重ねるよりも罪深い。
 絶対に表に出す訳にはいかない霖雨を、秘密裏に調査する為に使用されたのだろう。その内容がどんなものだったのかなど、考えるまでもない。法律の届かない地下深くで、霖雨に人権が存在したとは思えないし、道徳や倫理など程遠い空間だっただろう。
 やがて到着したエレベータの扉を、樋口が開けて待つ。香坂は車椅子を押して先に出た。其処は蛍光灯の白い光に満ちていた。地上の病院と変わらぬ清潔さを保つ明るい廊下と美しい観賞植物。続いて降りた樋口が鍵をポケットにしまった。


「これが、地下なのか……」


 思いがけず、香坂は呟いていた。
 嘗て驟雨が箱と称した場所がどんなものなのか香坂には想像も付かなかったが、少なくともこのような清潔感のある空間とは思わなかったのだ。地下とは思えぬ程明るく、広々とした空間。
 立ち止まった香坂の後ろから、追い抜いた樋口は黙って歩き出した。
 一本道の廊下には、当然ながら窓一つない。途中木製の扉が一つ、二つあったが樋口は黙って通り過ぎた。何の迷いもない足取りは、香坂と同じく初めて此処に足を踏み入れたとは思えない。樋口はどうやら、目的地があるようだった。
 蛍光灯が白々とリノリウムの床を照らす。その景色も見飽きた頃、漸く樋口は足を止めた。


「此処です」


 振り向くこともせず、樋口は言った。其処には、これまでの景色を否定するかのように重々しい鉄の扉が、入室者を拒否するように嵌め込まれている。鈍色の扉には何の表示もなく、無数の鍵がその異常さを強く示していた。


「此処は?」
「霖雨の、収監されていた部屋です」


 無数の鍵を一つ一つ丁寧に外しながら、樋口は静かに言った。南京錠から静脈認証まで、あらゆる鍵で封鎖された部屋は、入るだけで一苦労だ。けれど、それらの鍵は霖雨が此処から出た後に取り付けられたものだという。元々は限られた人間のみが出入りする為、最新鋭のロックが掛けられていたのだ。
 最後の鍵を解くと、樋口は一息にドアを引いた。扉の向こうには耳が痛くなるような静寂と、全てを包み込むような闇が支配していた。
 手探りで電気を点けると、部屋は廊下と同じく白々とした蛍光灯の光が満ちた。香坂は扉が閉まる前に部屋へ滑り込んだ。
 縦長の八畳程の広さの密室だった。リノリウムの床と、壁一面の棚に収納されたファイルの数々。そして、大きな機械と一つのマイク。前には巨大なガラスが窓のように壁に嵌め込まれている。窓の向こうは暗く、何も見えない。
 辺りを一瞥した樋口は、徐に棚からファイルを取り出して目を通し始めた。香坂も同様の行為をしようとしたが、車椅子から立つことができず、何の気なしに闇に染まるガラスを見ていた。
 車椅子から動けない自分が、鏡のように映る。焦燥感と苛立ちがじわじわと足元から上がって来る。と、香坂が顔を上げたとき、恐らくはガラスの向こうの部屋に入る為の重々しい扉が目に入った。入口と同じく厳重に施錠された扉に入る術を香坂は持たないが、傍にあったスイッチに手を伸ばした。
 気付いた樋口が、変わってスイッチを押した。その瞬間、ガラスの向こうは白い光が満ちた。二人は覗き込み、息を呑んだ。


「何だ、これ……」


 そう零したのは樋口だった。
 打ちっぱなしのコンクリートの壁と床は冷え冷えとして、中央に置かれたパイプ椅子のクッションは破け、鉄には錆がこびり付いている。
 そして、壁や床に点々と飛ぶ丸い染み。拭いても拭いても取れることのない、黒い跡。それを、香坂はよく知っていた。


「血、か」


 この場所で何が行われたのか、香坂は知らない。けれど、壁や床一面に広がる血痕を見れば何が起きたかなど一目瞭然だ。
 驟雨が箱と呼んでいたのは、この場所のことだとすぐに解った。正面のパイプ椅子に、全ての自由を奪われた霖雨が座らされている情景がありありと浮かび上がった。初めて会ったとき、拘束衣を着せられて、目隠しと耳当てをさせられていた霖雨。此処で行われたのが単なる暴力だとは思えない。


「……見て下さい」


 樋口は、読んでいたファイルを香坂の高さに合わせて見せた。其処には数枚の写真が入っている。
 汚い腕だった。日に焼けていない青白い肌に浮かぶ、夥しい数の傷と痣。何か凶悪殺人事件の資料だろうかと、思う間もなく香坂は気付いてしまった。その汚い腕の持ち主を、香坂は知っている。


「霖雨、」


 言葉が、詰まった。
 これは、霖雨の腕だ。写真に写っているのは、霖雨の体だ。日々受けた拷問や投薬の結果をこうして記録して来たのだ。壁一面のファイルは、全てその記録なのだ。


――嬉しかったんだよ、霖雨は


 何処からか驟雨の声が聞こえたような気がして、香坂は顔を上げた。数日前に過ぎない記憶なのに、随分と昔のような気がした。田舎の悪餓鬼の襲撃があったあの夜、初めて驟雨の会ったとき。


――お前は殴りもせず、罵りもせず、居場所をくれた


 霖雨が何を思ったのか、驟雨が何を願ったのか。その意味を思って香坂は目を固く閉じた。


――此処にいていいと言ってくれたことが、どんなに嬉しかったか、お前にはきっと解らないだろうけどな


 あのときの言葉の意味を、もっと深く考えてやればよかった。
 こんな窓一つない地下深くで、身に覚えのない拷問を二年間も受け続けた霖雨と、間近でそれを見ながらも救う術を持てなかった驟雨。この空間を箱と呼んだ驟雨、空を見て涙を流した霖雨。
 誰にも助けを求めらなかったその意味を。
 ロボットのように言われるままで、自分の欲求さえ発せないその理由を。


――此処に、いたいよ


 そう願った真意を、もっと考えてやればよかった。
 あれはきっと、霖雨にとって身を裂く程、精一杯の助けを求める声だった。
 あのとき伸ばした手を、二度と離してはいけなかった。






Act.11 wish.





