とてもよく晴れていた。
 戦塵によって常に曇天であったこれまでがまるで夢だったかのような蒼穹に、唐突に目が覚めたような気がした。戦争終結後、捕縛されたまま驟雨は引き摺られるように牢屋へ放り込まれた。同様に戦場へ向かった仲間も牢屋へ閉じ込められ、怪我人は朱鷺若の町民がどうにか手当てしてくれるということを報告という形で聞いた。
 このような結末になったことに後悔は無かった。伊庭を殺したことも、独断で降服したことも、それによって幾ら仲間から責められ恨まれても構わなかった。ただ一つ、春馬さえ生きていてくれれば。
 仲間は誰一人責めなかった。驟雨の行いを正しいと口を揃えて言った。
 春馬に会えないまま、数日が過ぎた。牢屋ながらも、籠城していた頃の朱鷺若城に比べれば随分とマシに感じた。泥のように眠っていた筈のその夜、何故か目が覚めた。隣の牢屋から声がしたのだ。


「――入れ」


 冷たく言い放つ声は討幕軍の誰かなのだろう。また、幕府軍の誰かが牢屋へ放り込まれた。始めはそう思っただけだった。けれど、暫くの沈黙の後、聞き間違える筈のない声がした。


「驟雨」


 寒々とした牢屋に凛と響く声。周囲の牢では仲間が死んだように眠っている。初春を迎え、世間では今頃桜が満開だろう。ひらりと舞い降りた桃色の花弁と共に声が脳に、魂に響く。
 喉がからからに乾いていた。


「春、馬――!」


 姿は見えない。けれど、壁の向こうから確かに聞こえた心友の声に縋り付く。聞き間違う筈が無い。春馬は今、この壁の向こうにいる。
 今、刀があればこんな壁一刀両断にしてやるのに。


「驟雨、お前に話しておかなければならないことがある」


 久々に聞いた春馬の声は、酷く真剣だった。


「朱鷺若には代々、神通力というものが受け継がれている。それは時に災害を回避し、日照りに雨を降らせた。その神通力は、時の扉という」
「……何を言ってる?」
「時の扉とは、過去と未来を繋ぐ扉だ。中には鬼が棲み、許可なく扉を潜るものを喰らうという」
「何の話をしているんだ!」


 状況も忘れて驟雨が叫んだとき、暗い牢屋の茣蓙に天の川を思わせる光が瞬いた。一瞬、目を疑った驟雨が体を強張らせると、姿も見えぬ筈の春馬が酷く冷静に言った。


「これが、時の扉。常盤の血を引くものは代々、時の扉の番人の使命を受ける。今は、俺が番人だ」
「春馬……?」
「此処は時の扉によって切り離された空間だ。時とは距離、時とは絶対の力。討幕軍は、その力を恐れたのだろう」


 此方の話を聞こうとしないその一方的な説明口調に苛立ち、驟雨が叫ぶ。


「いい加減にしろ! それが何だと言うんだ!」


 その荒げた声は牢に眠る仲間も看守も皆を叩き起こさんばかりの大声だったにも関わらず、誰一人目を覚ますことなく、誰一人異変に気付く者はいない。春馬の言う、時の扉によって切り離された空間というものが現実味を帯びて来る。
 黙ったままの春馬に、堪らなくなって驟雨は絞り出すような声で続けた。


「……もし、それが本当のことだとして。本当にお前にそんな力があったなら……、こんな事態を回避出来ただろう……!」


 責めているのではない。けれど、何の責任もないとは思っていない。
 戦争が起こることも、負けることも、父が逃亡することも全て見えていた筈だ。それなのに、如何して今最悪の状態にいるのだろう。
 春馬は、彼にしては珍しく歯切れ悪く答えた。


「言っただろう……。俺は、人でありたいと。人として国を、民を守りたかったのだと」


 確かに未来が見えていたとしても、春馬は同じ未来を選んだだろう。春馬はいつだって自分に出来得ることを全力で行って来た。真蜂隊を結成し、次期領主として武芸を学び、知識を付けた。町民と親しく、家臣を思いやり、立派に生きた。戦争が起こる前から、戦に異を唱え、勃発しても降服を進言し続けた。
 誰に馬鹿にされても、否定されても、何を言われても本当に大切なものを守る為に戦って来た。


