外は雨が降っていた。車窓を打つ滴は、まるでモザイクのように外界の様子をシャットアウトしている。忙しなく動くワイパーを頼りに悪路を進む樋口が舌打ちする。進行は困難を極めている。
 けれど、その隣で驟雨は車窓から見えもしない外を眺めている。否、外は愚か窓すら驟雨の目には映っていない。その目に映るのは、自分が生きていた頃。幕末であった。





「春馬様ッ、賊を捕縛致しましたッ!」


 大の大人が声を荒げて見っとも無いと、驟雨は子どもながらに冷めた思いで見ていた。
 縄を打たれ、身動き一つできないというのにふてぶてしい態度を崩さない子どもに大層腹を立てただろう。主君の御前に引き連れ、大手柄だと周囲の者に訴えるつもりであったのだろうが、捕らえた者が子ども一人では笑い話にもなりはしない。
 朱鷺若の領地を荒らす賊がいると、怯える町民の話を受け、みれば其処にいたのは一人の子ども。青年とも少年とも付かぬ美しい相貌ながら、十名の腕の立つ武士が束になっても敵わない。それを人海戦術で捕らえ、重傷を負いながら城に戻ってみれば主君は不在であった。


「……御苦労だった」


 苦笑交じりに言ったのは、一人の少年であった。それは人とは思えぬ程に美しい相貌をしていた。満天の星空や海の彼方から昇る旭のように、見る者を選ばない無双の美しさだ。
 驟雨は言葉を失った。こんな人間がこの世にいるのかと、本気で思ったのだ。少年は姿勢を崩したまま、掌に閉じた扇子を弄び言った。


「お前、名前は?」
「そんなもん無ェ」


 拗ねたように唇を尖らせ、ぷいとそっぽを向けば周囲の家臣と思しき武士が騒ぐ。けれど、その中で目の前の美しい少年は、扇で口元を隠しながら笑っていた。
 くつくつと喉を鳴らすように笑うその姿は、美しい相貌に見合わぬ悪童の笑みに近かった。ぽかんと、毒気に当てられたように少年を見る驟雨。同様に動きを止めた武士達に気付き、少年は慌てて扇子を閉じて咳払いをした。


「俺の名は、常盤春馬。現城主の息子。此処じゃあ、若なんて呼ばれてる」


 不敵に笑う姿はやはり、悪童そのものだ。先刻までのしなやかな美しさなど最早欠片も見えない。けれど、その双眸に映る強く鋭い眼差しこそがこの男の本性だと気付いた。


「西の桜の丘に現れるという賊を成敗してくれと申し立てがあったそうだな。俺は先刻聞いたばかりだが、その賊は滅法強いと聞く。武士が束になっても敵わぬ、美しい相貌は鬼か夜叉かと言われていたそうだが……ただの餓鬼だったようだな」
「んだとォ!」


 いきり立ったと同時に畳の床に叩き付けられ、驟雨は小さく呻いた。春馬はそんなこと気にも留めずに言葉を続ける。


「だが、こうも聞いた。どうやらその賊は、賊しか狙わぬ義賊なり、と。差し詰め、父上もお前を生け捕りにしたということは手元に置きたかったのだろう」


 ざわりと周囲が揺れる。床に頬を打ち付けられたまま自然と見上げる形に睨む驟雨を見ながら、春馬は言った。


「父上も物好きよな。こんな餓鬼が、戦場で使えるものか。せいぜい殺されぬよう逃げ回って小便垂れるのが関の山だろう」


 揶揄するように春馬が笑えば、同じように周囲の武士も嘲笑う。驟雨は叫んだ。


「てめぇ、好き勝手なこと言いやがって! 大体、お前等が能無しだから俺みてぇな餓鬼が溢れ、賊が徘徊するんだろう!」
「貴様ッ」
「飢餓も貧困も知らぬお前に何が解る! 偉そうな顔しやがって、親の七光りだろうが!」


