激しいノイズと砂嵐が画面を占拠する。小さな画面を囲む三人は、其処に何が映るのか期待と焦燥感を感じながらじっと見詰めていた。すると、突然、画像は鮮明になり、見たくもなかった男の顔が映った。
 逞しい壮年の男。三間坂だった。


『香坂。そして、驟雨。如何お過ごしだろうか』


 此方の状況を知っているだろう三間坂が嫌味のように笑った。殺意に程近い苛立ちから、香坂が強く拳を握る。此処にいるのはただのデータだ。けれど、それでも力いっぱい殴ってやりたいと思う気持ちが抑えられない。
 挨拶もそこそこに、三間坂が笑う。


『如何して驟雨ではなく霖雨を連れ、君達を助けたのか。霖雨の使い道も、もう解るだろう』


 当然だと言わんばかりに、香坂が強く睨む。驟雨は今にも噛み付きそうな、けれど何処か絶望に沈んだ昏い目で見詰めている。


『戦争だよ』


 やはりな、と香坂は思った。
 A国大使館襲撃事件を隠蔽し、この国は他国のテロであると発表した。それを鵜呑みにしたA国は戦争を仕掛け、今もこの国から遠く離れた地で戦争が続き罪もなき人々の血が流れている。
 大使館を襲撃した犯人を隠避したこの国は、事実が公のものとなれば世界中からバッシングを受けるだろう。けれど、大使館襲撃の大量殺人犯をこの国から出すことを政府は何より恐れたのだ。ならば、隠蔽してしまおうと霖雨は地下深くに二年間の間、全ての自由を奪われ閉じ込められた。
 殺さなかった理由は、恐らくきっと三百人近くの人間を一人で殺害したその異常性が研究対象になったのだろう。生物学的見地なのか、兵器の開発なのかは解らない。
 ただ言えることは、この国が抱える事実が世界に伝われば重大な問題になるだろう。そして、場合によっては戦争も十分に起こり得る。
 隠蔽の証拠は指紋や体液など、実際に残っているのだ。必要だったのは、犯人である霖雨の身柄だ。


『国外に逃亡するなら、今のうちだ。私は親切だからね、それを教えてやろうと思って。……ああ、それから』


 わざとらしく、思い出したように三間坂は薄笑いを浮かべて言った。


『最後に、霖雨と話をさせてやろう』


 そう言って、三間坂が画面から消えた。其処で暗転。画面は真っ黒になった。すると突然、粗い画質の向こうに、数日前に別れたばかりの青年が立っていた。
 元々福与かでなかった顔は、随分と痩せこけ、目の下は隈なのか痣なのか、青黒い色が広がっている。数日の間に何があったのか、香坂達には解らない。けれど、霖雨の顔を見た瞬間、漆黒の瞳に小さな光が灯った。
 霖雨は小さな画面の向こうで、力なく微笑んだ。今まで見続けて来た消えそうに儚い笑みは、蓄積されている疲労を隠し切れていない。困ったように下がった眉と弧を描く口元。泣きそうだと、思った。
 乱れた音声のノイズの中で微かに、霖雨の声が響いた。


『……に、……とう』


 聞き取り辛く眉を寄せる樋口の横で、口元で言葉を呼んだ香坂と驟雨が拳を握る。
 本当に、ありがとう。霖雨は本心から、三間坂への感謝を口にした。


『この声が……、お前に届くというから……。……伝えたいことがあったんだ。伝えなきゃいけないこと……。でも、如何してかな。何も出て来ないんだ……』


 ぽつりぽつりと吐き出すように言葉を放つ霖雨が何を考えているのか香坂には解らない。けれど、返事がある筈もない機械に向かって、一方的であっても伝えたいと思うことが霖雨にあるのかということが、何よりも疑問だった。
 言葉が出て来ないのは、当然だと思った。伝えなければいけないのは、霖雨ではないのだ。


『今まで色々なことがあったけど……、驟雨がいたから、どんなことがあったって本当に平気だったんだ。いつだって傍にいてくれて、励ましてくれて、ありがとう。……それから、香坂にも出会えて、外を散歩したり、一緒にご飯を食べたり……嬉しかったよ。餃子、すっごく美味かった。……』


 目を閉じて微笑んだ霖雨が、何かを堪えるように一瞬、口を噤んだ。けれど、すぐに何事も無かったかのように目を開けて笑った。


『ちょっとの間だったけど、すごく楽しかった。まるで、人として扱ってくれているみたいで、大切だと言ってくれているみたいで……すごくすごく、嬉しかったんだよ。……ごめん、俺、馬鹿だから、この気持ちをどうやって言えば伝わるのか解らないや』


 照れ臭そうに笑う霖雨がまるですぐそこにいるかのように感じて、香坂は叫びそうになった。けれど、どうやって表現すれば霖雨に伝わるのか、香坂にも解らなかった。
 ノイズの中に、カメラを止めると宣告する三間坂の声がした。霖雨は一瞬、目線を動かすがすぐにまた向き直った。