「なあ、驟雨」


 ゆったりと語り掛けるように、春馬は言った。


「時代は廻るから、何時かまた、お前に逢える。例え全てを忘れてしまっていたとしても、その時は、今と同じように――」


 声が震えていた。顔を見なくとも、泣いているということが解った。春馬は鼻を啜りながら、ぽつりと問い掛けた。


「俺と友達でいてくれるか?」


 時の扉の光り輝く粒子が、ゆっくりと浮き上がっていく。それは蛍のように、天へ帰る星屑のように儚く消えていく。消えていく光を掌に浮かべながら、驟雨は答えた。


「当たり前だ……!」


 消えてしまった光を握り締め、驟雨は顔を伏せる。ぽつぽつと涙の雨が降る。地面に吸い込まれては消えていく。切り離された空間に落ちた滴は消えてしまう。
 けれど、其処には確かにあったのだ。驟雨は自分の存在を、春馬の存在を噛み締めるように言った。


「俺達はずっと、友達だ。時代が変わっても、名前が変わっても、形が変わっても、お前にとって裏切らない、裏切れない親友でいてやる」


 光の粒子が消え、新たな光が牢屋に差し込む。長い夜が終わり、朝が訪れたのだ。
 土の露出した回廊に響く無数の足音。


「出ろ」


 牢の開く音。最後に声が聞こえた。


「また逢おう」


 それが、驟雨の聞いた最後の言葉だった。
 春馬が処刑されたことを聞いたのはその日の日没の頃だった。自らが死刑宣告される以上の衝撃に、まともに立っていることすら出来なかった。知り得る限りの汚い言葉で看守を含む討幕軍を罵った。戦争を齎した外国を呪った。
 涙は出なかった。嗚咽も出なかった。零れ落ちたのは悲鳴と罵倒。誰かに否定して欲しかったのだ。こんなものは悪い夢だと、全て冗談だと、嘘でもいいから言って欲しかった。
 人目に晒される春馬の生首を見た瞬間、其処の見えない奈落に突き落とされるようだった。力の限り暴れた。数十人がかりで引き摺りだされ、何人もの人間を殺し、そして、押さえ付けられ頭上で刃が光った。其処で思考停止。

 気付いた時には、あの桜の丘に立っていた。





Act.17 dear my friend.





 百五十年もの長い月日を経て、漸く出会えたのだ。
 何時かまた逢える。だから、どうかその日までお休み。囁くような声で、春馬がそう言った気がした。朱鷺若で過ごした穏やかな日々が、まるで昨日のことのように鮮やかに思い出される。けれど、思い出の中で笑う春馬と、全ての苦しみを隠して微笑む霖雨が重なる。
 お前が何処の誰でも、全て忘れてしまってもいい。友達でいるから、友達でいさせて。
 あんな思いはもう沢山だ。もう二度と、失ってなるものか。

 星屑が導いた先は、既に使われていない印刷工場だった。廃屋と化した筈の内部から微かに機械が稼働する音が聞こえている。此処か、と香坂が独り言のように呟いた。
 驟雨は着いた早々に車を降り、何の迷いも無く工場へと足を踏み入れる。


「――おい、驟雨ッ」


 周囲を警戒して銃を構える香坂と樋口を一瞥し、驟雨は面倒臭そうに言った。


「俺達は今、時の扉の中にいる。距離とは時間だ。外界から切り離されたこの空間に、許可の無いものは干渉できない」
「何を言っているのか解らない」


 香坂の目に、驟雨の見ている星屑のような光は見えない。時の扉と呼ばれる神通力についても理解が追い付いていないのだ。タイムマシンと同様のものだと三間坂は言ったが、そう言われて香坂が思い浮かべたのは未来から来た猫型ロボットの持つ机の引き出しに入ったタイムマシンだ。
 驟雨は言った。


「時の扉の中には鬼が棲み、許可なく潜るものを喰らうという。常盤の血を引く者が番人としての使命を受ける。番人は霖雨だ」
「霖雨の許可が無いものは干渉できない。そういうことか?」


 過去と未来を繋ぐ、それが時の扉。驟雨が頷いた。
 蛻の空となった工場を堂々と闊歩する驟雨の後を、用心して銃を構えながら香坂と樋口が続く。驟雨を信用していない訳ではないが、時の扉などという不確かなものは信用できない。


「時の扉が、霖雨の進んだ道を履歴として教えてくれる」


 最早、驟雨の話は香坂には理解不能だった。兎に角、驟雨は霖雨の居場所が解る。香坂はそれだけを理解し自己完結する。
 早足に進む驟雨の鬼気迫る形相が、霖雨との距離が縮まっていると教えてくれる。
 煤の降り積もった工場の中央に立ち、驟雨は腰に差した刀をすらりと抜き放った。