 傍の武士が鯉口を切る。だが、そのとき。それを扇子で諌めながら春馬が立ち上がった。


「良い度胸だ。この場に引き立てられても、全く怯えがない」
「当たり前だ! お前等なんざ、怖くねぇ!」


 その言葉に、口角を上げた春馬は、パチンと扇子を閉じた。


「よし、決めた!」


 突然、その穏やかな物腰とは裏腹に発した大きな声に一同びくりと肩を揺らす。春馬は腰に手を当て、実に堂々と言い放ったのだ。


「今日からお前は俺の友達だ!」
「なッ――!」


 何を言うのか、乱心したのか、と言葉も選ばず好き勝手に言い放つ家臣の言葉に耳を傾けず、子どもらしい満面の笑みで春馬は言ったのだ。
 どよめく面々を一瞥し、春馬は驟雨をじっと見詰め膝を着いた。


「……俺はな、未来朱鷺若を治める次期領主としてあらゆる勉学や武芸に励んで来た。だが、本当に大切なものはそんなものではないと、俺は思うのだ」


 腰に差した小刀で、何の迷いも無く驟雨を捕らえる縄を切り落とす。はらはらと落ちて行く幾重にも巻かれた縄の残骸を見遣り、驟雨は言葉を失ったままだった。
 春馬は言った。


「俺は朱鷺若の領主である前に、一人の人間でありたい。人として国を、民を守りたいのだ」
「若……」
「こんな場所では、民の声は聞けぬ。一人きりでは国は背負えぬ。だというのに、俺はずっと一人だった」


 微笑みを浮かべる春馬には、昏い陰があった。驟雨はその何処か寂しげな相貌をただ見詰めている。


「俺は、ずっと友が欲しかった。決して裏切らない、裏切れない、どんな時でも心の底から信じ合える友が」
「……は。それが、俺だって言うつもりか?」


 小馬鹿にするつもりで、驟雨は鼻で笑う。けれど、春馬はにこりと微笑んで手を差し出す。


「さあな、それは解らない。だが、俺には澄んだ目をするお前が悪党には、如何しても思えないのだ」


 驟雨は黙った。これまで、悪鬼と蔑まれながらも賊を狩り、泥水を啜って必死に生きて来た。石を投げ付ける者はいたが、手を差し伸べる者などいなかった。睨み付ける者はいたが、微笑み掛ける者はいなかった。刀を振り上げる者はいたが、人として真っ直ぐ向き合う者などいなかった。
 こいつは、他の者とは違う。
 驟雨が心の中でそう確信したとき、春馬は通り雨が降り頻る外を見詰めて言った。


「お前、名が無いと言ったな」


 何か思い付いたように驟雨を見て微笑み、春馬は言った。


「――驟雨。お前の名は、今から驟雨だ。桜丘、驟雨」


 なんて安直な名前だろうと思った者もいただろう。けれど、初めて手にする名前というものが、まるでお前は一人の人間だと教えてくれているような気がして、驟雨は黙って頷いた。





Act.16 my friend.





「畜生ッ、また、負けた!」


 悔しそうに床板を叩き付け、拳がぎしりと軋んだ。驟雨は目の前に転がる竹刀を睨むように見詰め、そのまま正面の男に視線を移す。壮年の男はそんな驟雨を見て、楽しくて仕方がないとでもいうように、白い歯を見せて笑った。


「お前もよくやるなァ」


 年季の入った道場の壁に寄り掛かって座りながら、呆れたように言うのは春馬だった。
 朱鷺若城の道場で、他の武士と揃いの袴を纏う春馬は一見すると一人の子どもだが、やはり、彼の精練された仕草や気品が身分の違いを感じさせる。
 春馬と出会ってから、彼の父の計らいで共に剣術を学ぶこととなった。我流の野良犬剣法でこれまで生きて来た驟雨は、武士の型に嵌った剣術など子供騙しだと嘲笑っていたが、朱鷺若最強の武士と呼ばれる伊庭正造に出会ってからというものその考えを改めざるを得なかった。何しろ、驟雨は伊庭から未だ一本を取ったことが無かったのだ。こてんぱんに負かされる度に、悔しい思いが胸を満たす。何度繰り返しても敵わぬ相手に生まれながらに負けず嫌いの驟雨の気持ちは膨らむばかりだ。
 毎度負かされる驟雨の姿をいつも見物している春馬は、既に厭きたとでも言いたげに欠伸を噛み殺す。けれど。


