俺は間違っていた。霖雨はそう思った。
 両親の元から知らぬ男に連れられながら、何時でも抱き締めてくれた母が初めて自分の名を呼んでくれた。それだけで十分だった。例え傍にいられなくても、抱き締めてくれなくても、たった一度でも名を呼んでくれたことだけが自分の誇りだった。
 柄にもなく、行くなと必死に叫んだ驟雨の声も聞こえていた。自分の向かう地獄が見えなかった訳ではないけれど、それでも、両親が救われるなら構わなかった。守られる一方の自分でも、誰かを救いたかった。
 出口のない暗闇の中で受ける人と人とも思わない残虐な仕打ちに、死にたいと願うことは何度もあった。だけど、その度に驟雨の声がした。


――俺が必ず、お前を助けてやる。だから、諦めるな


 今にも泣き出しそうな顔で、壊れそうな力で掌を握る驟雨こそ助けてあげたかった。
 俺は大丈夫。大丈夫だから、そんな顔するな。俺は負けない。俺がこうしていることで両親が救われるなら、こんなちっぽけな命の些細な人生はどうだっていいんだ。こんな俺にも救えるものがあると信じることが自分にとっての救いだった。
 十年という長い月日は様々なものを麻痺させた。体の痛みも心の辛さも何もかもぼんやりとしていて、与えられる全てを享受するしかない日々に自分の存在意義を見失いかけていた。死にたいと願った。けれど、死んではいけないとも思った。驟雨だけが変わらず其処にいてくれた。
 辛かったんだ。
 苦しかったんだ。
 道具のように扱われることも、空の見えない生活も、自分を抱き締めてくれた母と二度と会えないことも、死にそうな顔で此方を見詰め続ける驟雨も、何もかもが辛くて苦しくて泣きたくて逃げたくて。それでもどうにもできないこの現実が怖かった。
 生きて行くのが怖かった。もう死んでしまいたかった。だから、あの瞬間、全てが音を立てて壊れたんだ。
 暗い密室の隅に置かれた四角いテレビに、両親の顔が映った。父が母を殺し、警察に射殺された。その有り触れた悲劇が引き金を引いた。
 じゃあ、俺は何の為に。何の為に此処にいるんだ。何の為に、何の為に、何の為に!
 俺には何も救えない。頭が真っ白になった。何時だって自分を支えて来たのは、此処で生きることで両親を救っているという自己満足だけだった。それが無くなってしまった。
 零れ落ちたのは涙では無かった。絶対に求めてはいけないものだった。絶対に求めてはいけない救いを、絶対に求めてはいけない人に求めてしまった。


――助けて


 その言葉が全てを闇に消した。目を見開き此方を見た驟雨が、今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。壊れ物を扱うかのような優しい手付きで視界を覆った。そこで暗転。一切の記憶は途絶えた。
 眼を覚ましたその瞬間、其処は血の惨劇だった。見知らぬ煌びやかな空間は地獄絵図と化し、大勢の人間が物言わぬ肉片となっている。自分の手に握られた血塗れの包丁。何が起こったのかは解らなかった。驟雨の姿は何処にもなかった。けれど、耳に響く鼓動は二つ。驟雨の居場所を知ったと同時に何が起こったのかも理解した。
 この惨劇は驟雨の手によるものだ。けれど、その引き金を引いたのは自分だ。
 驟雨が苦しんでいるのは、自分のせいだ。あのとき、助けてなんて言わなければ良かった。ただ其処にいてくれた、名前を呼んでくれた、それだけで十分だったのに、助けて欲しいなんて望んでしまったから、驟雨が苦しみ大勢の人間が死んだ。全部全部、俺のせいだ。
 俺は間違っていたんだ。俺に何かが救えるだなんて、そんな筈ないのに思い上がっていた。
 警察と思しき男達に拘束され、血塗れの床に叩き付けられながら悲鳴を上げそうになった。そんな資格は無いのに。引き摺られながら願ったのだ。もう誰も傷付けたくない。もう誰も苦しめたくない。だから、もう何も求めない。何もいらない。だから、どうかどうか、驟雨だけは。
 こんなにも歪んだ人生の歯車に驟雨を巻き込んではいけない。願わくば、驟雨に自由を。彼が彼として再び生き、幸せになれますように。俺はもう何も望まない。けれど。


 俺はもっと、優しくなりたい。





Act.15 stardust.