「……蟲は、地中深くを好むようだ。踏み潰してやる」


 そう言って、コンクリートの地面を切り裂く。甲高い金属音が一度響いて、血を揺らすような轟音。床が円形に斬り抜かれ、驟雨は何の迷いも無く底の見えぬ暗闇の中に飛び降りた。
 驟雨の目には、霖雨の残した時の扉が暗闇を照らしていた。恐れるものなど何もなかった。この場に立ち止まることこそが恐怖だ。このまま霖雨に逢うことも出来ず、春馬に顔向けも出来ないことこそが恐ろしい。
 どうにか後を追って来た香坂と樋口が着地する。空間は闇に包まれている。驟雨の目には足元を照らす天の川が映っている。
 霖雨は今、きっとこの暗闇の中にいる。
 傍にいられないことで、霖雨の感情が解らないことが恐ろしかった。でも、違う。傍にいたって解らないのだ。戦争で春馬を失ったときのように、何も気付かずに終わってしまうのだけは嫌だ。


(俺は気付かなければいけなかった。あいつが俺を理解しようとしてくれていたように、俺もあいつを理解してやらなければならなかった)


 かつんかつんと足音を響かせて進む。何の迷いも無く進む驟雨の足取りが俄かに鈍った。それは、此処まで道標であった時の扉の光が少しずつ消え始めたからだ。
 それが霖雨に近付いている為なのか、それとも、霖雨に何かあったからなのかは解らない。自然と早足になる驟雨の後を追う香坂がぴたりと足を止めた。


「驟雨、待て」


 人の気配、殺気。
 時の扉に許可の無いものは干渉できない。これまで一切の人間を断絶していた筈なのに、此処に来て無数の人間が蠢く気配がする。
 だが、香坂の声も聞かず驟雨は駆け足になった。そして、次の瞬間。
 銃声が尾を引いて響いた。暗闇に慣れた目に映ったのは、驟雨の緋色の刀だった。
 角から飛び出した銃を向ける男を一瞬の内に斬り倒し、背後から銃を放つ者を袈裟懸けに切り裂く。切り落とされた肉塊が血液と共に地面に飛び散る。けれど、驟雨は止まらない。
 影から飛び出した男が懐から取り出したナイフを弾き飛ばし、心臓を貫く。その後ろから銃弾を放った黒い影。驟雨が反応するより早く男は倒れ、放たれた銃弾は、また新たな銃弾によって弾かれる。
 香坂の銃口から硝煙が上がる。


「引っ込んでろ、香坂ァ!」


 まるで邪魔だとでも言いたげに驟雨が叫ぶ。その痩躯に見合わぬ、重機のような進撃に舌を巻く。嵐のような斬撃と、予測不能の動きに誰も反応できない。
 敵の悲鳴すら金属の高音に消し去られる。助けを乞う声も聞こうとしない、縋り付く手を容赦なく切り落とす。人を人とも思わぬ悪魔の所業だ。
 敵に情けは掛けない。香坂もそれは同感だ。けれど、これは余りにも、余りにも。
 驟雨の言葉など無視して、香坂は再び銃を持つ。それに驟雨も気付いただろう。だが、香坂は当たり前のように暗闇に潜む敵の影を一つ一つ素早く的確に狙い、殺していく。
 余計なことをするな、と鋭い眼光が香坂を射抜く。それでも。


「こっちだ!」


 驟雨の手を引いて、引き摺るように回廊の角へ飛び込む。途端に耳を塞ぎたくなるような無数の発砲音。単発ではない連発のその音はマシンガンだ。人間を一瞬で蜂の巣にする殺人兵器。
 銃弾の届かぬ物陰に身を潜め、銃弾を詰める樋口の隣で、驟雨が忌々しげに香坂を睨んだ。


「てめぇ、何のつもりだ!」


 非常灯の微かな明かりが横顔を照らす。
 驟雨が香坂の胸倉を掴み掛る。樋口は視線も寄越さないが、香坂は言った。


「鏡があったら、見せてやりてぇよ」


 凄い剣幕の驟雨にも怯むことなく、香坂は真っ直ぐに睨んだ。


「お前、そんな顔で霖雨に会うつもりか」
「何だと」


 苛立った驟雨の横で、樋口がまるで他人事ように笑った。


「酷ェ顔」


 くつりと、まるで馬鹿にするような物言いに驟雨の顔が歪む。この場で斬り殺されても可笑しくは無い。けれど、驟雨は大きく深呼吸し、絞り出すように言った。


「……時の扉が消えた。霖雨に何かあったんだ」
「決め付けるには早いだろ」
「俺は一刻も早くあいつに会いたいんだ。……俺はあいつに逢う為に、百五十年待ったんだ」


 香坂に、驟雨の言う百五十年という月日は解らない。幕末に死した武士が、守り切れなかった主君の生まれ変わりである霖雨を守ろうとする。それは、身代りに過ぎないだろう。けれど、驟雨は失った主君を見ているのではない。
 今も響く発砲音は刻一刻と迫っている。驟雨だけなら突破もできるだろうが、香坂や樋口を連れてではかなり困難だ。それでも二人を置いて行くという選択肢を持たないだけ、驟雨は二人を信用している。
 暗闇に微かな明かりが灯る。薄暗くなった回廊の奥から、拡張された声が響く。


