其処にいるのは、以前送られて来た一方的に用件だけを告げるビデオレターの霖雨ではない。此方の顔を見て、言葉を返すことのできる正真証明、生きている霖雨だ。
 その名を叫んだ驟雨は、微笑んだ霖雨を凝視している。


「霖雨ッ、霖雨ッ! 本当に、お前なのか……!」


 映像を映しているに過ぎないディスプレイに手を伸ばそうとする驟雨を香坂が押さえる。大きなディスプレイの向こうにいる霖雨は、以前のビデオレターの頃よりも深く刻まれた隈と扱けた頬が痛々しい。連絡の途絶えたこの二か月近くの間に何があったのかは解らない。けれど、この様子を見る限り人質として大切にされていたとは到底思えない。


『驟雨』


 スピーカーから聞こえる声は、間違いなく霖雨のものだ。ディスプレイを見詰める驟雨の手が微かに震えていた。


「霖雨! お前……、何処にいるんだよ……!」


 縋り付くような声で言う驟雨の姿は霖雨しか知らないものだろう。霖雨は微笑んだまま、静かに言った。


『お前が無事で良かった。それに、香坂、樋口さんも……』
「馬鹿野郎……、人の心配してる場合かよ。お前こそ無事なのか」


 困ったように微笑んで、霖雨は僅かに視線を逸らす。恐らく、その方向に三間坂かその仲間がいるのだろう。今、彼は銃を向けられているのかも知れない。どんな言葉で脅されているのだろうか。今までどんな目に遭わされたのだろうか。驟雨は霖雨から視線を外さない。


『お前等が、俺を助けようとしてくれていると聞いて、すごく嬉しかった。だから……』
「だから?」


 霖雨の言葉の先を読んだように、驟雨が復唱する。その声は苛立ちを帯びている。


「だから、如何しろと言うんだ?」
『驟雨……』
「俺のことはもういい。もう十分だ。見捨ててくれ。……そう言うつもりか?」


 その言葉は以前、ビデオレターで霖雨が放った言葉だ。
 自己犠牲が当たり前の霖雨にとっては何でもない言葉だろう。他者を守る為なら自分の命すらも容易く投げ出す。そして、彼はそれが間違っているだなんて微塵も思っていない。そのことが驟雨にとってどれ程辛いことなのかも、気付かない。


「――いい筈ないだろうッ!!」


 驟雨の声が響き渡った。それはこれまで驟雨がずっと抱えながら呑み込んで来た叫びだ。
 ディスプレイの向こうで霖雨が困ったように微笑む。まるで、子どもの我儘に苦笑する母親のようだ。けれど、驟雨の叫びは決して我儘などではない。


「解れよ、気付けよ、霖雨! お前がその身を犠牲にして俺を助けたとして……、俺が本当に幸せになれると思うのか!?」


 一瞬、何かを堪えるように霖雨の体が震えた。けれど、すぐにその動揺も微笑みの中に隠してしまう。驟雨がその些細な変化を見落とす筈も無い。ディスプレイを睨み付けたまま、叫んだ。


「俺はお前が大切なんだよ! 他の誰でもない、お前自身が!」


 どうすれば伝わるだろう。自己犠牲と諦めが当たり前となった彼にどうすれば伝わるのだろう。
 驟雨はこれまでずっと考えていた。けれど、最早考える必要も無かった。画面越しとは言え、霖雨は今目の前にいる。


「何で言わねぇ、何で求めねぇ……! お前が生きたいと願ったこと、俺が知らないとでも思ってんのか!?」


 俯いている霖雨の表情は解らない。けれど、まるで何かを堪えるように噛み締められた唇がその感情をありありと表現している。
 霖雨は何時だって無欲だ。それでも、何時だって失っていく。故に何かを求めることを諦める癖がついたのだろう。けれど、何の望みもないとは思えない。その時、噛み締められた霖雨の唇が動いた。


『……じゃぁ……』


 それは余りにもか細く小さな声だった。けれど、驟雨には届いている。何かを堪えるように、迷うように、俯いた霖雨の肩が震える。驟雨は心の中で何度も叫んでいた。
 言え!