「じゃあ、次は俺の番だ!」


 張り切って立ち上がった春馬の手には一本の竹刀。春馬とて、負けず嫌いだ。領主の息子などという身分に囚われず、何時も驟雨も春馬も同様にこてんぱんにしてくれる伊庭という存在は何より有り難かった。
 そして、毎日のように伊庭に挑んではこてんぱんにされ、それでもめげず諦めない春馬という存在は、驟雨にとって何よりも励みになった。
 春馬と出会ってから、二年の月日が経とうとしていた。
 道場でたっぷり汗を掻いた後、二人で町に出るのが日課だった。身分に拘らず温厚ながらも子どもらしさを持つ春馬を、町民は皆愛していた。そして、春馬も同じように朱鷺若に住まう全ての人々を愛していた。生き付けの和菓子屋で団子を四本買い、それを持って城の天守閣に登る。其処から朱鷺若の領地を見渡す。領地を取り囲むように群れる桑畑や、賑わう街道、突き抜けるような蒼穹と大地を照らす日輪。それらを見渡しながら、春馬と何気ない会話を交わすのが驟雨は好きだった。買って来た団子を頬張りながら、今日も伊庭に勝てなかったと驟雨がごちている。その隣で、山々の間に消えて行く名も知らぬ鳥を見詰めながら、春馬が言った。


「この国は美しいだろう?」


 誇らしげに、春馬は言った。口一杯に団子を頬張っていた驟雨は、遠い目をする春馬の横顔を見て、同じように視線を朱鷺若という小さな国に向ける。
 生きる為に賊を狩りながら生活していた二年前は、こんなにも穏やかな日々が訪れることなど想像もできなかった。そして、あの時春馬と出会わなかったら自分は今頃何をしていたのだろう。領主に逆らって打ち首か、はたまた人形のように人を殺し続けたのか。


「ああ、美しいな」


 ぽつりと驟雨が呟けば、嬉しそうに春馬が微笑んだ。


「俺は将来、自警団を作ろうと思う」
「自警団?」


 現在、朱鷺若は城に住まう武士や岡っ引きによって平和を保たれている。けれど、日々変わっていく大きな時代のうねりはまだ幼い春馬も感じていたのだろう。今のままでは朱鷺若は守れないと。


「まだ誰にも話していない秘密の話だ。だが、近い将来……伊庭さんを始めとする腕に覚えのある者を集めて一つの組織を作ろうと思うんだ。この国を守る為に」


 其処で春馬は驟雨に向き合って、酷く真剣な目を向けた。


「驟雨。お前の力を貸して欲しい」


 驟雨は答えられなかった。そんなものは訪れるかも解らない未来の空想話に過ぎない。そして、この国を知って高々二年という驟雨に、この国を守る為に血を流せという春馬の言葉は余りにも身勝手だ。驟雨は朱鷺若というこの国の歴史も真実も知らない。知っているのは外見上の美しさだけだ。


「……俺に、この国を守る義理はねぇ」


 けれど、と驟雨が続けた。


「けど、俺はお前を守る為なら幾らでも力になってやる。この国の為ではなく、お前の為にこの国を守ってやるよ」


 その言葉に偽りは無かった。驟雨にとって、春馬は生まれて初めて出来た友達で、唯一の人との繋がりなのだ。春馬は少し驚いたような顔をして、すぐにまたいつものように微笑んだ。


