この世界で幾度となく戦争は行われて来た。それは確かに文明を発展させ、多くの芸術を生み出して来ただろう。人は結果ばかりに囚われて、その過程から目を逸らしがちだ。戦争の傍らで多くの民間人が血涙を流し、世を恨み、人を憎み、殺し殺され巻き込まれて来た。それは絶対に目を逸らしてはならない真実だ。
 春馬とて、それはよく解っているだろう。先人の血の滲むような教訓を忘れてはならない。そう解っているのに、春馬は自らの命を懸けて朱鷺若滅亡の歴史を抹消した。この戦争に関わった全ての人間が抱えた大きな傷を時の扉の中に封印することで、新たな世界を生きられるようにと願ったのだ。
 誰かの為に、当たり前のように自分を犠牲にするその精神は、人々の上に立つものとしては望ましい姿なのかもしれない。英雄とは時としてそういうものだ。けれど、驟雨にとって春馬は英雄や主君である前に、唯一無二の親友だったのだ。
 時の扉と呼ばれる異空間を堂々と進んでいく春馬には解らないのだろう。驟雨は目を伏せ、過去の彼の選択を嘆いた。それが正しいとは言えないけれど、他に選択肢が無かったことも事実だ。
 ならばあの時、自己犠牲を選んだ春馬に対して、自分は何ができただろう。
 大切なものを守ろうと剣を極めても、自分の無力さに打ちのめされる。春馬は、霖雨は、自己犠牲を選ぶ。この先同じようなことがある度に何度でも。


「さあ、出口だ」


 そう言って微笑んで、春馬は掌に光の粒子を集める。そして、次の瞬間。漆黒に包まれた空間はカーテンを引いたように切り替わり、崩壊間際の地下施設となった。
 地を揺する轟音と、天井から雨のように降る瓦礫と塵芥。嘗ての姿など最早解らぬその様は、まるで世界の終焉を思わせる。
 その酷い揺れの向こうで、取り憑かれたようにコンピュータに向かう樋口の後ろ姿が見えた。


「樋口!」


 香坂が叫ぶと、樋口は驚いたように肩を撥ねさせて振り返った。
 春馬を先頭とする面々を視認すると、樋口は困ったように微笑んですぐさま背を向けた。大きなディスプレイに映るのはミサイルだろうか。三間坂の話が本当ならば核弾頭。
 手元の小さなノートPCには無数のウインドウが幾つもホポップアップしてはエラーを表示し消えていく。右上のタイマーは残り五分と表示し、それが発射までの残り時間だと気付くのに時間はかからなかった。


「こいつは謂わばアポトーシス。解除コードなんて始めから存在しない、全てを消し去る為だけのプログラムなんです」


 ノートPCに向き合ったまま、樋口は言った。
 樋口は世界でも十本の指に入るハッカーだと言われている。警察官でなければ今頃彼は世界的犯罪者として世界を混乱に導いていたと思う。その樋口ですら突破できないものがコンピュータ上に存在し得るのかと香坂には俄かに信じ難い。けれど、樋口は不敵に笑って言う。


「だから今、新たなプログラムをセキュリティの内側から構築して、解除を試みているところなんです」


 突破口は見付けたと笑おうとして、樋口は苦い顔をした。


「あと少し、時間があれば……」


 タイムリミットは刻一刻と迫っている。


「セキュリティの解除に、予想以上に時間が掛かっちまいまして」


 そう言う樋口の顔色は悪く、冷や汗が頬を伝っている。樋口はもう解っているのだ。この行為の無意味さを。そう、これはただの悪足掻き。逃げ道を失った背水の陣。


「よく踏ん張ったな」


 労わるように、愛おしむように、春馬は言った。その穏やかな声に樋口は動きを止めた。
 この状況など忘れたかのように春馬は画面の向こう、この国だけでなく世界すらも脅かす大量の破壊兵器を見詰めていた。


「お前、霖雨か……?」


 春馬は緩く首を振って、掌に星屑を集める。


「今は、常盤春馬だ」
「常盤、春馬」


 復唱し、樋口は理解の追い付かない状況に困惑する。
 江戸末期に滅んだ朱鷺若という小国の領主、常盤春馬。けれど、今の霖雨は驟雨のように相貌まで変化する訳ではない。何を言っているのだろう、と失笑したくとも、その男から溢れる気品や威圧感は霖雨とは明らかに異なる。