『じゃあ、俺に如何しろって言うんだよ……!』


 霖雨の前には今、天秤がある。一つは自分の命。もう一つは仲間の命。どちらか一方を選べばどちらか一方は零れ落ちる。霖雨に、選べる筈が無い。どんな状況であっても霖雨は必ず他者の命を選ぶ。例え、自分がどんなに生きたくても。
 けれど、霖雨は今、迷っている。その意味を驟雨は知っている。


「頼む、言ってくれ……!」


 それはまるで血を吐くような叫びだった。例え霖雨が何も言わなくとも、それによって驟雨が何も出来なくとも、香坂は何に替えても彼等を助けるつもりだった。
 生きて行くことが苦痛でしかなくても、霖雨がそれを今望まなくとも、それでも皆、霖雨に生きてほしいのだ。それは、霖雨が死にたくないと願っていたことを知っているからだ。
 死にたいと嘗ては願ったかも知れない。けれど、死にたいのは辛かったからだろう。辛かったのは、それでも生きたかったからだろう。だからこそ、驟雨は霖雨の口から聞きたいのだ。

 生きたい、と。
 助けてくれ、と。

 霖雨にとって、自分が願ったせいで誰かが傷付くのは、自分がどんなに辛く苦しい思いをするよりも嫌なのだ。だけど、その願いは決して大き過ぎるものではない筈だ。
 彼はただ、此処にいたかっただけだ。如何してそれが許されない。如何してこんなに苦しい思いをしなければならないのだ。
 画面の向こうで、霖雨が何かを伺うように香坂を見た。その面は人形のように無表情だったけれど――、突然、泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。


『――いい、の?』


 掠れるように小さな声だった。香坂は静かに頷いた。一体誰がそれを否定するというのだ。


『驟雨……』


 俯きながら、絞り出すように、噛み締めるように霖雨は言った。


『助けて』


 顔を上げた霖雨の頬を、一筋の涙が伝った。大きな瞳は閉ざされ、幾つもの涙が床へ落ちて行く。触れられないと解っていながら、霖雨は画面へ手を当てた。導かれるように驟雨も、画面越しに掌を重ねる。


「……助けるさ……! 例えお前が何処にいても、何度でも……!」


 罪滅ぼしでも、恩返しでもなく、ただ霖雨が大切だから。如何してかなんてもう言わせない。





Act.14 Your name is called.





 乾いた音がスピーカーから響き渡った。それが余りに場違いな拍手の音だと気付いた時、霖雨の後ろに白衣の男が立っていた。


「――三間坂ァ!」


 叫んだのは香坂だった。胡散臭いまでの笑みを浮かべた三間坂は霖雨の肩に手を置き、画面を覗き込んだ。


『久しぶりだね、香坂』
「てめぇ、絶対ェ許さねぇ……!」
『そう吠えるな』


 余裕たっぷりにそう言った三間坂には笑みが浮かぶ。


『楽しい余興だったよ、霖雨、驟雨』


 目を伏せた霖雨に対して、驟雨は今にも噛み付きそうな目で画面を睨む。その手は画面越しの霖雨の手に重なったままだ。三間坂は口角を上げたまま、言った。


『良いことを教えてやろう、驟雨。これまで霖雨がどのように過ごしたか』


 その瞬間、霖雨の肩が怯えるように震えた。
 画面がガタガタと激しく動き、カメラの位置が変わったらしく二人の背後は大きな空間だった。服を掴まれ身動きできない霖雨が引き摺られるようにカメラの前に差し出される。背後に見える数人の男。
 霖雨がどのように過ごしたのか。驟雨の背中に冷たいものが走る。見たところ、霖雨に目立った外傷はない。けれど、このやつれ方は異常だ。


「止めろ……」


 悟った驟雨は祈るように呟いた。三間坂が嗤う。


『此処には酒も煙草も薬も女もない。男ばかりの大所帯で、大した娯楽も無くてね。…… これだけ顔が整っていれば、男も女も関係ない』


 クツクツと喉を鳴らして卑下た嗤いを浮かべる三間坂に、香坂や樋口もその言葉の意味に気付いた。それは嘗て霖雨が十年に亘って受け続けた身体のみならず精神にも及ぶ暴力だ。それを今、此処で行おうというのだ。


「頼む、止めろ……! 止めてくれ!」


 驟雨の声は届かない。三間坂は画面の前にいた霖雨の肩を掴み、背後の男達へ投げ付ける。怯えたように震える指先が、驟雨へと伸ばされている。
 その時、霖雨が何かを言った。声は届かない。けれど、その口は確かに。


