鉛のような曇天、噎せ返るような血の臭い。二度と動かぬ仲間と友達、変わり果てた故郷の町。天守閣から、春馬はそれらをただ目を逸らさず見詰めることしか出来なかった。
 親友を死地へと向かわせながら、何もできない自身をどれ程呪ったことだろう。自分を守る為に退路を断ち、銃器の前に刀を携え突進して行く仲間の命が消えていく。
 叫びは何時だって形に出来なかった。願いは何時だって叶わなかった。

 人の上に立つ人間は、当たり前のように兵を戦場に送り出すけれど。
 兵一人一人に人生があり、家族が待っていることに気付かないのか。数でしかない兵が、障害物でしかない敵が、皆自分と同じように生きていると解らないのか。
 指導者として野心は必要かもしれない。俺は指導者の器ではないのかもしれない。でも、それでもいい。

 俺はただ、祈っただけだ。
 富も名誉もいらない。俺はただ、守りたかったんだ。

 戦場で散った命が何時か生まれ変わり、新しい人生を送る日が来るとき、彼等が幸せであるように。
 この戦場に噴出した憎悪や無念は俺が命に代えて封じよう。こんな地獄のような虐殺にも似た戦争が二度と起こらないようにと願って、時の扉の中に閉じ込めよう。俺一人の力では消し去ることはできない。だから何時か、もっと大きな力で消し去って欲しい。
 過去と未来を繋ぐこの時の扉には鍵を掛けよう。願わくば、二度と開くことのないように。


 霖雨がその存在を知ったのは、もう随分昔のことだ。誰に教えられた訳でもないのに、時の扉の存在を知り、同時に脳裏に響く声に従って誰にも話すことはなかった。二度と開くことの無いように、と。
 母にも話したことはなかった。勿論、驟雨にもだ。
 守りたいという血が滲むような叫びを繰り返す誰かの為に、時の扉なんてものは消えてしまえばいいと思っていた。


 同じ魂を持ち、別の時代を生きながら、願ったのはたった一つだ。


(ただ、守りたかった)


 ふつりと、意識が消えたと同時に霖雨は底の見えない崖の淵に立っていた。更地となった魂に刻まれた場所が視界一杯に広がっている。吹き抜ける風は冷たく空しい。行ったことも無いのに、此処が何処か霖雨には解った。
 此処は朱鷺若だ。美しかっただろう国は戦によって蹂躙されてしまっている。
 締め付けられるように胸が痛むのは、魂の記憶故だろう。ぐらりと視界が揺れ、体は崖の向こうに傾いた。けれど、その時。


「――!」


 声にならない声を上げて、誰かが腕を掴んだ。真黒く塗り潰された顔。届かない声。それでも、腕を掴む掌が微かに震えている。


「死ぬな、――!」


 この声を知っている。黒い着流しはボロボロで、白い肌には血が滲む。髷を結うことも出来ないだろう短髪は乱れているけれど、気にする素振りも見せない。
 宙ぶらりんの体が風に揺れる。掌が濡れている。汗ではない、血で滑るのだ。引き上げることが出来ないのだろう。食い縛る歯が見える。
 ずるずると滑る掌が腕から離される。身体は重力に従って落下を始めた。
 悲鳴にも似た誰かの声。それでも、滑り落ちた体は反転し、頭上に闇が迫った。
 まるで怪物のように、底の見えない闇がぽっかりと口を開けている。漆黒の闇から無数に伸びた手が抵抗も出来ない体を掴む。このまま闇の中に消えるのだ。だが、それもいいかと思った。このまま魂と共に、時の扉を消滅させてしまえるなら、それもよかった。なのに。


「――ッ!」


 誰かの声が名を呼んだ。黒い衣をはためかせて、何の躊躇いも無くこの奈落の底に飛び込んだ男が、霖雨の体を掴む無数の腕を引き千切ろうとする。


「ば、」


 思わず声が漏れた。
 必死に無数の腕を引き離す男の手が、届いた。だが、それと同時に。


「馬鹿野郎!」


 反射的に叫んでいた。
 少し驚いたような顔をしてから、男は笑った。
 それから、当たり前のように霖雨を抱え込み、男は落下していく先を見詰めている。


「お前を死なせねぇよ、――霖雨」


 言い聞かせるように、誓うように、確かに驟雨は言った。闇を突き抜けて、目の前には白い光が広がっていた。





Act.18 Coming home.