「後は俺が何とかしよう」
「如何する気だ――」


 香坂が問おうとしたその瞬間、驟雨が叫んだ。


「止めろ!」


 周囲の轟音にも掻き消されぬ、悲鳴にも似た叫びだった。
 俯く驟雨の表情は解らないけれど、ぎゅっと握り締めた拳が震えている。


「時の扉を開くつもりだろう……?」
「ああ」


 平然と答えた春馬は微笑みすら浮かべている。そのことに胸が軋むように痛んだ。
 つまり春馬は、百五十年前と同じことをしようというのだ。自らを犠牲に、この大量の破壊兵器を時の扉の中に封印することで全てを終わらせる。
 けれど、彼にはそれを行う対価が無い。春馬は百五十年前の惨劇を封じる折に、自らの魂を鍵とし、砕いたのだ。霖雨の受け継いだ魂の欠片を元に、時の扉に縛られながら現出する今の春馬はただの思念体に過ぎない。
 そして、それこそが香坂の抱えた違和感の正体だ。最早何の力も持たない春馬が幾度となく容易く時の扉を開くその対価を支払っているのは、一体誰だというのだ。


「百五十年前は自分の魂を犠牲に、今度は……霖雨を犠牲にする気か?」


 春馬は微笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。
 対価というものが一体どのようなものなのか、驟雨には解らない。けれど、自分の予想し得る最悪の事態が目の前に提示されているのだと、解った。
 驟雨は振り絞るように、言った。


「幾らお前でも……、それだけは許さねぇぜ……!」


 すらりと引き抜いた紅い刀身が、春馬の首筋に当てられる。瞠目する香坂と樋口に反して、春馬は顔色を変えるどころか眉一つ動かさない。
 驟雨は睨んだ。


「お前にとって霖雨は、ただ一つの希望だと言ったな」
「ああ」
「だが、俺にとっても霖雨は……たった一つの救いなんだよ……!」


 絞り出すように言った驟雨の声は掠れている。春馬は瞬きを数度繰り返した後、すっと俯いた。
 肩が小刻みに震えている。泣いている――否、笑っているのだ。


「はははっ!」


 大口を開けて笑う春馬は、何処にでもいる一人の悪童のようだった。けれど、それこそが春馬の本来の姿なのだと驟雨は知っている。
 タイムリミットも忘れて笑い飛ばした後、目尻に浮かぶ涙を拭いながら春馬は言った。


「驟雨、お前は言ったな。何に替えても守りたいものが、守らなければならないものがあると。……俺にも、あるんだ」


 それは何かと問おうとした驟雨の目に、それは映った。
 春馬の背後に浮かぶ無数の光の粒子。その光の正体が驟雨の目には確かに見えた。
 悲鳴、怨念、憎悪、祈り、羨望。嘗て時の扉の番人達が封じ込めて来たこの世の悲劇。強過ぎる思いは呪いとしてこの世に残る。それらが現世を生きる命を脅かすことのないように、春馬は命を懸けて封じたのだ。
 凛と背筋を伸ばす春馬の首は鎖に繋がれているように見えた。時代の流れに殺された大勢の命の犠牲を、春馬はたった一人で背負っている。過去の犠牲を、今を生きる命の未来を、たった一人闇の中を彷徨いながら守り続けた彼が、何を差し引いても譲れないと言うものは。


「死しても俺は一国一城の主だ。正義に悖るような真似は出来ない。先人の犠牲を顧みず、目先の物事に囚われて大義を見失うなんてことはあってはならない」


 何を言っても通じない。驟雨は、目の前にいる自分の親友を見てそんな風に思った。
 幼い頃から国や民を預かる身として育った春馬と、今日一日を生きる為に泥水を啜って来た驟雨とでは考え方も価値観も違う。けれど、驟雨にも譲れないものがある。