 助けて


 そう叫んでいた。
 男達の中に掻き消えていく細い腕が、整った顔が、縋り付くように驟雨へ向けられる。最後の一瞬まで必死に伸ばされた掌が震えている。


『――驟雨、助けて!』


 霖雨の声がする。それは助けを求める声であり、悲鳴だ。驟雨の目に動揺が映り込む。
 狂ったように驟雨の名を呼ぶ霖雨の声が、スピーカーから空しく響く。画面の奥で心身だけでなく人間としての矜持すら踏み躙る暴行が行われている。けれど、手前では薄笑いを浮かべながら三間坂が此方を見ていた。


『嘗て江戸時代の農民は、生かさぬよう殺さぬように税を徴収される為だけの存在であった。今の霖雨によく似ていないか?』
「てめぇ、今すぐそれを止めろ!」


 香坂が噛み付きそうな勢いで叫ぶ程に、三間坂は笑みを深くする。


『止めると思うかい? こんなに愉快な余興を』


 そう言って驟雨を一瞥する。だが、驟雨の目は投げ出されたように伸ばされた霖雨の掌をじっと見詰めたままだ。噛み締められた唇から、握り締められた拳から血液が落ちる。それは紛れもない生きている証だ。
 霖雨から目を逸らさないまま、驟雨は言った。


「これ、以上……」


 酷く悔しそうに、噛み締めるように驟雨は言う。


「これ以上、あいつを道具のように扱うのは止めてくれ……!」


 今も鼓膜に響く霖雨の悲鳴。必死に伸ばされる手。何度踏み躙られても必死に驟雨を呼ぶ声。
 やっと、彼の口から聞くことが出来たのに、如何してこの手は届かない。
 三間坂は満足そうに笑うだけで、驟雨の願いを聞く気などありはしない。


『面白い話をしてあげよう』


 香坂と樋口が揃って怪訝そうに眉を潜めるのに対して、驟雨だけが変わらず霖雨を見詰め続ける。三間坂は気に掛けることもせず、続けた。


『朱鷺若と言う国が幕末に滅んだ。……知っているな?』
「ああ」
『その理由も知っているか?』
「幕府軍に属していた朱鷺若は、幕府の命を受けて討幕軍と戦った。だが、朱鷺若は圧倒的数の軍勢に攻め込まれ、三か月間に及ぶ籠城戦の後、殲滅された」


 自らが調べたデータを告げる樋口に、三間坂は笑みを浮かべる。驟雨は無表情のまま黙ったままだ。三間坂は言った。


『調べが甘いね、樋口』
「何?」
『朱鷺若が攻め込まれた理由、それは領主の神通力にある』


 またオカルトか、と樋口が呆れたように舌打ちする。だが、三間坂は続ける。


『朱鷺若の当時の領主は常盤春馬といったそうだ。籠城を続ける中で当時の殿が逃亡し、祭り上げられたその男は僅か十八歳。だが、奇妙な神通力の持ち主だったという。覚えているだろう、驟雨』


 だが、驟雨は答えない。
 常盤という名に覚えがある。香坂は話に聞き入っていた。


『その力を恐れた討幕軍は朱鷺若を殲滅し、常盤春馬を処刑した』
「神通力とは、何のことだ」


 問い掛けた香坂を一瞥し、三間坂は驟雨に言った。


『覚えているだろう、驟雨。常盤春馬の神通力を』


 それまで黙っていた驟雨が、口籠るような声で漸く言葉を放つ。だが、その眼は変わらず画面の奥で繰り広げられる狂宴を睨んだままだ。


「時の扉を開く力だ」
「時の扉……?」


 驟雨は言った。


「実際に見た訳ではない。俺も春馬から話に聞いただけだ。過去と未来を繋ぐ時の扉を開く力が朱鷺若には代々伝わっていると、そう聞いている」
『そう、時の扉とは言わばタイムマシン。その扉を開くことのできる時の番人の力は現代にも受け継がれている……』
「まさか」


 はっとして香坂は画面の奥を見た。


「霖雨が……、そうなのか?」
『私が君達を襲撃したあの日、霖雨は時の扉を開いた。驟雨、君を助ける為にね』


 思い当ったように驟雨もまた、目を見開く。握り締めた拳から滴る血液が今もその生を証明している。
 そういうことか、と合点いったように驟雨が呟く。


「俺の体は……時を越えたのか」


 三間坂は喉を鳴らした。


『そうだ。君の魂が実体化した訳ではない。君の元に、滅ぶ前の肉体が呼び寄せられたのだ』
「そうだとして、だから何だと言うんだ! それが霖雨に何の関係がある!」


 じれったくなった香坂が叫ぶ。


『君には解らないのか、この価値が。時の扉さえあれば歴史を変えることもできる。これは謂わば兵器だ。解るだろう、この魅力が! 驟雨、解るだろう?』
「興味無いな。俺にとっては過去よりも、霖雨と共に生きる未来の方が魅力的だ」


