霖雨は、自らを常盤春馬と名乗った。その意味すら理解できぬまま、呆然としている香坂の前で春馬は翳した掌の先に光の粒子を集めている。時の扉だ。 真っ直ぐに背筋を伸ばすその様は、何時でも受動的であった霖雨とは明らかに異なる。一つ一つの動作が精練され、醸し出される空気は威圧的ながらも優雅で、近寄り難い。無表情からは何も察することはできない。完璧なポーカーフェイス。霖雨には不可能な芸当だ。その意味は。 「此処を脱出する」 はっきりと断言するその言葉には自信が溢れている。 霖雨――否、春馬はやはり無表情だった。時の扉へと足を踏み出そうとするその背中を、驟雨が呼び止める。 「春馬!」 驟雨は、足を止めて進もうとしない。同じように、香坂も進むことが出来なかった。 それは、この春馬という男に謎が多過ぎるということと、この場所に単身ミサイルを止めると言って残った樋口を置いてはいけないということからだ。春馬は振り返らなかった。 「時間が無いんだ……」 「そんなことは知っている。だが」 二の足を踏んでいる二人に焦れたかのように、春馬は翳していた掌を握った。突き出した拳の先から光が一瞬にして広がり、崩壊していく周囲を包み込んでいく。 「待てよ、春馬!」 二人の言葉を無視して時の扉の内部に取り込まれていく。驟雨が春馬の肩を掴んだ。細く、骨の浮いたその肩は正真正銘、霖雨のものだ。此処にいるのは春馬なのか霖雨なのか、驟雨は混乱した。 春馬はそれまでの無表情とは打って変わって、何処か悲しげに振り返った。 「聞いてくれ……」 「春馬……?」 その表情の変化に異常を感じたのは驟雨だけではない。香坂もまた、そんな二人を呆然と見ている。 春馬は目を伏せ、静かに言った。 「過去と未来を繋ぐ時の扉の力は、代々、常盤の血を持つ者に受け継がれて来た。霖雨も、その一人だ」 酷く真剣に、一言一句聞き間違うことの無いように、ゆっくりと春馬は言葉を綴る。 「許可の無いものは、人だろうが物だろうが干渉することは出来ない。許可無く潜る者は鬼に喰われる」 「……以前から思っていたんだが」 そこで漸く香坂が口を挟んだ。 「許可の無い者は干渉出来ないのに、何故鬼に喰われると解るんだ。その謳い文句はまるで、鬼に喰われたことがあるようだが」 時の扉というものを語る際、度々耳にする謳い文句には矛盾がある。それはまるで、低俗な所謂怖い話のようだ。見たものは皆死ぬのに、その体験が怖い話として伝わっていく。 春馬は神妙な顔つきになって言った。 「お前等は、時の扉がただのタイムマシンだと思っているのか?」 春馬の口からタイムマシンという単語が出たことにも驚きだが、それ以上に何処か呆れたような顔を浮かべるその秀麗な男の口調が気に掛かった。 一つ、ため息を零す。春馬は言った。 「時の扉とは謂わば一つの封印。朱鷺若の滅亡の記憶を、深い憎悪を、悲愴、憤怒を、怨恨を扉の中に封じた。あの戦の負の遺産を、新たな未来を生きようとする命に背負わせぬように。あの悲劇が二度と起こらぬように」 春馬は目を閉ざした。 「古より、俺達はあの扉の中に、人々が闇と呼ぶものを封じて来た。それこそが鬼の正体だ。扉を潜る者はそれに相応しい対価を払わなければならない。代償が見合わぬとき、払わぬとき、闇は全てを呑み込む」 時代の流れの中で、湾曲した謳い文句が生まれ、解釈を取り違えるようになった。春馬自身、時の扉を自ら開くときまでその意味を解っていなかった。 だから、あの敗戦の折、全てを封印する為に時の扉を開いたとき、春馬はその代償を払わざるを得なかった。例え事前に知っていたとしても春馬は同じ選択をしただろうけれど、驟雨がそれを知れば何をしても止めただろう。 そう、春馬は支払ったのだ。扉の奥に息衝く闇へと。 自らの命を犠牲に、全てを封じ込めた。
時の扉の中は闇に包まれている。春馬の掌から広がったあの光の粒子が周囲に漂っている以外に光は無い。此処にある闇は、これまで番人としての使命を受けた常盤の血を継ぐ者が封じて来たものなのだろうか。底の見えぬ奈落のような漆黒。 |
2011.3.5