「ありがとう、驟雨」


 人から感謝されたのは、生まれて初めてだった。むず痒いような気がして、驟雨はまた団子を頬張った。春馬は可笑しそうにその様を見ていた。
 だが、春馬はいつも遠くを見ていたと驟雨は思う。隣にいる驟雨ではなく、自分自身でもなく、大義というものをいつも真っ直ぐに見詰めていたと思うのだ。
 それから三年後、春馬はその言葉の通り朱鷺若で唯一の武装組織、真蜂隊を結成する。それは伊庭と隊長とする三十人程の少数組織ながら、副長に驟雨を置いた戦闘の専門家。その頃には、驟雨は伊庭と肩を並べるまでに剣の腕を磨き、次期領主の春馬の右腕として日々過ごしていた。
 そして、それから二年後。朱鷺若の滅亡を齎す運命の事件があった。戊辰戦争である。
 佐幕派として、討幕派と交戦を続けていた朱鷺若は、武道に秀でた国として重宝された。けれど、幕府軍は敗退を続け、取り残された朱鷺若は城に籠城し餓えと闘いながら討幕軍の攻撃に耐えるしかなかった。
 当時の領主は武芸に秀でた自国の力を過信していた。また、現状が見えていなかった。籠城を続ければ必ず幕府軍が救援に来てくれるだろうと信じていたのだ。家臣もそれを信じていたし、領主の幕府への揺るぎない忠心を誇りに思っていた。ただ、一人を除いては。


「……降服するべきだ」


 幼い頃から通い続けた天守閣で、乱雑に置かれた武器の影に隠れるようにしゃがみ込んだ春馬を見付けたとき、驟雨は言葉を失った。こんな春馬を見るのは初めてだった。
 何時だって凛と背筋を伸ばして前を見ていく春馬が、何の力も持たない子どものように膝を抱えている。度重なる戦闘で疲弊し切った体に鞭打って、姿の見えない春馬を探した先に見るものがこんなものだとは想像もしなかった。
 きっと、春馬が何とかしてくれる。驟雨は戦闘の度、そう思っていた。
 例え討幕軍が、朱鷺若とは比べ物にならない程の強力な西洋の武器を持ち出しても、領地をぐるりと数十倍の兵が取り囲んでも、餓えに苦しみ城内が血の臭いに溢れても、春馬がいれば何とかなる。驟雨はそう思って、これまで仲間を激励し、戦場へ送り込んで来た。
 だから、春馬のそんな姿は見たくなかった。否、見せてはいけなかったのだ。


「お前、何を言ってる」


 声は酷く乾き、冷たかった。春馬はぎゅっと拳を握る。
 満身創痍の驟雨に比べ、未だ雅やかな衣に身を包む春馬が憎らしく思えた。そんなことは初めてだった。包帯代わりの汚い布に巻かれた掌で、春馬の胸倉を掴む。


「今更、引ける筈、無いだろう!」


 そう叫びながらも、驟雨は知っていた。この戦争が始まる前から、春馬が戦に異を唱えていたことを。この戦争の意味を問いながら、この戦争の結末を悟りながら、守るべき民を守る為に幾度となく父を説得し、罵倒されても尚、訴え続けた春馬の真意を、驟雨は知っていた。
 だが、もう後には引けない。降服を求めるには、余りにも血を流し過ぎた。
 春馬は目を伏せたまま、絞り出すように言った。


「なら――、このまま皆死ねというのか!」


 こんなに感情的な春馬を見るのも初めてだった。


「このまま抗戦を続けて、もう戦うこともできない仲間も、女子どもも皆死ねというのか!」


 伊庭なら、そう言っただろう。武士道とは死ぬことだと、何の迷いも無く告げただろう。
 けれど、驟雨は武士ではなかった。それが幸せなのか不幸なのか、もう解らない。


「俺は嫌なんだ! これ以上仲間が死ぬのも……、お前が傷付くのも……!」


 ああ、と驟雨は思った。
 春馬は国の頭に相応しい男だ。剛毅果断で、温厚篤実で、民にも家臣にも愛された。けれど、国を統べるには余りに優し過ぎた。人の痛みをまるで自分のことのように苦しみ、悲しむことのできる男だ。
 戦場に出て傷付くのは確かに自分達兵士だ。けれど、共に戦うことも救うこともできず、戦場にただ送り出すことしかできなかった春馬が傷付かなかった筈がない。彼は、これまでずっと皆の心の支えであろうとして来た。弱さを見せず、強い意志で皆を率いて来た。
 春馬の大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。彼が涙を見せるのはこれが初めてだった。
 心の何処かで春馬を絶対視していた。春馬はきっと大丈夫だと、彼に強さばかりを求めた。だから、彼の抱えていた苦しみに気付かなかった。否、気付こうとしなかった。