 タイムマシンと言われて、未来を連想するものは少ない。それは、人が未来よりも過去に対しての執着が強いからだ。未来を変えるには過去を変えなければならない。人が変えたいのは未来ではなく、今現在の自分なのだ。
 通信の途絶えた大きなディスプレイの前で、香坂はずきずきと痛む頭を押さえた。この僅かな時間に色々なことが有り過ぎた。
 一瞬、ディスプレイを包み込んだ星屑のような光は既に無い。それを時の扉と言った驟雨は口を噤み、呪い殺すような鋭い目で真っ黒に塗り潰されたディスプレイを睨んでいる。香坂は意を決して問い掛けた。


「時の扉とは、本当なのか」


 過去と未来を繋ぐ謂わばタイムマシンのような力が、霖雨にはあると三間坂は言った。俄かには信じ難いその非科学的な主張を、嘗ての自分なら下らないと一蹴しただろう。けれど、今は違う。自分の身の周りで起こり続けた信じられないオカルト的な出来事は全て現実だ。
 驟雨は香坂を見た。その眼は光が失われ虚ろなガラス玉のようだった。


「さあな。言っただろう、俺も見たことがある訳ではない。春馬から、聞いただけだ」


 当時の朱鷺若城主、常盤春馬は神通力を持っていたという。それが過去を書き換え未来を覗く時の扉。その力を恐れた討幕軍によって朱鷺若は滅ぼされた。
 それまで黙っていた樋口が口を開いた。


「でも、おかしいじゃないですか」


 オカルトを一切信じない思考の樋口にとって今の状況は最悪だろう。焦りか苛立ちか、常に飄々とした態度を崩さない彼には珍しく早口に言った。


「もし、霖雨にその時の扉を開く力があったとして……。如何して、あの日あの瞬間に扉を開いたと言うんですか」


 樋口が言うのは、霖雨が連れ去られた日のことだ。銃口を向けられたとき、霖雨は時の扉を開いて江戸幕末に滅びた筈の驟雨の肉体を呼び寄せた。二心同体であった驟雨と霖雨が分離したのはあの瞬間だ。
 けれど、その行為にどんな意味があったというのだろう。あの時分離しなければ今も驟雨は霖雨と共にいただろう。肉体さえなければ驟雨は銃弾を撃ち込まれることもなかった。
 香坂は既に理解している。霖雨の思考は常に自己犠牲だ。答えようとした香坂に代わって、驟雨が目を伏せたまま答えた。


「俺を救いたかったんだ。待ち受ける地獄を知って、苦しむのは自分だけで十分だと思ったんだ。俺と離れるには、楔となる肉体を別けるしかない。あいつは自分の力を知らなかった無意識の行動だろう」


 あの日あの瞬間、霖雨は願ったのだ。
 此処にいたいと。驟雨と、香坂と共に生きたいと願ったのだ。けれど、それ以上に強く祈った。彼等を助けたい、救いたい、守りたい。それは弱い彼の持つ優しさだ。脆いが故の強さだ。


「時の扉か……」


 噛み締めるように、驟雨は言った。
 胸の中にあるのは、自分が命を落とした幕末の母国だった。未来を見通す力を持っていた春馬は、朱鷺若の滅亡を知っていたのだろうか。知っていたとしたら、彼はどんな気持ちであの戦を続けていたのだろう。
 踵を返すように驟雨は歩き出す。黒い長着が翻った。
 ディスプレイを包んだ時の扉と呼ばれる光の粒子が、霖雨の居場所を教えてくれた。驟雨の目には天の川のような光の粒子が進むべき道を教えてくれているのが見えている。足を踏み入れる度に水が撥ねるように光が煌めく。
 明かり一つ無い長い回廊ではより鮮やかな青白い光となった。後を追って来る香坂と樋口には見えないものだと解った。
 その星屑を、美しいと思う余裕など驟雨には無かった。耳には霖雨の声が木霊している。目には霖雨の伸ばされた手が浮かび続けていた。


(待ってろ、なんて言わねぇ。俺は今すぐ、其処へ行く)


 鼓膜をぶち破るような大量の発砲音が地下空間に響き渡った。
 何の迷いもなく進み続けた驟雨が足を止めたその瞬間、正面から放たれたのはマシンガンの銃弾だった。それは素人の扱えるものではなく、軍隊等で特殊な訓練を受けなければ触れることすら出来ないものだと解る。
 三人を待ち伏せていたのは玄人だ。警察などという生温い連中ではない。恐らく軍隊。崩落した瓦礫に身を隠しながら香坂は単発の拳銃を構える。
 途切れることのない銃弾に応戦することが出来ない。発砲の瞬間の火花に、スナイパーの顔が闇に浮かぶ。見覚えのない顔だが、恐らく三間坂の刺客だろう。
 マシンガンを相手にしたことなどない。こんな場所で立ち止まっている訳にはいかないのに、と思うのに動くことができない。心の中で悪態吐く香坂の目に信じられないものは見え、咄嗟に叫んだ。