 香坂が其処に到達した経緯は既に覚えていない。
 固く冷たい打ちっぱなしのコンクリートの箱の片隅で、膝を抱え方を震わせるその姿は余りにも弱々しい。ぼろぼろの衣服に滲んだ血液が、あれから霖雨がどのような目に遭ったのかを物語っているようだった。
 これは霖雨自身が選んだ道だ。驟雨を救う為に、香坂を守る為に、ただ一人で誰かに縋ることも出来ず、自分を必死に抱き締めながら、彼は何を思っただろう。
 かつん、と足音が響いた。


「霖雨」


 足音と声に、霖雨の肩が揺れた。ゆっくりと上げられた顔は酷いもので、香坂は笑った。
 香坂自身、煤塗れのスーツを来て、彼方此方傷だらけだった。足枷でも付いているのではないかと疑ってしまうくらいに身体が重い。樋口とも何処かで逸れ、頼りの綱である拳銃も既に銃弾は尽きかけている。それでも、霖雨の元に行かなければと思った。
 目の前に立つと、霖雨は驚いたように目を丸くし、泣き出しそうに顔を歪めた。


「酷ェ顔だな」


 香坂はくつりと笑いながら、目線を合わせるようにしゃがみ込み、その細い肩を抱き締めた。怯えたように肩が揺れたけれど、気付かないふりをした。


「……遅れて、悪かったな」


 カタカタと小刻みに肩が震える。香坂こそが、泣きたくなった。
 生きていて良かったと、心から思った。この今にも消えてしまいそうな温かさを、もう二度と失いたくない。失うのはもう嫌だ。帰りたいと願ったのは霖雨ではない。香坂こそが、そう願っていた。
 何一つ言葉を発さぬ霖雨に何が見えているのかは解らない。


「帰ろう」


 驟雨でなくて悪かったな、と冗談交じりに言えば、霖雨は緩く首を振った。差し延ばされた掌に導かれるように伸ばされた手が鎖に繋がれている。香坂はその鎖目掛けて銃口を向けた。だが、そのとき。
 酷く澄んだ金属音がした。目の前の鎖は断ち切られていた。


「霖雨」


 緋色の刃をぶら下げて、肩で息をしながら、乱れた衣も整えずに立っている男は、決して恰好良くなどない。ヒーローではない。救世主ではない。忠誠でもなければ、恩義でもなく、ただ友達の為に此処まで必死に走って来たのだろう。
 今にも泣き出しそうな声で驟雨は、もう一度、その名を呼んだ。


「霖雨」
「どう、して」


 霖雨の声もまた、震えている。けれど、言っただろう、と驟雨は微笑んだ。


「お前が何処にいても、何度でも、助けると……!」


 鎖の断ち切られた手を、握り締める驟雨は言った。伏せられた目からぽつりと涙が零れ落ちる。
 生きている、生きている。今、此処で生きている。また逢えた。間に合った。驟雨の頭に浮かぶのはその思いばかりで、何一つ声には出来なかった。けれど、不明瞭な世界に声が響いた。


――時代は廻るから、何時かまた逢える


 また、逢える。
 驟雨は、より薄くなった体を抱き締めた。
 何時、また敵が来るかも解らない。だが、そんなこと忘れたかのように驟雨は霖雨を掻き抱く。霖雨の大きな目がゆっくりと閉ざされると同時に、一粒の涙が零れ落ちた。


「願ったんだ……」


 唐突に、霖雨は言った。


「もし、もう一度逢えたなら……。俺と友達になって欲しいと」


 その言葉が驟雨の中でリンクする。


「当たり前だ……! 俺達は、ずっと友達だ……!」


 春馬でも、霖雨でも、記憶が無くても、幾つ時代が廻っても変わらないものがある。当たり前のように信じられ、決して裏切らない、裏切れない存在。
 やっと届いたその存在を確かめるように抱き締める驟雨の傍で、香坂は箱のような部屋を見渡した。打ちっぱなしのコンクリートと、窓の無い部屋。息の詰まりそうな閉塞感はまるで独房のようだ。けれど、霖雨にとっては当たり前の環境だった。囚人の看守のように、ロールプレイを強制されて来た霖雨が常に受動的なのは仕方の無いことだ。隷属化させる為の洗脳が十年以上もの長い間行われ続けたのだから。
 それでも、生きたいと願うことが出来たのは、他でもない驟雨の存在だろう。
 と、そのとき。


