目の前から消え失せた大量の破壊兵器と、二人の人間。信じ難い非科学的な現象。けれど、消滅したその意味を香坂はもう、知っている。
 霖雨は、驟雨は、確かに生きていた。でも、もういない。何処にもいない。


「あ……」


 自分でも驚く程に掠れた声だった。
 職業柄、人の死に目に遭うことは何度もあった。それは同僚であったり、親しい人間であったり。時には自分が手を下すこともあったけれど、何時だって心は凍り付いて何の感情も抱かなかった。
 人は何時か死ぬ。それは逆らうことのできない自然の摂理。そう割り切って来たのに如何して。
 眼の頭の熱が、鼻の奥のつんとした痛みが、それを許さない。


「霖雨……、驟雨……」


 呆然と、二人の消えた場所を見詰める。確かに存在した筈の二人はもういない。
 俯き、唇を噛み締めていた樋口が、拳を握った。


「――クソッ!」


 鈍い音がした。彼にとって命とも呼べるノートPCを殴り付ける。
 握り締めた拳はデスクに叩き付けられたまま解かれる気配も無い。
 跡形も無く消えた破壊兵器。けれど、驟雨や霖雨にとってこの世界は命を犠牲にしてまで救う価値のあるものだっただろうか。春馬の意志を汲んだという彼等は如何して、怨み言一つ言わず、微笑みさえ浮かべて消えて行ったのだろう。
 時代は廻るから、何時かまた逢える。その言葉を呪文のように何度も唱え、何の確証もないのに死を選んだ。如何して。


「俺は」


 お前等の居場所を守ってやりたくて、お前等の存在を救ってやりたくて、ただ、それだけで。
 如何して、如何して、如何して、如何して!!!


「馬鹿野郎……!」


 握り締めた拳が軋み、爪の食い込んだ掌から血が滲む。けれど、その痛みが、温かさが自分の生きている何よりの証拠だ。自分は、彼等の守られ救われ生かされた。
 感謝を告げた二人の笑顔が忘れられない。きっと、一生忘れられないだろう。
 彼等が繋ぎ止めたこの世界に、このまま破滅の牙を突き立てておく訳にはいかない。


「樋口、泣くのは後だ」


 鼻を啜って立ち上がると、樋口もまた赤い目元を擦りながら腰を上げた。


「誰が、泣いてるんですか」


 真っ直ぐな目を向けるその姿は、普段の飄々として掴みどころのない樋口とは明らかに異なる。
 懐にしまった銃は既に弾切れだ。けれど、最早銃弾など必要無い。関節が高熱でも出したときのように痛んだ。鉛のように重くなった体に鞭打って、向かう先はただ一つ。エゴの為に彼等の未来を奪った三間坂の元だ。
 樋口はディスプレイの割れたノートPCをそのままに足を踏み出す。


「地図なら既に頭の中に入ってます。行きましょう」
「ああ」


 二人は走り出した。
 飛び出した回廊は酷く静かだ。余りの静寂さに耳が痛くなる程だった。施設の崩壊も、徘徊していた武装する男達も、彼等と共に消え失せたようだった。行く手を阻む岩のように大きな瓦礫さえも存在しない。
 何の迷いもない足取りで進む樋口の後ろ姿はまるで、時の扉の中で先頭立った驟雨のようだ。けれど、樋口はすぐに立ち止まり、振り返った。
 何の変哲もない一つの扉。けれど、其処からは此処まで一つとして感じられなかった人の気配があった。この施設の中で、唯一あるとすれば。
 ゆっくりと扉を開いた香坂の目に映ったのは、嘗ての上司、三間坂だった。数時間ぶりの筈なのに、まるで何十年も会っていなかったかのように年老いて見えた。大きなデスクに両肘を突いて頭を抱えるその顔には悲愴な皺が刻まれ、頭髪には白髪が浮かぶ。


「三間坂……」


 憎しみはあった。殺してやろうとも思った。けれど、この扉を開いた瞬間、そんなものは消えてなくなった。
 胸の中を満たすのは空しさだ。この男にはもう何の力も無い。何をしても彼等はもう戻って来ない。
 酷い嗄れ声を震わせ、三間坂は何かをぶつぶつと呟いている。


「……こんな馬鹿なこんな筈はこんなことになるなんてこんなものは有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない……」


 壊れたテープレコーダーのようだった。最早聞く価値も無いその言葉に辟易する。こんな男の為に、如何して彼等が犠牲にならなければならなかったのだろう。
 虚ろな目で、三間坂が此方を見る。がらんどうの瞳は最早何も映してはいない。