(俺達は、何時から違ったのだ)


 当たり前のように互いの全てを解り合い、分かち合っていたあの頃。三か月に及ぶ地獄のような籠城戦の日々。こんなに近くにいるのに、どうして解らない。解ってやれなかった。
 この戦がどんな形であれ終結した先、全てを背負うのは領主だけではない、春馬も同様だ。
 もしも、負けたなら。
 脳裏に、腹に刀を突き刺す春馬の姿が浮かび上がり身震いする。想像し得る最悪の状況だ。全ての責任を取るのは、春馬でもある。それだけは、それだけは阻止しなければならない。


(俺は、誓った筈だ。俺が本当に守りたいものは国ではない)


 拳を握り締めて、大粒の涙を零した春馬。驟雨はその姿を真っ直ぐに見詰め、言った。


「春馬、今すぐに此処を出ろ」
「――何?」
「お前が此処にいると、都合が悪いんだ」


 腰に差した刀を握り、驟雨は覚悟を決める。この戦が始まる前、真蜂隊が結成された記念にと春馬がくれた一振りの刀だった。見たことが無い程に刀身が紅く、刃が激しく粟立ち、刃文は桜吹雪の如く乱れている。それは他の刀とは一線を引く、謂わば妖刀に程近かった。その刀を手に入れた経緯を春馬は話そうとしないけれど、ただ一言、言った。この刀の名は紅き桜、緋桜と。
 以来、驟雨は緋桜を一時たりとも肌身離さず腰に差している。固い覚悟と共に、刀を握る。


「俺達は降服する。お前等領主が逃亡したことによる降服だ。お前等に全ての罪を着せ、俺達は助かる」


 春馬は何も言わない。驟雨は続けた。


「お前等を恨むことが、俺達の生きる理由になる。だから、お前は此処から逃げろ! 恨まれ憎まれながら――生きろッ!」


 ぽつりと、驟雨の瞳から涙が零れ落ちた。
 こんなことしか思い浮かばない自分の無能さが悔しかった。春馬は何も悪くない。民から褒められこそすれ、恨まれる謂れはない。それなのに、愛する生国を捨て、恨まれながら生きろと告げる自分は何と残酷なのだろう。
 春馬が何か言おうと口を開いた。けれど、その時。


「春馬様ッ」


 真蜂隊の幹部である男が、転がり込むようにして天守閣に現れた。そして、春馬の顔も碌に見ないまま訴えかけるような切羽詰まった口調で言ったのだ。


「領主様が……、何処にも見当たりません」


 血の気が、引いた。


「先程から、真蜂隊を含む動ける者で探しているのですが……。恐らく、逃亡されたものと」


 春馬は、目を閉じた。驟雨は何も言えなかった。これで、驟雨の願った未来は閉ざされた。
 ゆっくりと目を開いた春馬の覚悟はもう決まっていた。それは、驟雨がどんなに説得しても、何をしても変えることのできない揺るぎない決意だった。


「解った。……すぐ、皆の元へ行こう。騒ぎを鎮めなくては」


 そうして颯爽を歩き出し、驟雨に背を向ける。春馬は二度と振り返らないだろう。
 春馬はその言葉の通り、騒ぎを治めた。いつでも領主の座を代われたのだ。彼にはそれだけの人望と器があった。そして、新しい主君だと騒ぎ活気付く中で一人部屋の隅に座り込み、驟雨は願ったのだ。
 富も名声も何もいらない。俺が欲しかったのは、あの時春馬が願ったものと同じ。俺は、友達が欲しかった。
 その勢いのままに戦闘へと縺れ込み、満身創痍の朱鷺若に勝機は無かった。それでも挑まなければならない戦争とは一体何なのだろう。負け戦と解った上で、死ぬ為に城門へ終結する傷だらけの仲間。驟雨は虚ろな目のまま、当たり前のように先頭に立つ伊庭に問い掛けた。