 ビルの群れの中に落ちていく紅い夕日を、何処かで見ているといいと思った。
 扉の向こうにある気配は、此方を伺っているのか中々出て来ようとしない。其処にいるのが誰なのか解っている驟雨は、ベッドの上で顔を向けることもなく言った。


「何の用だ」


 切り捨てるように冷たい口調だった。霖雨と別れてから、驟雨は常にこの口調だ。
 香坂はゆっくりと扉を開け、顔を出した。カタン、と小さな音を立てて扉が後ろで閉じる。驟雨は何も言わなかった。
 蝙蝠の声にも似た高い音が車輪から聞こえる。死人のように生気のない面で、俯いていた香坂はゆるゆると顔を上げた。


「……さっき」


 息を、吸い込む。


「霖雨が収監されていた場所へ行って来た」
「……そうか」


 驟雨は、沈んでいく夕日を眺めながら言う。


「血と、あの場所の臭いがした。胸糞悪ィ」


 驟雨は鼻を鳴らす。夕日は今にもビルの中に落ちようとしていた。
 何も言わない香坂は、言葉を選んでいた。謝罪の無意味さを誰よりも解っていた。けれど、驟雨や霖雨に伝えなければならないことがあるのは確実だった。そうして黙り込んだ香坂に、漸く驟雨は冷ややかな視線を向け、目を伏せた。


「……あいつは、いつも泣いてたよ。辛くて、苦しくて」


 当たり前だろう、生きているのだから。
 そう呟き、驟雨は胸の辺りを握った。香坂は、幽霊にも心があるのだろうかと思った。


「大丈夫、大丈夫。もう慣れた。気にしないで。平気だから。ほら、笑ってるだろう。だから、もういいんだよ。……そんな言葉を、何千何万と聞いて来た」


 あいつは嘘吐きだ、と悔しそうに驟雨は言った。切れ長な目は固く閉ざされた。その瞼の裏には一体何が浮かび上がっているのだろうと思う。きっと、自分には想像もできない彼等の地獄が今も、そしてこれからも刻み込まれているのだろうと香坂は悟った。
 驟雨は顔を上げ、香坂を見た。


「あいつがこれ以上傷付く必要なんてねぇ。もう十分苦しんだ。なあ……、もういいだろ」


 冷静で不遜な態度を崩さなかった驟雨が、縋るように言うそれは、まるで祈りのようだった。香坂は能面のような無表情を貼り付けながら、強く拳を握った。


「なあ、香坂……。もう、いいだろ。あいつは俺と違って弱ェ人間だからさ、痛みにも悲しみにも弱ェんだ。だから、これ以上、いじめないでやってくれよ」


 その姿は何処か幼く、柄にもなく必死だった。香坂もまた、絞り出すように言った。


「……俺だって、いじめたい訳じゃねぇさ……」


 霖雨がどういう人間なのか、香坂は図り兼ねていた。
 悲劇や不幸なんて、この不条理な世界で数え切れない。霖雨がこの世で最も不幸だとは思わない。あの強がりをいじらしいとも思わなければ、同情も抱かない。圧倒的弱者であるなら、香坂自身、自分はきっと仕方がないと切り捨てたと思った。けれど、その弱いが故の優しさと、脆いが故の強さを香坂は知っている。伸ばされなかった掌の意味を知っている。
 声にならない声は、本当はずっと届いていた。
 遠くに夕日が落ちて行った。静かな闇が病室に染み込んで行く。涼やかな夜の風が窓から侵入し、驟雨の少し長い髪を揺らした。驟雨はゆっくりと、掛布団を押し退けてリノリウムの床に立った。ぺたりと張り付くような裸足の音がした。


「助けたいんだ」


 脹脛を撃ち抜かれた驟雨が満足に歩くことができないというのは、誰もが知っている。ずっとベッドで、霖雨のように空ばかり眺めていた驟雨が立ったのは、此処に搬送された日以来のことだった。


「そんな体で何ができますか。怪我人のくせに」


 何時の間にか、扉の前には樋口が立っていた。驟雨は睨むこともせず、興味無さそうに視線を逸らす訳でもなく、真っ直ぐに樋口を見た。


「だが、霖雨は傷だらけでも俺達を助けてくれた」


 その傷は決して目に見えない。驟雨の言葉の意味を知っている樋口は、面倒臭そうに溜息を一つ零すと一枚のCD-Rを見せた。


「その霖雨から、お手紙が届きましたよ」


 脇に抱えたノートPCをサイドテーブルに置き、樋口は緩やかな手付きでCD-Rをセットした。起動されるパソコンを鋭い目で見詰めながら、驟雨はゆっくりとベッドに腰掛けた。その手は強く握られていた。




2010.12.4