「私の何が悪かったんだ? 私は正しかった筈だ、そうだろう?」


 音を立てて立ち上がった三間坂が、ふらつきながら距離を詰める。それはまるで生きる屍。不気味さに樋口が後ずさるけれど、香坂は微動だにせず三間坂を見ていた。
 埃まみれになったスーツをぐしゃりと掴む手には、その様子からは想像も付かない力が込められている。三間坂は救いを求めるように、自らを慰めるように問いを重ねる。


「この国は亡ぶべきだ。私の家族は、私の友は、皆、この国に消された。こんな国はもう、必要ないのだ。そうだろう?」


 だが、香坂は何も言わない。


「時の扉という神通力の研究の為に消された私の故郷を、この国は何事も無かったかのように消し去った。そんなことが許されるのか? 許される筈がない」


 その言葉に、合点行ったように樋口が頷く。
 三間坂は確かに、時の扉というものに詳し過ぎる。彼は元々、朱鷺若と縁のある土地の生まれだったのだろう。その地で研究を重ね、結果、その危険性に気付いた国に抹殺された。――なんて、勝手な。
 同情はあった。けれど、それだけでは終われない。香坂の中に息衝く彼等の意志が訴える。


「私はただ、前に進もうとしただけだ! この八方塞の闇の中から!」


 その叫びは、香坂には届かなかった。耳元で、驟雨が、霖雨が、春馬が言うのだ。


「どちらが前かも解らずに?」


 三間坂は口を噤んだ。言葉に言い包められたのではない。香坂に、消えた筈の彼等が重なって見えたのだ。


「お前のやっていたことはただの独り善がりな復讐だろう」
「だ、黙れ……。黙れ黙れ黙れ!」


 突然懐から取り出した拳銃。銃口を突き付け凄む三間坂に、香坂は眉一つ動かさない。


「時代遅れな亡霊共め! 貴様等は死んだのだ! 同じ穴の貉に過ぎない癖に、偉そうなことを――!」
「お前と一緒にするな。奪い傷付けることしか出来なかったお前と、一緒にするな」


 心は酷く冷静だった。目の前にいる男には引き金を引く力も存在しない。突き付けられた銃口に何の恐れも無い。恐怖が無ければ憎しみも無い。ただ、空しいのだ。
 必死に生きようとした霖雨も、その霖雨を救おうとした驟雨も、彼等を守ろうとした春馬も、誰も報われない。犬死とは言わない。今此処にいる自分は彼等の命を救われて、あの時彼等が消し去った大量の破壊兵器は想像も出来ない程の多くの命を守った。なのに、彼等は何も報われない。
 此処にいたいと。唯一それだけを願った霖雨の言葉を叶えてやれなかった。それが今は苦しかった。冷凍食品の餃子を、美味いと、また食べたいと言った霖雨の願いを叶えてやれなかった。
 けれど、それでも。
 何時か逢えるという、何の確証もないその言葉を信じて消えて行った彼等の思いを知っている。当たり前に命を搾取する時代だからこそ、たった一つしかない命の、たった一度しかない人生の大切さが解る。

 そのとき、三間坂が何か雄叫びにも狂った嬌声にも似た奇妙な声を上げた。何を口走ったのかは解らない。だが、引かれる筈が無いと思っていた引き金を、その人差し指が引いた。

――カチン。

 呆気ない程に小さな音が、空しく、静かに響いた。
 香坂は瞬き一つせず、その銃口を見ている。


「な、何が……」


 動揺したのは三間坂だ。続けて何度も何度も引き金に指を掛けるけれど、銃弾は発射されない。たどたどしい手付きでシリンダーを覗く三間坂の目に、銃弾は一つとして確認できなかった。


「弾切れ……!?」


 そんな馬鹿な、と肩を落とす。その途端、樋口の後ろから武装した機動隊が黒い波のように一気に押し寄せた。一瞬にして制圧された室内には抗おうとする意志など微塵も存在しない。
 自らの足で歩くことさえ止めた男がずるずると表へ引き摺られていく。
 その三間坂と入れ違いに、現れたのは志藤だった。


「どうやら、遅かったみたいだな」


 呑気な志藤には最早苛立ちすら湧かない。例え彼等が此処にもっと早く到着していたとしても結果は何も変わらなかっただろう。
 志藤は姿の見えない男を探して視線を泳がせる。