『よく此処まで来たね』


 忘れたくとも忘れられない声が響いた。
 部屋中に響く三間坂の声に、香坂は忌々しげに顔を歪ませる。


「てめぇ、三間坂。何処にいやがる!」
『そう吠えるなよ、香坂。何時でも無表情だった君が、随分と感情的になったものだね』
「黙れ。お前だけは許さねぇ」


 部屋にスピーカーはない。この声が何処から響いているのか解らないが、聞き間違う筈の無い三間坂の声に腸が煮え繰り返るのは香坂だけでは無い筈だ。
 三間坂はくつくつと喉を鳴らして笑いながら言った。


『悪いが、此処から出すことは出来ない。霖雨は置いて行ってもらおう』
「出来ない相談だな」
『その男はこれから起こる戦争に必要な材料なんだ』


 その言葉に、驟雨の目に微かな光が瞬く。けれど、そんなことに気付きもしない三間坂は平然と続けた。


『この国はもう末期だ。多くの人柱の上に立つ砂上の楼閣に過ぎない』
「だから、戦争によって滅ぼすというのか?」
『香坂、お前には解るだろう。両親を国に抹殺され、歯車の一つとして生き続けているお前には』


 香坂は、何も言わなかった。確かに、香坂はこの国の行く末が破滅だろうが構いはしなかった。大切な存在も、何に替えても守りたいと思うものも香坂には無かったからだ。憎しみはあったけれど、この国を守る義理などありはしない。
 憎しみというものは大きい。日々大量の仕事に忙殺されながらも、香坂の中でこの国に対する憎悪が消えたことは無かった。驟雨とて、二年前のA国大使館襲撃は百五十年も前の憎しみが発端となって起こしたものだ。そう、憎しみは消えないのだ。


『お前にも解るだろう、驟雨。世界が憎いだろう、私が憎いだろう!』


 けれど、驟雨は表情を崩さぬまま、意識を失くしたらしい霖雨を背負って立ち上がった。


「……お前のことなんざ、もうどうだっていい。勝手に生きて勝手に死ね」
「驟雨……」


 驟雨の肩から、力の抜けた霖雨の腕がだらりと垂れている。病的に青色い顔と、閉ざされた瞼の下に刻み込まれた隈。微かに聞こえる寝息と、規則正しく上下する背中が今の驟雨にとって全てだ。


「俺もお前を殺してやりたかったよ。でも、霖雨はそんなもの望んじゃいねぇ。一番辛くて苦しかった筈の霖雨が何も望まないのに、俺が如何してそれを望める?」


 その眼は何処か遠くを見ている。恨みもあるだろう、憎しみもあるだろう。それでも、霖雨が望まないのならと全てを呑み込もうとするその姿は、二年前のA国大使館襲撃事件の頃と比べて随分と変わった。肩の荷が下りたかのように穏やかな目をしている。
 まるで信じられないものを見たかのように、三間坂が言った。


『何故……、そう思えるんだ』


 驟雨は目を伏せたまま、ばつが悪そうに言った。


「何に替えても守りたいもの、守らなければならないものが、俺にはある。お前には解らないだろう」


 漸く取り戻したその温もりを二度と離すまいと、驟雨は拳を握った。


「この国の行く末なんざ興味無ェ。誰が死のうが構わねェ。そう思っていたが、俺の親友ならきっと止めていただろう。……戦争なんざ、起こさせねェ」


 ぎらりと、驟雨の瞳に金色の炎が煌めいた。片手は霖雨を支えながら、空いているもう片方の手で刀を掴む。刀を引き抜こうとする驟雨の背で、霖雨の体がぐらりと揺れる。けれど、傍にいた香坂がそれを支えた。


「俺だって、こんな国は糞だって思うさ」


 それまで黙っていた香坂は漸く口を開いた。


「だが、この国には今を必死に生きようとしている奴がいて、今日も新しい命が生まれているんだ。そいつ等が掴む未来が光であれ闇であれ……、俺達にそれを壊す権利は無ェ。例え、どんな理由があったとしてもな」