「俺達は……、何の為に戦うのですか」


 平然と、伊庭は答える。


「己の信念の為だ」
「なら、俺は此処に立つ理由はありません。俺はただ……、ただ、友達を守りたかったんだ」


 そう答えた驟雨に目も向けず、伊庭は肩を震わせた。奮起する仲間の雄叫びの中で微かに聞こえたそれは、笑い声だった。


「春馬様は死ぬ。この戦の責任を取る形でな」
「伊庭さん……?」
「殿の逃亡を手助けしたのは俺だ。……この国が取るべき道はもう、一つしかないのだ」


 喉を鳴らして笑う伊庭の横顔は、驟雨がこれまで見て来た伊庭という男から随分と掛け離れたものだった。それはまるで悪鬼のような、狂った笑い顔。


「滅びろ、朱鷺若」


 驟雨が耳を疑ったその瞬間、城門が開いた。其処には所狭しと犇めく敵軍が、ずらりと銃口を構えていた。
 声が聞こえたのだ。それはたった一人の友達の、懐かしい声だった。


――この国は、美しいだろう?


 この国を愛した友達。この国を守ろうとした親友。そして――、この国の為に死のうとしている心友。
 何の権利があって、彼等はそれを奪うのだ。
 止まらない、止められない。伊庭は狂ってる。春馬は殺される。誰も救われない。

 そんなの、



「止めろおおおおおおおおッ!!」」



 悲鳴にも似た怒号が、曇天の下に響き渡る。銃声と雄叫びの騒音の中ではっきりと聞き取れたその驟雨の声と共に、振り上げられた手には一本の槍。それがまるで矢のように粉塵の中を駆け抜ける。
 ずぶり、と。槍が食い込んだのは、討幕軍の指揮官らしき男。馬上の影がぐらりと揺れる。そのまま倒れ込む。ざわめく敵軍。一瞬の静寂。だが、伊庭がそれを阻む。


「突撃ィ! 退路は無い! 俺に殺されるか、敵に殺されるか、そのどちらかだ!」


 隊士の目に映るものは勇気ではない。恐れ、葛藤、嘆き、後悔。雄叫びではない、悲鳴だ。
 恐怖し立ち止まる若い隊士を、何の躊躇もなく伊庭が斬り殺す。


(何だ、これは)


 敵は誰だ、味方は何処だ、正義とは何だ、悪とは何だ。仁義も忠義も信念も何処にも無いじゃないか。
 春馬が降服を進言し続けた本当の意味が漸く解った。あいつはきっと、全部解っていたんだ。戦争とは人を変えてしまう。得るものは無く、失うものは大きい。
 失ってなるものか、と。
 腰の刀を引き抜いた瞬間、緋色の閃光が駆け抜ける。一直線に駆け抜けた先に、ずぶりと鈍い音がする。突き刺した大きな背中から微かな呻き声がした。


「貴、様……! 驟雨ゥうウ――!」


 濁った眼球が睨み付ける。振り下ろされる刃は蚊が止まる程に遅い。これが、あの頃春馬と共に越えたいと願った剣なのか。
 崩れ落ちる伊庭が呪い殺すように睨み付けていた。だが。


「剣を捨てろォ!」


 それは自軍だけに向けた言葉ではない。叫んだ驟雨の迫力に、両軍がぎしりと動きを止める。


「俺達は戦いを止める! その方らも、――止めよ!」


 その時、驟雨は何も考えていなかった。ただ、本能のままに行動した。
 迫力に押された討幕軍は、戦意を喪失させた朱鷺若をこれ以上攻め込むことはなかった。ただ、その時の驟雨は、大きな犠牲を払うことになることに気付きもしなかった。




2011.2.14