「驟雨と霖雨は如何したんだ?」


 その名に胸が痛んだけれど。


「――もう逝ったよ。……時代は廻るから、何時かまた逢える」


 懐から煙草を取り出して、ゆっくりと慣れた手付きで吹かす香坂に疑問を抱えながらも、志藤は微笑んで頷いた。


「そうだな」


 随分と長い間、太陽の届かない地中深くにいたような気がした。
 地下から脱出したとき、その光に目が眩む。けれど、其処に広がる突き抜けるような蒼穹を忘れてはいけないと思った。それは、霖雨が願い続けた青空だったから。







 ほとぼりが冷めた頃、朱鷺若があったとされる地に桜を植えた。花を付ける気配すらない苗木は、一見すればそれが桜とは思わないだろう。
 彼等の墓標のつもりだった。今回の事件の解決の報酬として一年近い休暇を貰ったが、その休暇が明ける前にその桜の様子を見に行くと、隣に覚えのない苗木があった。墓参りにと共に尋ねた樋口が、その苗木は梅だと言った。
 一本の桜の隣で、寄り添うように立つ梅の木。未だ花は咲かない。けれど、季節が廻り、春が訪れた頃、その小さな木には見合わない弾けそうに大きな蕾が付いていることに気付いた。一輪の桜と、二輪の梅。それはまるで彼等のようだった。
 雲一つない晴天に、雨の気配は無い。けれど、彼等の言葉が離れない。


――時代は廻るから、何時かまた逢える。だからどうか、その日までお休み……


 何時か、また逢える。





Act.21 the Rainbow.





 見頃を終えた桜は散るだけだ。春の長雨に打たれた桜が、筋を作る雨水に乗って花弁を流し、木は既に骨組みばかりになっている。夏の青々とした葉も無く、かといって飾る花弁もないその様は見れたものではない。人や獣に踏まれた花弁は変色し、地面に張り付く。


「やっぱり、此処も散っちゃったなぁ」


 残念そうに呟く男の隣で、女が微笑む。白いワンピースが風を孕んで揺れた。


「残念だったわね。また、来年にしましょう」
「そうだな。仕方無い」


 男は溜息を零し、辺りに視線を巡らせる。背の低い木々に紛れて蠢く影が一つ。


「おーい、●●! 帰るぞ」


 呼ばれたのは小さな子どもだ。いかにも活発そうな、インディゴのジーンズを穿いた少年。何か怪我でもしたのか頬には不釣り合いな程に大きな湿布が貼られている。


「今行くよ!」


 返事をして駆けて行く少年のスニーカーは泥塗れだった。夏はまだ先だというのに、黒いTシャツに僅かに汗を滲ませ、やって来た少年の相貌はその年齢を簡単には察することが出来ない程に美しく整っている。


「やっぱり、桜は散っちゃったんだね」
「ああ、また来年だな」


 既に一輪の花も無い桜をじっと見つめる少年を、女は愛おしそうに撫でる。母親なのだろう、浮かぶ微笑みは慈愛に満ちている。


「●●は、桜が好き?」
「うん!」


 元気よくそう答えた少年は満面の笑みだ。天真爛漫なその笑顔は母にそっくりだった。それを聞いた男――父親だろう――は、ふうんと口を尖らせて言った。


「俺は、梅が好きだな」
「梅?」


 少年は父を見上げた。その真っ直ぐな目は父によく似ている。
 男は、桜の隣に立つ細く歪んだ木を指して言った。


「寒風の中に咲き誇り、散りても尚、強き香を残す……」


 一陣の風が吹き抜けた。その風は何故か懐かしく、鮮やかな花の匂いがした。
 男の言葉は少年には難しかったようだ。少年は首を傾げ、その言葉の意味を問おうとする。けれど、男は豪快に笑うと少年の頭を乱暴に撫でた。


「お前にも、何時か解る!」


 何か納得いかないような、拗ねた顔をする少年を笑いながら、男は踵を返した。帰路に着く男を追って女が少年の手を引いた。


「さぁ、行きましょう」


 少年は手を引かれながら、最後に振り返った。花を散らせた二本の木は寄り添うように其処に立っている。吹き抜ける風が運ぶ懐かしい匂いと、何処からか覚えのある声が聞こえたような気がした。
 けれど、女の声に再び前を向き歩き出す。雨上がりの蒼穹に、鮮やかな虹の橋が架かっていた。




The End...?




2011.3.26