「出て来い、溝鼠! 驟雨! 今なら、配下に入れてやってもいいぞ!」


 卑下た嗤いが回廊に木霊する。忌々しく思いながら香坂が奥歯を噛み締めると、驟雨は目を丸くして刀の柄を握った。その眼はじっと何かを見詰めている。
 余りに真剣なその顔に、香坂が声を掛けられずにいると、驟雨が呟くように言った。


「あの時の、声だ」
「あの時?」
「霖雨を踏み躙った奴等だ」


 それは、skypeを通して霖雨と最後に会話したあの時のことだとすぐに気付いた。
 驟雨の目は何処か遠くを見ているようだ。柄を握った手がかたかたと震えている。


「香坂、頼みがある」
「何だ?」


 何か覚悟を決めたような強い眼差しで、驟雨は言った。


「此処は俺が何とかする。だから、お前等は先に行ってくれ」


 そう言った驟雨は、先刻までの鬼のような形相ではない。強い意志を持った一人の侍だ。


「殺していかなければならない奴等がいる」


 憎しみはあるだろう。けれど、それ以上に大きな決意だ。霖雨を踏み躙った奴等を生かしては置けない。目がそう言っている。
 香坂とて彼等は許せない。それに、この状況を突破するにはそれが最良の判断だと思う。だが、此処に驟雨一人を残す訳には行かない。そんな香坂の思考を悟ったのか、驟雨は口角を吊り上げて笑った。


「言っただろう。俺は一刻も早く霖雨に逢いたいんだ。だから、あいつ等を殺してすぐに行く」


 薄く、微笑む。美しい相貌に浮かぶ冷たい微笑がこんなにも恐ろしいものだとは、知らなかった。
 香坂もくつりと笑った。


「ああ。先に、行っている」


 そう言って、香坂と樋口は走り出した。同時に男達の叫び声を共に銃声が後を追う。けれど、それは薄暗い回廊の中央に躍り出た一つの影によって阻まれる。
 闇に溶ける黒衣に身を包み、僅かな光を反射する白い肌。男とは思えぬ痩躯ながら、滲み出る禍々しい空気に男達は気圧される。能面のような無表情で、緋色の刃を下げる男は言った。


「楽しかったか?」


 何の感情も移さないがらんどうの瞳。


「道具のように霖雨を弄んで、踏み躙って……楽しかったか?」


 そして次の瞬間、マシンガンを構えた男の両隣の首が鮮血と共に吹き飛ぶ。
 回廊には血飛沫が舞い、地獄のような光景に絶叫が木霊する。その中で驟雨は薄く笑った。


「何が配下だよ、馬ァ鹿。俺は誰の下にも付かねェ」


 踏み締めた草履が音も無く、間合いを詰めていく。浮かんだのは馬鹿にするような嗤いだ。


「俺が守るのは霖雨だけだ。――ガトリングガンなんざ、百五十年前に攻略したぜ」


 すとん、と。まるで野菜でも切るかのように銃口を切り落とし、驟雨は笑った。
 腰を抜かした男が、必死に後ずさる。けれど、驟雨はくつくつと喉を鳴らして笑いながら間合いを詰めていく。
 争い事は嫌いだった。生前経験したあの醜悪な敗戦の記憶が真新しく残り、簡単に人を殺していると幾ら思われていても、驟雨は人を殺すことを楽しく思ったことはない。だが、そうすることでしか守れないものがある。その為なら幾らでも血を浴びてやる。


「俺に勝ちたいなら、軍艦でも引っ張って来るんだな」


 それは比喩ではない。戦時中は刀一本でガトリングガンと渡り合って来た百戦錬磨の化物だ。現代の微温湯のような世界で鍛えたといっても、決して敵う相手ではない。
 無表情に振り上げた緋色の刀身に、恐怖に引き攣った男の顔が映り込む。驟雨は笑っていた。


「挨拶はしねぇよ。そんな義理はねぇからな」


 振り下ろしたと同時に、紅い飛沫が舞った。ごとり、と鈍い音と共に床に恐怖に引き攣った首が転がり落ちる。悲鳴すら上げられなかった男は最後に何を思っただろう。だが、驟雨は既に興味を失っていた。
 霖雨の居場所も、香坂と樋口の向かった先も解らない。けれど、驟雨の足は自然と動き出す。


(なあ、春馬)


 時代は廻るから、何時かまた逢える。
 どんなに時が流れても、全てを忘れてしまっていても、俺達は変わらず友達だ。




2011.2.17