「――驟雨っ」


 闇に溶ける黒い長着を揺らしながら、腰の刀に手を掛けて真っ直ぐに歩いて行く。避けようという意志すら見せぬその姿は自殺行為に過ぎない。暗闇の中とはいえ、こんなにいい的はないだろう。
 だが、一秒間に数え切れないような大量の銃弾を放つ兵器は、驟雨を一切傷付けない。まるで銃弾が驟雨を避けているようだった。


(何が、起きてる)


 目の前の状況が理解できない香坂が目を見開く。隣で、樋口が言った。


「あいつに銃弾は当たりません」


 驟雨は何時の間にか腰の刀を抜いている。闇に光る紅い閃光。


「朱鷺若の警備、烈火隊副長。戦場では斬った敵の血が常に霧のように舞っていたと言います。故に血の霧雨と呼ばれた桜丘驟雨は、三か月に及ぶ籠城の中、刀一本で圧倒的多勢の兵やガトリングガンと渡り合った……」


 香坂は信じられないものを見るような目で驟雨を盗み見る。


「幾ら戦闘のプロと言っても、実際に幾度となく死線を潜り抜けて来た男を相手に敵う筈がない」


 樋口は香坂が合流するまでの間、こうして戦い続ける驟雨の傍でずっとその姿を見て来た。
 幾ら鍛えたといってもこの微温湯のような現代と、群雄割拠する幕末の戦乱だ。戦いに対する経験が、覚悟が違う。
 驟雨は真っ直ぐに歩いて行く足を止めることなくマシンガンの正面まで進むと、一瞬の閃光で男を銃の首を落としていた。
 狭い回廊を埋める赤と鉄の臭い。その中を平然と歩く驟雨はまるで殺戮のみを目的とした鬼のようだ。何かに取り憑かれたように進み続けるその足は迷いなく霖雨の元へと向かっている。


(俺は、願ったんだ)


 驟雨は足元に煌めく星屑を踏み締めながら、真っ直ぐに歩いて行く。けれど、頭に浮かぶのは霖雨のことばかりだった。
 耳を劈くような悲鳴が、零れ落ちた涙が、伸ばされた手が、滲んだ血液が、やっと放たれた助けを求める声が胸を締め付ける。助けたい、守りたい、救いたい。
 霖雨は優し過ぎる。他人を切り捨てることができれば、彼はもっと幸せになれただろう。少なくとも、こんな未来は訪れなかった。それでも、その優しさを愚かだと笑うことだけは出来なかった。全て自分が悪いと思う歪んだ優しさが彼にはある。だけど、それでいい。霖雨はそれでいい。人がどんなに馬鹿にしても、踏み躙っても、彼は彼のままでいて欲しい。


(お前の優しさを守るから)


 地上への穴には赤い夕日が差し込んでいる。時の扉の星屑が蛍のように夕闇に浮かび上がる。
 仄かに香るように瞬く淡い光の粒子は、まるで霖雨の優しさを表しているように感じた。その一つ一つが呼んでいるような気がした。命を燃やすような光に手を伸ばしても、決して触れることは出来ない。握り締めた拳の隙間から零れ落ちる光が、まるであの時、背中を向けた霖雨のようで胸が苦しかった。
 漸く地上へ到達した驟雨は返り血一つ浴びてはいない。樋口は黙って車のドアを開ける。


「行先、案内して下さい。解るんでしょう?」
「ああ……」


 掌から舞い上がっていく光の粒子を見届け、驟雨は目を伏せた。既に闇に沈んだ森の中を、時の扉が天の川のように走っている。漆黒の闇に輝くそれは、霖雨が残した最後の希望のように感じられた。
 すっかり慣れた手付きで後部座席に乗り込む驟雨。遅れて香坂が助手席に乗ると車は発進した。感情の籠らない淡々とした口調で行先を告げる驟雨。
 香坂は、助手席で終始黙っていた。先刻、三間坂が見せた人としての尊厳を踏み躙る行為が脳内で繰り返される。人は誰しも幸せになる権利がある。香坂はそれを信念にこれまで生きて来た。だから、人を人とも思わぬ仕打ちを平然と行う三間坂が許せない。
 許せない、けれど。
 驟雨だけでなく、自分や樋口を救う為にその地獄へ自ら足を勧めた霖雨は何を思うのだろう。如何して、そんなにも簡単に自分を投げ出すのだろう。答えの返って来ない問いを何度も何度も繰り返しては絶望する。香坂は気付いていた。霖雨の中にある自己犠牲を促す感情の正体を。
 気付いた瞬間、苦しかった。その感情は香坂にも同じくあるものだ。決して消えることなく胸の中で燻り続けるだろう。


(どうか)


 神など信じてはいない。けれど、願った。


(どうか、あいつ等の未来に光が溢れていますように。そして、その両目が光を見つけることができますように)




2011.1.25