『もうお別れの時間だ。じゃあね、さようなら。……もし、何時かまた会うことができたら、その時は……。その時は……』


 そこで、画面は消えた。暫く誰も動けなかった。
 ベッドに腰掛けていた驟雨が深く溜息を吐く。組んだ掌は何時しか強く握られている。香坂は、届く筈が無いと解っていても言わずにはいられなかった。


「……餃子なんて、冷凍食品だけどな」


 苦笑交じりに香坂が呟く。樋口が声を殺して笑った。
 それでも美味いというのなら、何度でも作ってやりたいし、食べさせてやりたい。
 その時、それまで俯いていた驟雨がゆっくりと顔を上げた。


「また、あいつを道具に使うのか」


 今にも泣き出しそうな声だった。驟雨は悔しそうに唇を噛み締めて、もう映らない画面を睨む。


「何時になっても、何処にいっても、あいつは道具のままか」


 握り締めた拳が震えている。何も言えず、香坂と樋口が揃って怪訝そうに眉を寄せた。
 それが、霖雨に対して『使う』と言った三間坂の言葉を指していると気付くのに時間が掛かった。驟雨はその悔しさや悲しみを噛み締めるように言う。


「あいつ、自分のこと、人間だと知らなかったんだ」


 お前等に解るかと、驟雨が香坂を見る。


「好き勝手に扱われる道具だと……、思っていたんだ」


 幾ら驟雨が、そんなことはないと諭しても、説得力など皆無だ。事実、今まで霖雨を人として扱ってくれる人などいなかった。そんな中で母を失ったと知った霖雨が助けてと言ったあの言葉の本当の意味を、驟雨は知っていた。
 霖雨はきっと、死にたかったのだ。苦しかっただろう。けれど、死んではいけないと、驟雨が狂うことも許さずこの冷たい現実に縛り付けた。励まし続けたと言えば聞こえはいいが、実際は驟雨が縋り付いただけだ。嘗て国を失った落ち武者が、自らの無力さにこれ以上絶望したくなくて、それが更に霖雨を苦しめると解っていても。
 けれどそれでも、驟雨は霖雨に生きていて欲しかった。それは驟雨のエゴだ。だが、だからこそ、驟雨は霖雨に知って欲しいのだ。この世界はとても残酷だけれど、それだけじゃないと解って欲しい。傷付ける人間ばかりではないのだ。人はもっと温かさを持っているのだと、気付いて欲しい。


「それは違うと、知って欲しい。普通じゃないと解って欲しいんだ」





Act.12 Choices of hope.





 人は人に愛されて初めて、人を愛せるようになるのだという。同じように、人の優しさを知っているから優しくもなれるのだ。
 霖雨のあの見返りを求めない優しさは、きっと、嘗て自分が母から受けて来たものなのだろうと驟雨は言った。父親の暴力から守るように強く抱き締めたその母の愛や優しさを見て、霖雨は同じように驟雨や香坂を守ろうとしていた。


「守られていたのは、俺の方だ」


 驟雨はまだ完治していないだろう足で地面を踏み締め、歩き出そうとする。あの映像を見た驟雨が、このまま傷が癒えるのを待っていられるとは誰も思わなかっただろう。
 痛みなどないという風で、無表情に驟雨は扉に向かって歩き出す。


「あいつを守りたいんだ。あいつが死にたいなんて考えなくて済むくらい、幸せにしてやりたいんだ。弱音一つ吐かないあいつに、大声で泣かせてやりたいんだ。泣くのを堪えるような笑顔じゃなくて、腹抱えて笑わせてやりたいんだ」


 ガク、と驟雨の姿勢が崩れる。痛まない筈がない。けれど、それでも驟雨は進もうとする。


「あのどうしようもない泥濘の中から連れ出して、太陽の下で一緒に生きたいんだ」


 驟雨の整った顔が歪む。痛みだけではないだろう。悲しみと悔しさと、苦しさと辛さと怒りと。全てが一緒に掻き混ぜられて、鉛のように重く背に圧し掛かるのだ。それでも、進もうとするのは霖雨を助けたいからで。
 死にたいと願う霖雨を、生かしたいと願うからだ。死にたいなら死なせてやれとは、香坂には如何しても言えなかった。
 車輪を押し、ゆっくりと驟雨の背中に追い付くと、崩れ落ちそうなその腕を取った。驚いたような顔を向ける驟雨を無視して、体を支えながら真っ直ぐ向き合う。


「霖雨だって、同じだろう」


 本人ではなくても、如何してか自信を持って言える自分が不思議だった。


「死にたいのは、辛くて苦しいからだろ。辛くて苦しいのは……、それでも、生きたいと願うからだろ」


 香坂がそう言ったとき、驟雨は泣きそうに顔を歪ませて俯いた。まるで化け物みたいな男だが、本当は霖雨とそう変わらない子どもなのかもしれないと香坂は思った。暫くの間、黙って俯いていた驟雨の頬を蛍光灯の光が照らす。驟雨は、消え入りそうな声で言った。