 それは一つの覚悟だった。
 暫しの沈黙が流れた。そして、スピーカーから声がした。


『そうか……』


 諦めにも、落胆にも似た声だった。


『ならば、私達は相容れぬ。苦しめ、泣き叫べ、絶望し、死ね!』


 その途端、地を揺するような轟音と共に視界が歪んだ。
 足元に響く地響き。反射的に香坂は叫んでいた。


「何をした!」


 しかし、返答は無かった。ノイズの混じった音だけが轟音と共に鳴り響く。爆破されたのだと気付いた時にはもう遅い。壁を切り裂こうと驟雨が刀を振り上げ、慌てて香坂が押さえる。


「止せ、驟雨! 此処は地下なんだ! 壁が崩れれば俺達はぺしゃんこだぞ!」
「なら、如何するんだ。何もせず死ぬくらいなら、最後まで足掻く。俺は誓ったんだ。霖雨を必ず助けると」


 けれど、そう言う驟雨にも焦りが浮かぶ。その時、ノイズだけになった筈のスピーカーから声がした。


『香坂さん……、其処にいますか』
「樋口か!」


 それは紛れもない樋口の声だ。何時の間にかはぐれてしまっていたが、まさかこんな場所で再会できるとは思わなかった。


『とんでもないもの、見付けちまいましてね、其処には行けそうにありません』
「とんでもないもの?」
『ミサイルです。発射まで時間が無い……。俺は此処で何としても食い止めます。そっちはそっちで何とかして下さい』


 素っ気無く、冗談ぽく樋口が笑う。だが、香坂は言った。


「解った……。だが、樋口。絶対に死ぬんじゃねぇぞ」
『当たり前でしょう』


 交信の切れたスピーカーからはノイズすら聞こえなくなった。崩壊の進むコンクリートの箱の中で、驟雨は霖雨を背負ったまま壁を切り裂くこともできず立ち往生している。
 自然と俯けば、三間坂の声が脳裏に響く。
 苦しめ、泣き叫べ、絶望しろ。だが、その時。


「諦めるな」


 その声が誰の声なのか、驟雨には解らなかった。けれど、背中から聞こえたその声は紛れも無く意識を失っている筈の霖雨のものである。
 轟音の中に凛と木霊するその声、は。


「顔を上げろ、目を開け」


 閉ざされていた筈の目がゆっくりと開く。穏やかながらも、何処か強い光を宿す霖雨の瞳はそれまで見て来たものとは明らかに異なる。その声がまるで、闇夜に響く鐘の音のように聞こえた。
 驟雨はその光を、その声を知っていた。


「如何する気だ。こんな状況で、何をするんだ」


 切羽詰まったように香坂が問う。背中に圧し掛かるのはこの場にいる驟雨や霖雨だけではない。ミサイルの発射を食い止めようとする樋口や、今この国に生きている多くの人間の命だ。
 だが、それを恐らくは知った上で、ゆったりと霖雨は言った。


「絶望はしない」


 驟雨の背中から降りた霖雨の表情は酷く穏やかで、痩せ細った体に見合わぬ安心感がある。更に、この男を包む威圧感にも似た空気。初めて驟雨と出会った時を思い起こさせる。


「お前等が俺を助けたいと言ったように、俺もお前等を助けたいんだ」


 そう言って正面に手を翳す。酷い砂埃の中で眩い程の光の粒子が集まっていく。


「時の扉……!」


 霖雨は頷いた。光の粒子は身を寄せ合い、一つの大きな光の塊になった。それこそが過去と未来を繋ぐ時の扉。許可の無いものは干渉できず、許可なく潜るものは鬼に喰われる。
 反則技にも似たその力があれば、確かに此処から脱出することは可能だ。香坂が唖然としていると、驟雨が目を丸くして言った。


「春馬……」


 独り言にも似た呟きに、霖雨は微笑んだ。


「俺は、霖雨だよ」
「霖雨に此処までの芸当は出来ない。こんなことが出来るなら、とっくに脱出していた筈だ」


 くつりと笑った。


「驟雨、お前に話しておきたいことがある。霖雨としてではなく、春馬としてな」




2011.2.27