 平然と言ってのけた驟雨は冷静さを繕ってはいるが、腸はとっくに煮えくり返っている。三間坂は溜息交じりに言った。


『この価値が解らないとは残念だよ。君さえ良ければ、共に時の扉を使おうと思っていたのだが』
「――いい加減にしろッ!!」


 驟雨が叫んだ。堪忍袋の緒が切れたように三間坂を睨む目は呪い殺さんばかりに鋭い。


「霖雨を道具扱いするんじゃねぇ!」


 だが、その時、激昂し叫んだ驟雨の耳に、微かに声がした。酷く優しい声だった。その声の主を知っている驟雨は一瞬にして冷静を取り戻し、力なく伸ばされた掌を見詰めた。


『――しゅ う う』


 この自分を呼ぶ声が全てだと思った。
 実体など無くてもいい。過去など変えられなくてもいい。ただ、彼が幸せならそれでいい。
 幕末、処刑された常盤春馬は驟雨にとって唯一無二の親友だった。彼が処刑される寸前まで足掻いたが、驟雨は時代の流れに消される彼を救うことが出来なかった。春馬が処刑された後、驟雨も同じように処刑された。けれど、仲間を救うことの出来なかった空しさと時代への恨みから魂だけが地上に残った。
 移ろう時代の中に取り残されたまま、地縛霊となってその場に漂うことしかできなかった驟雨の元に現れたのが霖雨だった。彼は余りにも、――春馬に似ていた。それは転生だ。
 初めは春馬への贖罪行為だった。けれど、霖雨には霖雨にしかない光がある。それに気付いたとき、驟雨はこの子どもを守ろうと思ったのだ。
 驟雨はそれまでの怒りなど忘れたような穏やかな声で、諭すように言った。


「俺は此処だ、霖雨」


 小さな子どもに言い聞かせるように、驟雨は繰り返した。


「此処にいる……」


 男達の足の合間に見えた霖雨の目は閉ざされ、既に意識は無いようだった。頬には涙が伝った跡が残っている。けれど、驟雨は画面越しに霖雨を撫でた。
 その瞬間、薄く開かれた霖雨の目が確かに驟雨を捉えた。


「俺の名を呼べ、霖雨」


 壊れたスピーカーのように、助けてと叫び続ける霖雨に驟雨の声が届いているのかは解らない。けれど、驟雨は今にも泣き出しそうな目で、それでも霖雨を見詰める。
 これ以上、驟雨にこの映像を見せる訳にはいかないと思った。香坂が映像を止めようとするのに気付き、驟雨は言った。


「俺は、あいつの声を一つだって聞き逃す訳にはいかないんだ。あいつの声は全部受け止めてやる。それが俺の望んだことだ」


 けれど、辛いだろう。香坂がそう言おうとしたとき、画面を縁取るように光の粒子が集まり始めた。


「何だ、これは!」


 目の前の状態が信じられないように樋口が叫ぶ。けれど、驟雨は平静を保ったまま答えた。


「時の扉だ」


 無数の星屑のような輝きは静かに、眠るように死んでいった。画面の中には固く目を閉ざした霖雨がいる。意識を失ったのだろう。驟雨は穏やかな笑みを浮かべた。いっそ、意識を失った方がいい。
 驟雨は漸く三間坂に目を向ける。


「……三間坂。すぐ、其処へ行く。時の扉が霖雨の居場所を教えてくれた」
『何?』
「お前は絶対許さねぇ。首を洗ってるんだな」


 不敵な笑みを浮かべた驟雨に、三間坂もまた笑みを浮かべる。


『いいだろう。だが、お前が此処に辿り着くまで、霖雨はこの狂宴を繰り返し続ける。それを忘れるな』


 表情を変えぬまま、三間坂には見えぬように驟雨は拳を握った。


「上等だ。すぐに行く。もう待たせねぇ」


 ふふ、と笑みを浮かべた三間坂を最後に通信は途絶えた。真っ黒なディスプレイにはもう何も映ってはいない。驟雨は血塗れの拳をじっと見つめていた。




2011.1.17