「今まで、ずっと一緒だった。あいつの思いは何時だって解った。だから、こうして離れて、あいつの心が見えないことが何より怖いんだ……」


 霖雨が泣きたいときも、苦しいときも、死にたいと思ったときも、何時でも傍にいられた。だから、今また同じように苦しんでいるだろう霖雨の傍にいられないことが辛い。
 どんな言葉なら伝わるだろうか。自己犠牲が当然と思う霖雨に、なんと言えば伝わるだろう。お前が大切なのだと、共に生きたいのだと、どうすれば伝わるだろう。
 嫌だと、辛くて苦しいのだと一言でも口にすれば、その全てを滅ぼす自信だってあるのに。


「死にたいと思うことと、死ぬことは違う。あいつが死にたいと願ったのは、与えられた選択肢が地獄でしかなかったからだ。あいつに選ばせてやれよ。絶望ではなく、希望を」


 彼等が背負って来た過去がどれほどのものなのかなど、香坂には解らない。けれど。


「あいつの未来を、お前が諦めるなよ。お前が諦めたら、あいつは死ぬしかないじゃねぇか。後ろばっかり見るんじゃねぇ、霖雨は前を見据えていたぞ」


 彼の前にあるのが希望だとは限らないけれど、と香坂は言葉には出さずに思った。そんなことは驟雨も解っているだろう。
 きれいごとには何の価値もないと思っていた。けれど、絶望の淵に立つ彼等が救われるならきれいごとでも構わないと思う。
 驟雨は、拳を握った。殴られても構わないと、香坂は思った。けれど、驟雨は言った。


「……解ってらァ、そんなこと」


 ゆっくりと顔を上げた驟雨の双眸には、日輪にも似た金色の光が宿っていた。


「あいつは今、何処にいるんだ。教えてくれ。頼む、あいつを助けたいんだ」


 足の痛みすら忘れたように、凛と背筋を伸ばして立つ驟雨は、媚びるでも縋るでもなく真っ直ぐに香坂を見据えて言った。パソコンに向き合って、キーボードを叩く樋口の口元は微かに弧を描く。そして、樋口は言った。


「三間坂が根城とする場所をピックアップしました。霖雨の存在上、公の捜査はできません」
「虱潰しに探すしかないな」


 ディスプレイに映し出された無数の地図を見詰め、香坂は笑った。


「時間が無ェ。俺は行くぜ」


 驟雨は扉に手を掛け、二人を一瞥した。香坂はポケットから携帯を取り出して、投げ渡す。驟雨は片手で受け取ると、不思議そうに携帯を見詰める。


「離れた場所にいる相手と連絡が取れる機械だ。使い方は……」
「俺が付いて行きます。そうすれば、ややこしい説明をする必要もないでしょう?」


 樋口はパソコンを片手に立ち上がった。驟雨が怪訝そうに眉を寄せる。


「お前が……?」
「ええ。あんたが俺を嫌いなのは解りますけどね、仕事ですから。それに……」


 そう言ったところで、樋口は次の言葉を呑み込んだ。脳裏に浮かんだのは、自分達を庇って三間坂の下へ向かって行った霖雨の後ろ姿だった。
 霖雨は香坂と驟雨を庇ったのだ。けれど、結果として樋口もまた彼に助けられた。借りを作るのは御免だと思ったが、それ以上に初めて会ったとき、言葉で捲し立てられて言い返すことも出来ずに震えていたあの青年が、いざというときに自分の命も顧みず大切なものを守る強さを持っているだなんて、知らなかった。その強さの理由が、知りたかった。
 黙った樋口を見て驟雨は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


「……道案内、頼むぜ」


 それは、樋口が今まで見て来た傍若無人な驟雨ではない。自らを亡霊と言う者とは思えぬ人間らしさは、何処か捻くれた子どものようで、樋口は少し笑った。


「任せて下さい」


 その場に取り残された香坂に、驟雨は携帯を投げて返した。


「そいつは返すぜ。てめぇはさっさと、怪我治して追って来い。霖雨は、お前の餃子食べたいって言ってたからな」


 そんなものは冷凍食品だと、香坂は皮肉っぽく思った。だが、口元には確かに笑みが浮かぶ。


「ああ、すぐに行くよ」
「俺は待たねぇよ。でも、霖雨が待ってる。早く来い」


 そう言って驟雨は扉の向こうに消え、すぐ後を樋口が追った。
 二人が消えて無音になった病室で、香坂は車椅子の肘置きを強く握り締めた。銃弾によって撃ち抜かれた両足は動けるとは言えない。けれど、すぐに治して、彼等を追うと誓った。
 紺色の夜空に、昏い色の月が浮かぶ。月はまだ満ちない。香坂は静かに目を閉じた。




2010.12.30