「目の前のたった一つ守れず、何が正義だ。何が大義だ。そんな目にも見えないものの為に、お前は自らの希望を潰そうっていうのか!」


 そう叫んだ一瞬、春馬の顔が泣き出しそうに歪んだ。その顔を見た瞬間、驟雨は自らの言葉の意味を理解する。
 春馬とて、霖雨を殺したい訳ではないのだ。救ってやりたい、守ってやりたい。それは驟雨以上に強い願いだったかも知れない。けれど、それでも、選ぶことのできない歯痒さを、苦しさを春馬は隠しているだけだ。
 朱鷺若滅亡の折、春馬は自らの命を犠牲に全てを時の扉に封印した。けれどあの時、春馬が生きたいと願わなかった筈が無い。
 何時だって彼に与えられる選択肢は少なく、世界は冷たかった。
 驟雨は暫しの間、黙り込んだ。けれど、タイムリミットを確認し、微笑んだ。


「……もう、お前一人に背負わせたりしねぇ」


 そう言って驟雨は春馬の手を取った。


「霖雨を犠牲にするってんなら、一緒に俺の命も懸けてくれ」
「驟雨……!」
「お前もいない、霖雨もいない。そんな世界で生きるくらいなら……お前等と地獄巡りでもした方が余程楽しいさ」


 冗談を言うような軽い口調。けれど、その眼は何かを決意したように真剣だった。


「霖雨の代わりとまでは行かなくても……、足しにはなるだろ。俺は何に替えても、霖雨の未来を守ってやりたい」
「此処で命を失うとしても、か?」


 その春馬の言葉で驟雨は全てを理解した。
 此処まで時の扉を開く為に対価を支払って来たのは霖雨だ。支払って来た魂と言う名の対価はもう、殆ど残っていないのだろう。だから、その僅かな命を懸けて時の扉を封じようとする彼等の気持ちは痛い程に解る。
 そうして彼等は、未来永劫、消えることも狂うことも出来ずに闇の中で彷徨い続けることになるのだ。それはつまり、此処で彼等をこのまま逝かせてしまったら、もう二度と逢うことはできないということだ。

 タイムリミットは一分を切った。


「お前が言ったんだろう」


 驟雨は笑った。それは香坂達がそれまで見て来た、皮肉っぽい笑みでも、諦め悟った自嘲でもない。霖雨に向けて来た穏やかな微笑みだ。


「時代は廻るから、何時かまた逢える。俺達の因縁、こんなところで終わりじゃねぇよな」
「――っ」


 春馬が何かを言おうとして、口を噤んだ。言えば違う何かが零れ落ちてしまうと解ったからだ。
 負けん気が強くて意地っ張りで、変なところで頭が固い。そんな親友の姿は百五十年前と何も変わりはしない。


「何時か、また逢える」


 それが誰の声なのか、驟雨には最早解らなかった。春馬のようで、霖雨のようで。
 けれど、其処で微笑んだのは霖雨だった。


「今の俺の力じゃ……、春馬を時の扉から救い出すことはできない……。でも、」


 くしゃりと歪んだその大きな目から、涙が零れ落ちる。


「時代は廻るから、何時かまた逢える。だからどうか、その日までお休み……」


 驟雨は震えるその小さな手を握った。傷だらけの小さな掌。薄くて醜いけれど、温かい。
 この掌を守る為に、自分は此処にいるのだ。


「長い時代の流れの中で、お前がお前自身を見失って、全てを忘れてしまっていても」


 時の扉が開かれる。光の粒子は一見すればとても美しいけれど、それらは時代の流れの中で犠牲になった人々の叫び。春馬を縛り付ける鉄鎖だ。


「必ずお前を見付け出す。そして、そのときは」


 それは誓い。決意。驟雨の眼は真っ直ぐに霖雨を見ている。


「共に生きよう」


 その瞬間、二人の姿は光の中に包まれた。
 香坂と樋口はその輝きを呆然と見詰めている。そして、タイムアップを知らせる陳腐な電子音のアラームが響き渡った。そして、発射された筈の核弾頭は一つ残らず、跡形もなく消滅していた。
 静かに霧散していく光の粒子。其処に二人の姿は無い。けれど、二人が消えるその刹那、香坂と樋口は確かに二人の声を聞いたのだ。


――ありがとう、後は頼んだ


 と。





Act.20 Good-bye tomorrow.








2011.3.25